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蠢く影、世界の刃

紫禁城の輝ける琉璃瓦の下、立憲君主制という新たな衣をまとった大清帝国は、かすかな息吹を取り戻しつつあった。春の訪れとともに、宮殿の庭には桃の花が咲き乱れ、一見すると平和そのものだった。しかし、その芳香の中にも、権力の腐敗や、失われたものを奪回せんとする者たちの野望の匂いが、かすかに混じっていることを、玉座の上の幼帝だけが嗅ぎ分けていた。


河南省・彰德の洹上村。表向きは隠棲生活を送る袁世凱は、釣り竿を手に池畔に座りながら、北京からの報告に耳を傾けていた。その眼光は、肥満体に似合わず、鋭く陰湿であった。彼の背後には、忠実な側近がひざまずき、溥儀の新政権が打ち出した数々の政策について、細かく報告している。


「…かくして、『軍事統制府』の下、段祺瑞、馮国璋、王士珍、曹錕の四将軍は、互いに監視しあう役職に封じ込められ、蔡鍔が彼らを掣肘する要所に据えられました。また、国会開設の準備も着々と進められております」


「ふん…」袁世凱は低く唸った。池の水面に浮かぶ葦の切れ端をじっと見つめながら。「小童の戯れが、ここまで大きくなるとはな。宦官を懐柔し、我が北洋を分断し、今度は国会か。彼の背後に、一体どほどの知恵者がついているというのだ?」


「はっ…さようでございます。宮中の動向を探る者も、未だに陛下…いや、幼帝が独自に全てを指揮していると報告する者が多く、不可解極まりません」


袁世凱はゆっくりと釣り竿を引き上げる。針には何もかかっていなかった。


「未来が見える…だと? 荒唐無稽だ。」彼は嘲るように笑った。「たとえそれが真実であろうと、所詮は子供の夢物語に過ぎぬ。政治とは力だ。宮中で綺麗事を並べ、理想を語っていても、国は動かぬ。彼がどれだけ先を見通そうと、地上の『現実』——人心の機微、地方に張り巡らされた利権の網、兵士たちの胃袋——を知らなければ、その計画は砂上の楼閣に過ぎない」


彼の下には、溥儀の改革によって職を追われ、あるいは権限を制限された旧北洋の将校たちが密かに集い、不満をぶちまけていた。かつては袁世凱の麾下で栄華を誇った者たちも、今では失意の底にあった。


「袁公、このままでは我々北洋の基盤が崩されてしまいます!」一人の将校が拳を握りしめて訴える。「あの幼帝は、我々をまるで犬のように扱った! 軟禁までして、あの忌々しい蔡鍔に説教じみたことを…!」


「落ち着け。」袁世凱の声は低く、しかし威圧に満ちていた。「虎は獲物を狙うとき、じっと忍耐する。今は動かぬ。まずは、あの『四巨頭』の様子を見よう。かつての同僚たちが、いまや互いに足を引っ張り合う哀れな姿をな。」


しかし、彼の心中は静かではなかった。溥儀の不気味なまでの先読み能力は、確かに彼の計画に大きな障害となっていた。かつては、西太后の死後、時機を見て復権し、混乱に乗じて最高権力を掌握する——という筋書きがあった。しかし、その混乱そのものが、溥儀の手によって未然に防がれつつあった。


(ならば、違う手を打たねばならぬ。国内の不満を煽り、国際情勢を利用する…)


彼は旧知の日本軍部関係者との接触を、さらに密かに深化させていた。日本もまた、清朝の急激な「自立化」を快く思っていない。双方の利害は一致する部分がある。溥儀の「未来の知識」は確かに恐ろしいが、その知識が、現在の人心の機微や、地方に張り巡らされた利権の網の複雑さまで完全には把握できているとは思えなかった。袁世凱は、この「隙」を衝くことを考え始める。


「伝えよ。各地方の同志たちに、じっとしているように。しかし、目と耳は開けておけ。いずれ、我々の出番が来る」


北京から遠く離れた各地の軍閥もまた、静観と疑念の態勢を取っていた。


奉天では、張作霖が部下を集め、溥儀の新政権について協議していた。


「北京の小皇帝、なかなかやるようだな」張作霖は煙管をくゆらせながら、複雑な表情を浮かべる。「袁世凱をあっさりと追い落とし、北洋の連中をバラバラにした。しかしな、これで中央の力が強まれば、俺たち満州の地位も危なくなるかもしれん」


「大帥のおっしゃる通りです」側近がうなずく。「しかし、逆に言えば、朝廷が本当に安定すれば、我々も正式な地位を得て、この地の支配を認められるかもしれません。無闇に反抗すれば、あの幼帝の不気味なまでの『先読み』によって潰しにかかられる怖れがあります」


「うむ…」張作霖は深く息を吸い込んだ。「まずは様子見だ。袁世凱や、他の連中の動きを見極めねばなるまい。」


同様に、広西の桂系軍閥、雲南の新軍なども、それぞれに溥儀の改革が自らの地盤に及ぼす影響を測りかねていた。中央の統制が強まれば、これまでの半独立的な地位が脅かされる。しかし、無闇に反抗すれば、あの幼帝の不気味なまでの「先読み」によって潰しにかかられるかもしれない。彼らは、袁世凱の動向と、国際情勢の変化を、慎重に見極めようとしていた。一種の、不安定な均衡状態が、大清帝国の広大な領土の上に成立しつつあった。


紫禁城内でも、事態は単純ではなかった。立憲君主制の導入と袁世凱一派の追放は、逆に一部の保守的な皇族や満洲貴族の不安を掻き立てていた。祖宗の法を重んじ、満洲人優位の体制を維持したいと願う者たちにとって、溥儀の改革は明らかに「裏切り」に映った。


「これでは祖宗の法が乱れる!漢人に権力を分け与え、国会などという怪しからぬものを設ける。これが本当に大清の道なのか?」


粛親王善耆を中心とする硬骨の保守派は、摂政王載灃を囲み、激しく抗議した。紫禁城の一角にある彼らのサロンでは、不平不満が渦巻いていた。


「載灃様、あの幼い陛下は確かに非凡なお方でしょう。ですが、そのお方の『夢物語』に我が大清の国体まで付き合う必要があるのでしょうか!?」善耆の声は熱を帯びている。「宦官を懐柔し、北洋を分断する手腕は確かに見事でした。ですが、国政全体を西洋かぶれの『立憲』などに委ねてしまっては、いずれ満洲人の地位は地に落ちます!我々は、祖先から受け継いだこの国を、漢人に簒奪されるがままにするのですか!」


載灃はいつも通り、苦悩の表情を浮かべる。彼自身、息子のあまりに急進的な改革に内心では戸惑い、時に恐怖さえ感じていた。保守派の言い分も、一理はある。満洲人としてのアイデンティティと特権は、確実に侵食されつつあった。しかし、溥儀の未来予知の精度と、それを実行に移す冷徹なまでの意志の前では、反論することもできなかった。あの武昌の反乱を、見事に鎮静化させた手腕は、単なる子供のわがままではないことを物語っていた。


「…陛下の御意志だ。」載灃はうつむき、かすかな声で呟く。「朕…私も、従うしかない。陛下は…未来を見通しておられる。我々には計り知れぬ、大きなお考えがあるのだろう…」


「未来を見通す?」善耆は嘲笑した。「それが真実だとして、その未来が満洲にとって幸せなものだと誰が保証できます?! 我々は、今、この現実を生きているのです!」


保守派の不満は、単なる感情的な反発では済まされなかった。彼らは密かに、宮中の伝統的な儀式や人事を通じて、溥儀の改革に抵抗しようと画策する。また、地方に散らばる満洲人将軍や官僚との連絡を密にし、溥儀を「満洲人の利益を顧みない暴君」として非難する声を広め始めた。


政府中枢でも、新設の国会は混乱の様相を呈していた。旧来の科挙出身の官僚、地方の名望家、わずかながらも登場した新興知識人…それぞれの思惑が絡み合い、議事は遅々として進まない。溥儀が蔡鍔を要所に据え、軍政審議会を通じて軍部をコントロールしようとする動きは、文官たちの猜疑心も買っていた。


「軍人が、再び政治に口を出すのか?」「あの蔡鍔は、確かに有能だが、所詮は武弁だ! 彼に軍政の大権を委ねるのは危険である!」


溥儀は玉座の上から、このような宮中と政府の細かい軋轢を、すべて張謙和を通じた宦官の情報網によって把握していた。かつては腐敗の温床であった宦官組織が、今では皇帝の目となり耳となっていたのは、歴史の皮肉と言えた。


(愚かなる者たちよ。朕は大清そのものを救おうとしているのに。満洲か漢族か、そんなことで争っている場合か。目を覚ませ、世界は既に動き出しているのだ。お前たちの目の前の小さな権益など、吹き飛ばすような嵐が、すぐそこまで来ている)


彼は、これらの内政の煩わしさを感じつつも、より差し迫った外部の威脅——欧州で間もなく爆発する火薬庫に意識を集中させていた。国内の不満は、いずれ収拾しなければならない。しかし、それ以上に、国家の存亡に関わる国際的な危機が目前に迫っていた。


国際社会の反応は、複雑であった。


在北京のイギリス公使ジョン・ニコルソンは、本国への報告書にこう記していた。


「清国における立憲君主制への移行は、当初の予想以上に順調に進んでいる。幼帝溥儀は、単なる象徴ではなく、驚くべき政治的手腕と先見の明を示している。袁世凱の排除は、我が国の当初の予想に反する、果断な行動であった。この安定が続けば、極東における貿易と権益の保護にとっては有利に働く可能性が高い。しかし、注意すべきは、彼のドイツ帝国への独自の接近である。これは、我が国を含む列強に対する、一種の均衡策と見做すことができる」


イギリスは、清朝の「穏健な立憲化」を、権益保護の観点から概ね好意的に見ていた。特に、日本の大陸進出に対する潜在的な防波堤として、安定した清朝の存在を望む声もあった。しかし、溥儀のドイツ皇帝への独自の働きかけは、ロンドンに一抹の懸念を抱かせた。欧州情勢が緊迫する中、このような動きは、将来、何らかの形でイギリスの利益と衝突する可能性があった。


フランスとロシアも同様に、清国が自らの意志を持ち始めたことを認識し、警戒心を強めつつあった。フランスはインドシナにおける権益から、ロシアは満洲及び外蒙古における利権から、清朝の動向を注視していた。溥儀の改革が、これら列強の既得権益を侵す方向に進むのではないか、という懸念が広がり始めていた。


最も反応が鋭かったのは、言うまでもなく日本である。


東京の外務省および軍部は、溥儀による袁世凱排除と北洋軍閥の分断工作を、極めて重大な視点から分析していた。参謀本部の一室では、激昂する声が上がる。


「これは、我が国が長年培ってきた大陸への影響力に対する、正面からの挑戦である! 袁世凱は我が国と良好な関係を築く可能性のあった人物だ。それをあの小皇帝が葬り去った!」


「しかも、彼はドイツに接近し、孫文とも接触したとの情報がある。これは、我が国を排除し、欧米諸国と手を結んで対抗しようとする意思表示に他ならない!」


特に、溥儀がドイツに接近したこと、そして孫文との接触の噂は、日本にとって看過できないものだった。日本は、日英同盟を旗印に、欧州で戦争が起これば対独参戦の機会をうかがいつつあった。その際の足がかりとなる山東半島の権益を、清朝自らが主張し、さらにドイツと独自のパイプを持つとなれば、従来の戦略は修正を迫られる。


「あの小皇帝は、我々の手の内を、なぜか知っているかのようだ…。」ある参謀将校が低い声で呟く。

「あるいは、彼の背後に、我々を牽制しようとする欧米の勢力がいるのかもしれない」


日本の対清政策は、表面上は立憲改革を支持する姿勢を保ちつつ、その実、より慎重かつ、場合によってはより強硬な手段へと転換する可能性を秘め始めていた。浪人や「大陸浪人」と呼ばれる者たちを通じた、より暗な情報収集と攪乱工作も、活性化されようとしていた。彼らのターゲットは、溥儀の改革を推進する漢人官僚や、新軍の将校たち、そして何よりも、溥儀自身に対する監視にまで及ぼうとしていた。


ドイツ側の反応は、幾分か異なっていた。ヴィルヘルム2世は、溥儀からの贈り物と親書に、当初は驚き、やがて深い興味を抱いた。極東の幼帝が、モルトケの名を挙げ、皇帝自身の識見の重要性を説く——これは単なる外交辞句を超えた、何かを示唆していた。

「面白い少年だ。」皇帝は側近に語った。「彼は、我が帝国が抱える本質的な課題を、直視しているかのようだ。この東洋の小国は、我々が考える以上に、注意深く観察する価値があるかもしれん」


ドイツは、溥儀との独自のチャンネルを、将来何らかの形で利用できる可能性を見出し始めていた。それは、東アジアにおけるプレゼンスを維持するための、一枚の切り札になるかもしれなかった。


1914年6月28日。紫禁城の書斎で、溥儀は張謙和からもたらされた欧州情勢の報告書を読んでいた。その内容は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が、ボスニアの首都サラエヴォでセルビア人民主義者によって暗殺されたという、一つの事件に集約されていた。


(…来た。ついに、この時が。)


溥儀の手にある報告書が、かすかに震えた。彼はこの日が来ることを、この何年もの間、いや、前世の記憶を含めれば数十年もの間、知っていた。しかし、その知識が現実となった瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。これは、単なる歴史の通過点ではない。彼の第二の人生にとって、最初の真の試練の火蓋が切られた瞬間である。彼がこれまでに築き上げてきたすべて——宦官組織の掌握、軍閥の分断、立憲体制の構築、そして外交的な布石——が、この世界的大動乱の渦の中で試される。


彼はすぐに、摂政王載灃、蔡鍔、王士珍らを呼び集めた。養心殿の玉座の間に、重苦しい空気が流れる。


「欧州で、重大な事件が起きた」


溥儀の声は、年齢にそぐわない重々しさで響いた。臣下たちは、幼い皇帝の異様な緊張感に、息を殺す。


「オーストリアの皇太子が、セルビア人によって暗殺された。これは、単なる暗殺ではない。ヨーロッパ全土を巻き込む大戦争の、導火線に火が点けられたのだ」


「大戦争…!」載灃の顔から血の気が引く。


「そうです。」溥儀の目は、臣下一人一人の顔をゆっくりと見渡す。「この戦火は、やがて極東にも及ぶ。日本は、日英同盟を名目に参戦し、その矛先を…我が山東半島のドイツ権益に向けるだろう」


彼の指先が、壁に掛けられた巨大な世界地図上の山東半島を強く押さえる。


「朕は、すでにドイツ皇帝への布石は打ってある。我が国は、この危機を、単なる受難の時としてではなく、主権国家としての地位を国際社会に認めさせる『機会』に変えねばならない」


その目は、不安や動揺ではなく、静かな決意と計算に輝いていた。サラエヴォの銃声は、世界を戦火に巻き込み、同時に、未来を知る一つの魂に、壮大かつ危険な賭けへの挑戦状を叩きつけたのである。


(朕の知っている歴史は、ここから狂い始める。日本は山東に侵攻し、二十一カ条の要求を突きつけてくる。かつての朕は、その屈辱に何もできなかった。今回は違う。朕には準備がある。ドイツとのパイプ、英米への働きかけ、そして何よりも、国内の分裂を最小限に食い止めるという実績が。)


彼は蔡鍔を見つめる。


「準備は整ったか、蔡鍔」


蔡鍔は深々と頭を下げた。その目には、皇帝への信頼と、国家存亡の危機に対する覚悟が光っていた。

「はい、陛下。新軍の精鋭は、命令を待つだけです。山東省境には、陛下のご指示通り、最小限の示威部隊を配置しております。また、外交ルートを通じた情報収集も強化されております。」


「よろしい。」溥儀は玉座に腰を下ろし、再び遠くを見つめた。「朕は、この戦争が長期化することを知っている。そして、その終わり方も。我々は、その過程で、最大限の利益を引き出し、最小限の被害で済ませねばならない。これは、大清が真に独立した国として生き残るための、最初の関門なのだ」


玉座の間の窓から差し込む夕日が、幼い皇帝のシルエットを、大きく、不気味に歪めて壁に映し出していた。静寂が戻った部屋に、彼の囁くような声だけが重く響く。


「それぞれの持ち場に戻れ。嵐が、いよいよ来る。」


世界を巻き込む嵐の前夜。紫禁城は、再び、その深遠な謀略の坩堝となろうとしていた。国内には、未だくすぶる反発と不満。国外には、虎視眈々と機会を狙う列強。そして、そのすべてを見通そうとする、一人の幼帝。彼の孤独な戦いは、新たな、そしてより危険な段階へと突入するのである。


サラエヴォの報せは、各地に潜伏する勢力にも確実に伝わっていた。日本の大陸浪人、川島浪速は、奉天の自宅で部下と密議を交わしていた。


「ついに時期が来たようだな」川島は酒杯を傾けながら、にやりと笑った。「欧州が乱れれば、日本が動く。日本が動けば、我々の出番だ」


「ハイ! 清朝内部の不満分子との連携も進んでおります。粛親王善耆ら満洲皇族は、溥儀の改革に強い不満を抱いております。」


「よろしい。満洲人と手を組み、溥儀の基盤を揺るがせ。だが、直接手を下すのは愚かだ。我々は黒子に徹する。混乱が大きくなればなるほど、我が国が介入する口実ができる」


同じ頃、袁世凱の元にも、日本の軍部からの密使が訪れていた。内容は単純明快だった。日本が山東に出兵した際、袁世凱が旧北洋の勢力を使って清朝政府の行動を攪乱し、日本の行動を間接的に支援する——その見返りとして、日本の後ろ盾を得るというものだ。


袁世凱は密使を前に、深く沈思した。


「…わかった。しかし、時期尚早は禁物だ。あの小皇帝の目が、光っている。拙速に動けば、逆に罠にはめられる。」


彼は溥儀の「未来視」能力を、依然として恐れていた。しかし、世界大戦という千載一遇の機会を逃すわけにはいかない。じっとチャンスをうかがい、溥儀の注意力が国際問題に集中している隙を衝く——それが彼の選択だった。


夜の紫禁城。溥儀は一人、書斎で世界地図を広げ、思考を巡らせていた。


(歴史の流れは、既に変わっている。武昌起義は早期鎮圧され、孫文とも接触した。しかし、世界大戦という巨大なうねりは、そう簡単には変えられない。日本が山東に侵攻してくるのは、ほぼ確実だ)


彼の頭の中には、前世の知識がよみがえる。日本軍の膠州湾上陸、そして後に続く二十一カ条の要求…。あの屈辱を、再び味わうわけにはいかない。


(朕がやらねばならぬことは、三つある。第一に、山東における我が国の主権を、国際法に基づき明確に主張すること。第二に、ドイツとのパイプを活かし、可能な限り平和的にドイツ権益を回収すること。第三に、日本の侵略を、国際世論によって牽制することだ)


そのためには、国内の結束が何よりも重要である。保守派の不満、軍閥の動揺、袁世凱の野心——これらをいかにして封じ込め、国難に一致団結させるか。


「張謙和」


「はい、陛下」影から老宦官がひざまずく。


「宮中および各地の動向を、これまで以上に厳重に監視せよ。特に、日本の工作員と思われる動きには、注意を払え。しかし、表立った逮捕はするな。監視下に置けばよい。」


「かしこまりました」


溥儀は、張謙和が去った後、ため息をついた。この老宦官の忠誠心も、所詮は利害の一致に過ぎない。自分に権力と利益をもたらす限りにおいて忠実なのだ。本当に信頼できる者など、乳母の王焦氏くらいしかいないのかもしれない。


(それでもいい。朕は孤高であれ。この国を救うためなら、悪名を着ても構わぬ。)


彼は再び地図を見つめた。山東半島の形が、運命の刃のように映る。


(来い、日本。そして、諸外国よ。朕は、お前たちが思っているより、はるかに多くのことを知っている。この知識を武器に、大清の命運を賭けてみせよう。)


夜明け前の闇が、紫禁城を包み込む。幼い皇帝の孤独な戦いは、まだ始まったばかりだった。

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