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知らない時間

作者: YB

 十一月の夜の風は思いのほか肌寒く、吐く息が白く曇る。缶ハイボールのプルトップを開けた瞬間、甘い炭酸の香りが鼻腔をくすぐった。

 都内の雑踏のなか、私はレジ袋をぶら下げて歩く。仕事帰りにふらっと買った安酒だ。会社の派遣斡旋管理という気の抜けない業務を一日こなした後、この缶ハイボールが私のささやかな楽しみだった。

 スマホが震える。表示された差出人の名前を見て、思わず足を止める。


 ──梨香子


 高校を卒業してからろくに連絡をとっていなかった相手だった。二十代後半になった今になって、まさか彼女から連絡が来るなんて。

 電灯の下でメールを開いて読んだ瞬間、首をかしげる。


 ──1日、子供を預かって欲しい


 ずいぶん唐突な依頼だ。もともと梨香子は突拍子のないところがあったとはいえ、さすがに十年ぶりの連絡がこれとは。

 片手で缶ハイボールを持ち上げ、喉に一口流し込んだ。たちまちアルコールがじわりと体を温める。スマホの画面には続きの文章がある。


 ──久しぶり。急にこんなこと頼んでごめん( ゜Д゜)


 口調はあの頃と変わらない軽やかさが残っていた。懐かしさよりも戸惑いが先に立つ。そもそも、梨香子に子どもがいるという事実すら知らなかった。

 ハイボールの缶を握り替えながら、ふと高校時代が脳裏によみがえる。サッカー部が有名だった、なんの変哲もない公立高校。部活もやらずに放課後はさっさとアルバイトに出ていた私。そのアルバイト先の焼き肉屋で一緒だったのが梨香子だった。

 当時、私は接客がうまくできずに客と揉めることも多かった。無愛想だと言われるのは日常茶飯事で、オーナーにも「もう少し笑顔を作れないのか」と呆れられていた。ある晩、酔った客につっかかられた私が思わず言い返してしまい、相手が怒鳴り始めたとき──ふわふわした茶色い髪を揺らしながら、梨香子がスッと割って入ってくれたのだ。

「すみませんお客さま、サービスしますから落ち着いてくださいね!」

 舌足らずな甘えた声で、けれど彼女は客の怒りをうまくなだめ、私をかばってくれた。

 あとで「大丈夫~? ケンカしちゃうかと思った」と笑われたが、私はその笑顔に救われたのを覚えている。あの頃から、梨香子は可愛らしくておおらかな子だった。母親になったなんて想像がつかない。

 どうするべきか。スマホを握り直す手が、冷たい風でじんわりかじかむ。

 足元を急かすように冷たいアスファルトの空気が立ちこめる。私は思わず缶ハイボールをもう一度あおった。あの焼き肉屋での彼女との思い出が、どうしても私の心をぐらつかせる。

「仕方ないか」

 ポツリと呟いて、親指をフリックする。断るつもりで最初は画面を開いたのに、結局私の指が打ち込んだ言葉は短くて簡潔だった。

『いいよ』

 送信ボタンを押したあと、缶ハイボールの残りをぐっと飲み干す。ごくり、という喉の音がやけに大きく響いた気がした。

 夜風を受けながらマンションに戻り、オートロックを解除してエレベーターホールへ向かう。狭いエレベーターは、蛍光灯の眩しさが疲れた頭にチカチカと染みる。心臓のあたりだけが妙に騒がしい。



 梨理子はビューラーでまつ毛を作るような女の子だった。私は化粧はしないけど腕の毛は剃るような女の子だった。

 四ツ谷駅に到着すると、改札口前は少し混雑していた。普段からダラダラと過ごしている私にとって、有給を使ってまでやってきたこの瞬間が少し新鮮であると同時に、どこか緊張もしていた。

 少し立ち止まって周りを見渡すと、調整された空気の通る駅舎に、木漏れ日のように差し込む光が照らしている。

 そんなとき、昔あの焼肉屋で一緒に働いていた、梨香子の姿が目の前に現れた。手を振って近づいてくるその姿は、卒業してから十年近く経ったとはいえ、ほとんど変わっていない。

 相変わらず明るくて、ちょっと天真爛漫に見える。

「千織ちゃん、久しぶり! やっと会えた~!」

 梨香子は私に向かって駆け寄ってくる。本当に、あの頃と変わらないなと思う。

「梨香子は変わらないね」

 私は照れくさい気持ちを隠しつつ言った。

「えー、千織ちゃんはすっごい変わったね~。なんかこう……かっこよくなった大人って感じ!」

 梨香子の言葉に一瞬で高校時代の私が戻ってくる気がした。

「で、突然どうしたの?」

「ちょっと東京で人に会う約束があってね~、キララを連れて行けないの」

 梨香子はわざとらしく視線を外して言う。その姿に何かが引っかかるけれど、私は問い詰めることはしなかった。どうしても知りたいわけではないし。

「そうなんだ」

 代わりに目線がキララに移る。クリクリとした瞳が、少し不安げにこちらを見ている。

「キララちゃん、今日はお姉さんと遊ぼうか?」

 私はしゃがんで、キララの目線に合わせようとした。

「……はい」

 キララは小さくつぶやき、梨香子の足に背中を隠すようにして寄り添っている。

「キララちゃん、千織ちゃんは不愛想だけど、本当は優しいから大丈夫だからね~」

 梨香子がそんな言葉をかけると、キララの眉が膨らむ。

「なんだそれ」

 私はそう言い返した。キララはちょっとためらいながら、やがて私の差し出した手を受け入れてくれた。指先が少し冷たいけれど、確かな感触が私の心に伝わってきた。

「じゃ、お姉さんと一緒に遊ぼうか。時間も潰せるし」

 私は立ち上がって、キララに向かって微笑んだ。

 キララが少し考えてから、はにかむように「はい!」と、小さな声を返す。

 梨香子が今度は少し落ち着いた様子で言う。

「千織ちゃん、キララちゃんのことお願いね~。キララちゃんもわがまま言わないようにね?」

「はいはい、それじゃあ用事が済んだら連絡ちょうだい」

 私はそう答えて、改札口へと戻っていく梨香子の後ろ姿を見送った。

「キララちゃんは何歳?」

 梨香子の背中が見えなくなったのを確認して、私はキララにたずねる。

「……七つ」

 キララの舌足らずな声がか細く響いた。

「七つか。もう小学生だよね?」

「1年1組です」

「よし、じゃあ……東京ははじめて? どこか行きたいところある?」

「わかりません」

「まあ、そうだよね。そしたら……池袋に行こうか。水族館もあるし」

 キララが「はい!」と小さく頷く。ほんの少しだけ、さっきより表情が和らいだ気がした。

 私はそのままキララの手を引いた。改札を抜けて階段を降りる間、キララの小さな手の感触がずっと伝わってくる。

 十年ぶりに再会した梨香子の続きを感じていた──そんな奇妙な感慨に包まれながら、私は静かに足を進めた。



 平日の山手線の車内は空いていた。ビジネス街に向かう通勤ラッシュも終わり、まばらに座る乗客たちは本を読んだりスマホを弄ったりしている。車窓からは、高層ビルとビルの隙間に広がる秋のやわらかな光がちらりと差し込む。

 私とキララは並んで座席に腰掛けていた。彼女は少し緊張しているのか、背筋をピンと伸ばし、たまに私の顔をチラチラと窺ってくる。

 子どもと二人で電車に乗るのは初めての経験だ。私は何を話せばいいのかと頭を巡らせるが、気の利いた言葉がまったく浮かばない。仕方なく、ぎこちない微笑を向けてみると、キララはわずかに口元をほころばせ、すぐにまた視線を外してしまった。

 キララの横顔を見ていると、妙に既視感があることに気づく。目元や頬のふくらみは梨香子そのものだが、鼻筋から顎にかけてのラインが、違う誰かを想起させたのだ。

 思わず記憶の中を探ると、懐かしい光景がよみがえった。


 ──神山英寿


 サッカー部が強いことで知られる公立校で、あえてテニス部に所属していた、あの神山くん。すらりとした身長に端正な顔立ちで、女の子の人気が高かった。そういえば、梨香子はずっと彼に片思いしていた。

 私はキララの頬と鼻を交互に見つめながら、心がざわつくのを感じる。思わず車窓の外へ視線を逸らすと、当時の記憶がまざまざと胸の奥から浮かび上がってきた。

 高校の授業が終わったあとの教室。バイトまでの少しの空き時間を、私はよく梨香子と一緒に過ごしていた。

 梨香子はクラスの中でも目立つグループに属していて、いつも明るくて騒がしい。その一方で、私はあまり友達とつるまないタイプ。校舎の廊下を歩くときも、できれば一人で過ごすのが楽だと思っていた。

 ところが、同じタイミングで同じ焼き肉屋のアルバイトを始めたせいで、私たちはなんとなく放課後の時間を共有するようになった。

 最初はギャルっぽい梨香子が苦手だったし、向こうも私の無愛想をどう思っていたかは分からない。それでも、一緒に働くうちに奇妙な連帯感が生まれていったのだ。

 その日の教室は、部活組が既に体育館やグラウンドに散っていて、残っているのは数名ほど。窓からは秋のやわらかい日差しが差し込み、机の上にかすかな暖かさが広がっていた。

「ねえ、聞いてほしいことがあるの!」

 急に身を乗り出してきた梨香子は、頬をほんのり赤く染めている。いつもは常連客の悪口やバイトの愚痴で盛り上がる程度なのに、今日はやけに落ち着きがない。

「……なに?」

 教科書を整理していた私が素っ気なく答えると、梨香子は「えー、もっと興味持ってよ」とぷくっと頬をふくらませる。

 そして、何度も「言いたい、言いたい」と繰り返しながら、結局我慢できなくなったように一気に言った。

「……あのね、テニス部の神山くんのこと好きなの!」

 その瞬間、私の心臓がドキリと跳ねる。そういう話題に関心がないわけではない。だけど、唐突な恋バナに驚いてしまった。

「そうなんだ……告白でもするの?」

 微妙な返事しかできずにいると、梨香子は両手をブンブンして「無理無理! 絶対無理!」と大きく首を振る。

「神山くん、すんごいモテるんだよ! 私なんか相手にされないと思うし」

 へらへらと笑いながらも、その目は真剣だった。まるで、自分でも止められない恋心に戸惑っているように見える。私はそんな梨香子を見て、「可愛い奴め」と素直に口にしていた。

「ほえ? 今、私のこと可愛いって言った? もう一回言って!」

 勢いづく梨香子に、私は軽くため息をつきながら椅子から立ち上がる。

「うるさいな。ほら、バイト行くよ。今日も稼がないと」

「え~、千織ちゃんズルいよ~!」

 梨香子の声が教室に響く。その日はなんだか心がくすぐったかった。

 そんな回想が走馬灯のように駆け抜けたあと、私はハッと意識を現在へと引き戻した。山手線はちょうど池袋へ向かうアナウンスを流し、車内の自動ドアから風が吹き込んでくる。

「お姉ちゃん、どうかしました?」

 キララが不思議そうに首を傾げて、私の顔を覗き込んだ。その大きな瞳には、やはり神山くんの面影が混じっているような気がする。思わず動悸が速まるのを感じながら、私はできるだけ落ち着いた声で答えた。

「ううん、なんでもない。もうすぐ池袋につくよ。人が多いから、はぐれちゃだめだからね」

「はい」

 キララが素直な笑みを浮かべた瞬間、電車はゆるやかにホームへ滑り込んだ。ドアが開いて、まばらだった乗客たちがぞろぞろと降りていく。私もキララの小さな手を引きながら、池袋駅のホームへ足を下ろす。にぎやかな街の空気が、一気に二人を包み込んだ。



 サンシャイン通りを抜けて、道案内の看板に従いながら十分ほど歩くと、巨大な複合施設のビル群が視界に入ってくる。平日の昼前だが、人通りはそこそこあり、観光客らしき人々が立ち止まっては建物を見上げたりしている。そんな雑踏を、キララは嫌な顔ひとつせず、しっかりと私の手を握ってついてきてくれる。

 もしこれが梨香子だったら、「疲れた~、歩けない~」と言って早々にだだをこねていただろう。

 私はキララの細い手を感じながら、彼女の瞳やしぐさに、梨香子や神山くんの面影を重ねつつも、それとは別に「キララはキララ」と当たり前のことを考える。

「ペンギンさんいますか?」

 水族館へ直通の専用エレベーターを待っているとき、キララが聞いてきた。目を輝かせているあたり、興味津々らしい。

「たくさんいるよ」

「やった~!」

 両手を合わせて飛び跳ねるキララの姿が、やはり梨香子に重なってしまう。なんだか、懐かしさと微妙な戸惑いが入り混じる瞬間だった。

 エレベーターが屋上階に到着し、サンシャイン水族館のチケット売り場で入場券を購入する。ペンギンがいると聞いてから嬉しさを隠しきれないキララに、チケットを手渡そうとしたとき、彼女はさっと自分の小さなポシェットを開けた。

「いくらですか」

 キララは少女漫画の付録みたいな可愛い財布を取り出し、神妙な面持ちで私を見る。

「え、1200円だけど」

 私は奢るつもりだったのだが、そう伝える前にキララの瞳には涙が浮かんでいた。

「あの……千円しかありません」

 そう言って泣きそうになるキララを見て、私はとっさに言葉を継ぐ。

「いいのいいの。えっと、お金はお母さんから預かってるから。キララちゃんは気にしないで大丈夫」

「本当ですか?」

 か細い声に私は首を縦に振る。

「そんな嘘つく理由がないでしょ?」

「お母さん……」

 思わず唇を震わせるキララが可哀想でもあり、けなげでもあった。私は急いでチケットを彼女の手に渡してから、もう片方の手もきゅっと握って入場ゲートへ向かう。

 そういえば、梨香子の初デートは映画館だったっけ。どういう経緯かは知らないが、梨香子と神山くんが一緒に映画を観に行くことになった。

 ただ、梨香子は二人きりでは恥ずかしいと半ば強引に私を誘ってきた。

「おごるから~」

 そう言われ、結局は私もついていくことになった。神山くんもそんなに話すタイプではなく、梨香子も普段のテンションはどこへやら、人見知りを発動してほとんど話さない。

 私はなんとか場をつなぐように、これから見るアニメ映画の話題を必死に引っ張っていたのを覚えている。

 チケットを買うとき、梨香子は私と神山くんの分も払ってくれた。

「私はバイトしてるから平気だよ~」

 バイト代を貯めていたようだ。最初からそういう約束だったから、私はあまり気にもしなかったけれど、神山くんもまた、特に気にした様子はなかった。むしろ、それが当たり前かのように受け取っていたのを見て、梨香子が少し残念そうにしていたような記憶もある。

 映画の上映中、ちらりと隣を見ると、梨香子はスクリーンではなく神山くんを熱心に見つめていた。

 思えばあの日、私は生まれて初めて「恋ってすごいな」と感じたのかもしれない。

 そんな甘酸っぱい記憶を胸にしまいながら、私は目前に広がる水族館の大きな水槽へと視線を移す。透明なトンネルを泳ぐペンギンたちが、頭上を悠々と通過していく光景にキララが「わあ!」と大きく息をのむ。

「お母さん、仕事してるの?」

 キララの瞳がペンギンを追いかける横で、私は何気なくそう尋ねた。梨香子がいま何をしているか、ほとんど知らないのだ。子どもがいるくらいだから、もしかしてまだ焼き肉屋で働いているかも──いや、それはさすがにないかもと考えながら。

「はい、タオル工場で働いています」

 流れる水と光を見上げたまま、キララは答える。やっぱり焼き肉屋じゃないんだな、と納得したような気持ちになる。

「お母さん、忙しいの?」

「分かりません。わたしのお世話しないとだから、あまりお仕事できない」

「ふーん……キララちゃんはお母さんと二人で暮らしてるの?」

「はい」

「そっか……そうなんだ」

 梨香子の軽やかで天真爛漫な姿しか知らなかった私には、彼女が一人で子どもを育てている日常がまだうまく想像できない。

 ふと目線を水槽から外して、私はキララに話しかける。

「キララちゃんの好きな食べ物は?」

「えっと……ハンバーグです」

 キララが少し恥ずかしそうに答えると、私は「いいね」と笑みを浮かべた。

「ちょうど私もハンバーグが食べたい気分だ。もう少し見て回ったら、一緒に食べに行こうか」

「はい!」

 相変わらず瞳を輝かせてペンギンを見つめるキララ。その小さな返事に、私は心の奥がほんのり温まるのを感じながら、水族館の奥へと足を進めるのだった。



 高校二年の冬、梨香子と神山くんは付き合うことになった。あの映画デートからちょうど一年、二人は何度か一緒に帰ったり出かけたりしながら、徐々に距離を縮めていった。

 学校でもバイト先でも、梨香子が楽しそうにのろけ話をするものだから、私はさすがにうんざりすることも多かった。しかし、その笑顔は本当に可愛くて、見ているとこちらまでほほが緩むような気がした。

 恋愛にあまり興味のない私でも、梨香子の恋バナを通してドキドキしたり、イライラしたりと、いろいろな感情を体験させられたのは事実だ。

 梨香子が幸せになってほしい──そう心の底から思う自分がいた。

 二人の仲は学校でも噂になり、どうやら周りも神聖な生き物を見るような気持ちで眺めていたと思う。

 高校三年の冬。放課後の教室で、梨香子が唐突に言った。

「千織ちゃん、私ね、たぶん結婚するんだ~」

「はいはい」

 私はいつも通り、あまり気のない返事をする。梨香子の恋愛事情はこの一年間、毎日のように耳にしてきたから、そう驚きもしなかった。

「神山くんがね、自分は地元の大学に行くけど、梨香子とずっと一緒にいたいって言ってくれたの!」

「よかったじゃん」

 梨香子は目を輝かせていたが、私は淡々と答える。彼女と神山くんがこうなることは、ある意味想像の範囲内だった。

「大学卒業するまでのあいだ、私が神山くんを支えるんだ!」

「梨香子はいいね。目標があって」

「そうかな~。あ、そうだ、千織ちゃん。高校卒業してもまた一緒に働こうよ。私、千織ちゃんに合わせられるから」

 梨香子は無邪気にそう言うが、私はため息交じりに首を振る。

「無理だって。私、東京の大学に行くから」

「え? え? なんでぇ!?」

「家にいたくないってずっと言ってたでしょ。上京するためにバイトしてお金貯めたんだから」

「え~、やだよ~! 私、千織ちゃんとずっと一緒がいいもん」

「梨香子には神山くんがいるじゃん」

「うぅ~、やだやだ~!」

 梨香子はそう叫ぶと、そのまま大泣きしてしまった。翌日にはケロリと忘れたように振る舞っていたけれど、それがまた梨香子らしかった。

 結局、高校卒業の日もバイトの最終日も「んじゃね」「うん、またね」と、まるでこれまで通りに別れてしまったのだった。

 それから何度か梨香子からメールが来たが、東京での暮らしが忙しかった私は気のない返事をしてしまった。まさか十年近く、梨香子との連絡が途絶えるとは当時は思ってもみなかった。



 私はプラネタリウムの暗いドームの中で天井を見上げている。たくさんの星が瞬く映像の下、キララが小さな寝息をたてて眠っていた。

 大好物のハンバーグを平らげたあと、やはり歩き回って疲れたのだろう。最初は必死に目をこすって起きていたキララも、やがてふっと意識を手放した。

 私は、「慣れない東京で子どもを振り回すのも悪いから、休める場所を用意してあげよう」と考え、プラネタリウムに来た。暗くて静かな空間で星空を眺めれば、きっと気持ちも落ち着くし、子どもが眠っても迷惑になりにくい。それはほぼ想定通りの展開だった。

 うつ伏せ気味に座席に寄りかかって眠るキララの寝顔を見つめながら、私は自然と卒業後の梨香子と神山くんについて思いを馳せていた。

 あれから二人はどうなったのか。地元の大学に進学した神山くんと、梨香子はずっと一緒にいたのだろうか。それは、私の想像の域をでない。どのみち、梨香子はもう母親になっている。聞かれたくないこともあるだろうし、変に同情もされたくないだろう。

 ただ事実としてあるのは、キララはとても礼儀正しくて、他人を思いやることができる子だということ。あの天真爛漫な梨香子が本当に頑張って、キララに愛情を注いで育ててきたのだろう。そう思うと、私の胸は少し切なく、そしてほっとするような温かさをもって締めつけられる。

 そのとき、スマホがバイブレーションで震えた。画面には「梨香子」の文字が浮かび上がっている。


 ──無事に用事は終わったよ( ゜Д゜)


 相変わらずの顔文字に、小さく笑ってしまう。やはりあの頃と変わらないな。タイミングよくプラネタリウムの演目が終わるナレーションの声が響き、場内が少し明るくなってきた。

 私はキララの肩にそっと手を置き、優しく揺さぶる。

「キララちゃん、もう終わりだよ。お母さんのとこに帰ろうか」

 キララは寝ぼけまなこをこすりながら、「はい」とかすれた声で答える。

 小さな体はまだ少し眠たそうにふらついていたが、私の手を握り返す力はしっかりとあった。



 夕方の四ツ谷駅は、仕事帰りのサラリーマンや学生たちでごった返していた。改札口の前に降り立った私とキララは、人の波をかきわけるように人込みを進んでいく。すると、向こう側で手を振っている梨香子の姿が見えた。あの茶色い髪と柔らかな表情が懐かしくて、思わず笑みがこぼれてしまう。

「あ~、私のこと見て笑った~?」

 近づいてきた梨香子がぷくっと頬を膨らませる。私は首を左右に振ってごまかそうとするが、半分以上は照れ隠しのようなものだった。

「ごめんごめん。だって梨香子だけ昔のまんまなんだもん」

「むーっ! 私もちょっとは成長したもん」

 文句を言いながらも、梨香子の瞳はどこか嬉しそうだった。その横でキララは恥ずかしそうに私の手を握っていた。私はキララの肩に軽く触れながら笑う。

「成長したって分かるよ。キララちゃん、すごいいい子だった。梨香子、しっかりお母さんやれてるじゃん」

「そんなことないよ~」

 梨香子はいつもの調子で口をとがらせるが、その頬にはうっすら赤みが射している。私はそっとキララの手を放し目を見つめて聞く。

「キララちゃん、今日は楽しかったよね?」

「はい!」

 弾けるような笑顔で答えるキララ。駅の喧騒のなか、その笑顔だけがまるでスポットライトを浴びているように見えた。

「また一緒に遊ぼうね」

「次はお母さんも一緒がいいです」

 そう言うと、梨香子が申し訳なさそうな顔をする。

「キララちゃん……今日はごめんね。一緒にいてあげられなくて」

「ううん、お姉さんがたくさん遊んでくれたから平気だったよ」

 そのやりとりに、梨香子は本当にお母さんになったんだなと改めて思わされた。

「千織ちゃん、今日は本当にありがとう」

 このタイミングで神山くんとの関係を聞きたい自分もいる。しかし、どうせもう会うことはないだろうと思うと、わざわざ家庭の事情に踏み込むのは気が進まなかった。興味本位で踏み込むには、あまりにデリケートな問題だ。

「どういたしまして。梨香子、キララちゃん……じゃあね」

 私が言うと、梨香子は「うん、千織ちゃんまたね!」と声を上げ、キララも「お姉さん、バイバイ!」と小さな手を振ってくれた。

 私は二人に背中を向けて、タクシー乗り場のほうへ足を向ける。夕暮れの空気と人々の喧騒が入り混じる駅前で、心臓だけがまだ少し早鐘を打っているのを感じながら、私はそっと一人歩き始めた。



 ファミレスで簡単に夕食を済ませた後、私は夜の街を歩いていた。

 遠くのビルの窓には灯りが点々と滲み、都会の空気が肌を冷やす。梨香子とキララを見送ったときの景色が、まぶたの裏にしつこく焼き付いて離れない。

 途中、コンビニにふらりと立ち寄る。缶ハイボールを買って、いつものようにプルトップを開けると、冷たい炭酸の風味が鼻をくすぐった。ひと口、ふた口と飲むうちに、自然と梨香子のことを考えてしまう。

 夕暮れの四ツ谷駅で再会した梨香子には、泣いた跡が残っていた。あの用事とやらが上手くいかなかったのだろう。私たちと合流するまでのあいだ、どこかで一人泣いていたのかもしれない。

 昔から彼女は、感情を隠そうとせずに大泣きするタイプだった。梨香子はやはり変わっていない。

 私はどうだろうか。

 梨香子に「すっごい変わったね~」と言われたことを思い返す。

 確かに私は変わった。仕事はきついけれど、それなりに安定している。家賃十万円のマンションに住んでも、生活にそこまで困っているわけじゃない。ファッションだって少しは気を使うようになったし、仕事仲間と飲みに行くこともある。あの頃の私からは想像がつかない暮らしを送っている。

 だけど、梨香子は見た目も、話し方も、ほとんど変わらない。あの頃のまま時間が止まってしまったかのようだ。

 もちろん、それを羨ましいとは思わない。おそらく梨香子には、自分の時間を進める余裕がないのだろう……キララの存在を最優先にする生活というのは、きっとそういうものだ。

 そんなことを考えるうちに、私はふと気づく。

 高校時代、私はずいぶんと梨香子に変えてもらったのだ。

 メガネをコンタクトに替えたのは梨香子が勧めてくれたから。

 バイト先での愛想笑いも、彼女が実践しながら「こんな風に笑えば、だいたい大丈夫~」とアドバイスしてくれた。

 教室で孤立せずに済んだのも、バイト先で揉め事を起こさずに済んだのも、いつだって梨香子が私の近くにいて、気がつけば助けてくれていたからだ。

 あの頃の私は、そういうことをあまり意識してこなかった。

 「バイト仲間の一人」「ちょっと話すだけの関係」くらいに思っていた。でも、梨香子にとって私は、「キララを預けても大丈夫」だと思えるくらいに信頼できる存在だったのだ。

 時間が経って、ようやく私はそのことに気づく。

 胸の奥がじわりと熱くなるのを感じて、私は缶ハイボールを一気に飲み干した。すべてを流し込むように、空になった缶をゴミ箱に捨てる。

 そして、衝動的にスマホを取り出し、梨香子の名前をタップした。

 コール音のあと、電話が繋がる。


『もしもし、千織ちゃん? キララちゃんが何か忘れ物でもした?』


 電話の向こうにいる梨香子の声は少し鼻声に聞こえた。


「もう家に着いた?」


『うん。さっき帰ったところ。キララちゃんからペンギンさんの話を聞いてるよ~』


「あのさ、神山くんとは会えたの?」


『え? え?』


「いいから答えなさいよ。昔、さんざんのろけ話を聞かされたんだから、それくらい聞く権利はあるでしょ?」


 私が強めに言うと、梨香子が戸惑いながら小さく息をつくのが分かった。


『えっとね、神山くんおしゃれな美容院で働いてたの。プロテニス選手になったら私のところに帰ってきてくれるって約束したのに……美容師さんになっちゃったら、プロにはもうなれないよね』


「そっか……声かけなかったの?」


『指輪してたんだもん。私にはくれなかったのにな~。あははっ』


 梨香子の鼻をすする音が聞こえる。その音が胸に突き刺さる。


「梨香子、次の土日って休み?」


『うぅっ……日曜は休み……』


「じゃあ、空けといて。私がそっち行くから。何があったか全部聞かせなさいよ。もっと早く連絡してきなさいっての」


『千織ちゃん……うぅ……』


 嗚咽とともに、スマホ越しに聞こえる彼女の声。私の頬にも涙が伝っていくのを感じた。


 その時、キララの声が聞こえてきた。


『お母さん、泣いちゃった。遊びに来てくれますか?』


「キララちゃん──私の知らない時間の話、聞かせてよ」


 すると、電話の向こうでキララの声が飛び跳ねるのが分かった。


『あのね、あのね───






面白いとは何か?その3。これが僕の答えでいいです。『思い出すことは面白い!』子供の面影に記憶がよみがえり、誰かを思い出すことを文学めいたものと呼んでも差し支えないと思います。ぼちぼち長編に戻りますか。

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