常春
その少女は、見上げると気が遠くなるほど高い、花の天井の下で生きてきた。
世界には、いたるところに巨大な木が生えていて、その木々はいつでも、花が満開になった枝を少女たちの頭上に差し掛けている。木はどれも、何十人も集めないと囲めないぐらい立派なものだ。空という空は全て花で覆いつくされていた。
その薄赤色の花はほのかに光っていて、少女たちが住む世界は、その柔らかい光でいつも薄明るかった。花の下にある全ては穏やかに生きていた。そこには夜はなく、天気の乱れもなく、厳しい季節もなく、ましてや災害などというものも存在しなかった。花の下の世界しか知らない少女は、そのような世界の変化を想像したことすらなかった。
少女は小さな集落の一員だった。人々は花の咲く木の下に、また別な、背の低い木を切って作った家ををいくつも建てて住んでいた。
その日は祭りをすることになっていた。
本当は、早いうちに適当な家に入って、お祝いに参加するように言われていたのだが、少女は何となくそういう気になれず、その辺をぶらぶら歩いていた。ひょっとすると、初めての祭りに興奮気味だったのかもしれない。集落の皆はお祭りのために家へ引っ込んでしまったようで、外には誰もいなかった。
少女は手近な木の根に腰を下ろした。
花の天井はいつにも増して色鮮やかだった。よく見ると、花はゆっくりと揺らめいていて、薄明かりが波打っているようだった。少女はそれにすっかり魅入られてしまった。きっと今日は、花が綺麗なことをお祝いするお祭りなんだ、こんな素晴らしい景色を見られないなんて、さっさと家に戻った皆がかわいそうだと、少女は思った。
少女はしばらくそれを眺めていた。花の揺らめきはだんだん大きくなって、踊っているようにも見えた。
「おい、何をしている?」
突然声をかけられて、少女は弾かれたように顔を上げた。すぐ近くの家に住む、集落の先生の一人だった。
「早く家に入りなさい。どこでお祝いするか迷っているなら、うちに来たらいい」
「そうじゃなくて、花が綺麗だったから」
先生はきっと目を吊り上げた。少女はそんな表情を見たことがなかったので、恐れるというよりもむしろ困惑した。
先生は少女の手をつかんで立たせ、引っ張った。少女は首を振って、言う。
「花が綺麗だから、見ていたいんだってば」
「駄目だ。皆と一緒にお祝いしないと」
「でも、花が綺麗だからお祝いするんでしょう? だったら見ていた方が――」
突然ごうっと身を打つような音がして、頭上の花が振り回されるようにうねった。少女は呆気に取られて天を見上げる。
「嵐だ。だから早く家に入れと言ったのに!」
先生は少女の肩を抱え込むようにして走り出した。少女は転ばないように必死で足並みを揃えながら、背後を振り仰いだ。そして、明るい花の天井が一瞬裂けた先に、今まで見たこともない、真っ暗な色を目にした。それは黒を煮詰めたような色で、なのに眩しいほど光って見えた。
「待って、ねえ、待って! 今――」
「見ちゃ駄目だ。さあ、着いた。皆待ってる」
先生は先ほどの動転した様子が嘘のように落ち着いた顔で、少女を家の中に押し込んだ。ぴしゃりと戸が閉められて、外は見えなくなってしまった。
祭りの間もずっと少女はぼうっとしていた。たくさんの皿が並んだごちそうの膳も、集落の大人と子どもが一緒になって歌ったり踊ったりしているのも、どうでもよかった。むしろ、皆があまり陽気に騒ぐものだから、今も続いているはずの、外がごうごういう音も聞こえなかった。
あれがきっと空というものなのだ、と少女は思った。今まで想像だにしなかったものに少女は震えた。空という言葉を知ってはいても、花の上に何かがあるなんて、一度も本気で考えたことはなかった。
いや、本当にあれは空だったのだろうか。本当に花の上に何かがあるのだろうか。花の上にあると思われたあれは、実はやっぱり花の一部で、あの木には花が二種類咲くのかもしれない。
少女はだんだん自分の目で見てみなくてはと思い始めた。そうでなくては居ても立ってもいられないだろうとも思った。穏やかな世界に生きてきた少女は、何かを不思議に感じたことがなかったので、初めて疑問というものを持ったこのとき、もやもやとした気持ちを持て余してしまったのだ。
木にはあちこちにこぶがあって、おまけに所々曲がりくねっているので、登れないことはなかった。しかしなんせその木は背が高かったので、花の咲いている辺りへ辿りつくだけでも、とても長い時間がかかった。少女は時々手ごろなこぶに座って、懐に入れて持ってきていたおにぎりを頬張った。
いよいよ花が咲いている一番低い枝に手が届くと、辺りは光で満ち、まるで花の光で全身を包まれているようだった。何人かで並んで歩けそうなほど太い枝が無数に伸びていて、どの枝も先の方を見てみると、花が咲き誇ってきらめいていた。全てが照らされて、陰になった場所はなかった。少女はなんだか嬉しくなって、どんどん登り始めた。
と、ある辺りで少女は、幹が奇妙な具合にでこぼこしているのを見つけた。奇妙というのは、今までのような丸いこぶとは違って、整然とした四角いでっぱりが、幹を螺旋に取り巻いているのだ。まるで木が勝手に作った階段のようだった。
少女はおそるおそる、段の最初に足をかけた。今までのこぶと同じようにしっかりしていて、少女が体重をかけても大丈夫そうだった。
少女はゆっくりと段を上っていった。しばらく進むと、段が大きな洞へと向かっているらしいことが分かった。
少女は段を上りきると、光に満ちたこの場所で、唯一薄暗いその洞をのぞきこんだ。
小さな部屋ほどもある洞の中には誰かが座っていた。真っ白な着物を着ていて、若い男性であるように見えた。そのひとがふと顔を上げて少女に目をとめたので、少女は挨拶した。
「はじめまして。あなたは誰?」
「私はここに住んでいる者です。あなたこそ、誰ですか?」
「下にある集落に住んでるんだけど、空が見たくて、登ってきたんだ」
そのひとはちょっと首をかしげた。よく見ると、普通なら耳があるはずのところから、瑞々しい葉が数枚ずつ生えていた。
「どうして空を見たいなどと考えたんです?」
「この前の嵐で、黒いのが見えたから」
「なるほど。強い風で、見えてしまったんですね」
そのひとの口ぶりがどこか残念そうなので、少女は訊ねた。
「空が見えるのはいけないことなの?」
「あまり、いいことではありません。嵐のときには家に戻るように言われませんでしたか?」
「あの日はお祭りだったから、お祝いのために家にいなさいって言われた。でも、嵐のことなんて聞かなかったよ」
「それはきっと、先生たちがあなたたち子どもを納得させるための嘘でしょう。嵐のことを知ったら、子どもは怖がります」
そのひとは立ち上がって、洞から出てきた。
「あなたは空見たさにここまで登ってくるような人だから、このまま帰されると気に食わないでしょう。ちょっとだけ、空を見せてあげましょう」
少女はそのときになって初めて、段が洞よりずっと高いところへ向かって続いていることに気づいた。
そのひとが段を上り始めたので、少女はその少し後をついていった。
木のこぶの階段は、幹を巻きながらかなり上の方まで続いていたが、そのひとは段を上りきらないうちに、ある枝にひょいと乗り移った。
「空を見るには、一番上に行くんじゃないの?」
「ここからでも十分見えますよ。来てごらんなさい。ほら、花の隙間から」
そのひとが指先で花をかき分けたところを、少女は見上げた。
見渡す限りの黒色と眩しい光が、いっぺんに少女の目に飛び込んできた。
底知れない暗い空には、大きな川のような光の欠片の流れが無数にあって、それが一粒一粒激しく輝きながら、ゆっくりと動いていた。花の柔らかい光とは似ても似つかない、眉間をがつんと殴られるようなきらめきだった。
「これが、空です。どうですか?」
「あれは……何?」
「あの光は、死んだ人たちの命です」
「死んだ、って、どういうこと?」
「空の向こうには、こことは違う別の世界があります。この世界にいられなくなった人は、向こうの世界に行くんです」
よく分からなかったので少女が黙っていると、そのひとは続けた。
「この花たちは、こちらの世界と向こうの世界を隔てています。普段は花の下にいれば、あらかじめ定められた死を除けば、向こうに行くはめになることはありません。ですが、たまに、向こうの世界の命たちが、わっと荒ぶることがあります。そんなときには嵐が起きて、こちらと向こうの違いが曖昧になってしまうんです」
そのひとの顔には表情らしい表情が読み取れなかったが、少女には何となく、微笑んでいるように見えた。
「嵐が起きたあとだけは、こうして空を見ることができます。でも、決して身を乗り出してはいけませんよ。こういったときは、吸い込まれるように、向こうに落ちてしまうことがありますから」
「向こうの世界に行ってしまうと、どうなるの?」
「あちらはとても苦しい世界だと聞いています」
そのひとはそれだけ答えた。
「さあ、もういいでしょう。もといたところに戻って、また穏やかに暮らしなさい。焦らなくても時が来たら、誰しも向こうへ行かなくてはならないのですから」
少女はふと気になって、訊ねた。
「あなたは、ずっとここにいるの?」
「はい。ここに住んでいますから」
「でも、空に近いでしょう? 危なくないの?」
「危なくないこともないですが、ここに住んでいるわけですから、仕方ありません」
「花の下が安全なら、下りてきて集落に住めばいいのに」
「私は、木の上にいなくてはいけないんです。花の世話をしないと、みんな枯れてしまう」
「なら、ひとりでいるの?」
「そうかもしれませんね」
少女はしばらく考えて、言った。
「だったら、次に嵐が起きたら、空を見にまた登ってくる。そのときに、もっとたくさん向こうのことを教えてよ」
「わざわざここまで登ってくるぐらい、興味があるんですか?」
「それもあるけど、あなた、ずっとひとりだと寂しいだろうから」
そのひとは今度、どこか困ったような目をした。
「あまり余計なことをすると、大人に逆戻りしてしまいますよ」
その言い方から、大人に戻るというのはあまり望ましくないことらしいと想像はついたが、少女はきっぱりと返した。
「あなたがずっとひとりでいる方が、かわいそう」
「……分かりました。また来てくれたら、歓迎しましょう。ただし、嵐の真っ最中には、ちゃんと家の中にいるんですよ」
「うん、気をつける」
また長い時間をかけて、ようやく地面に降り立ったとき、少女は辺りを見回して、つぶやいた。
「あれ? 新しいおじいさんやおばあさんが増えてる」
お題:ハイファンタジー×純朴
毎週日曜日に習作を投稿していく予定です。




