第九話
早朝、樹は登校の準備を行う。学ランの上に防寒ジャケットを羽織り、新品の鼻まで覆うネックウォーマーを身に着け、ジェットヘルメットとグローブを抱えて、リュックを背負う。
玄関の戸車とレールの間にたまった砂利が擦れて、ガラガラと響く。体が縮みそうな空気、頬は赤く染まる。
ジェットヘルメットをかぶり、ジャケットのポケットにグローブを入れて、家の横にある倉庫のシャッターを上に押し開けた。
真っ暗な倉庫に、ぼんやりとした明るさが入り込み、バージンベージュのスーパーカブが現れる。
所々土埃や飛び石で傷ついているボディ、大きい銀色の荷台。ピンクナンバーには自賠責保険のシールが輝く。
メッキカバーが施されたマフラーの上にタンデム用のステップがついている。
樹はシートをそっと撫でて頷いた。サイドスタンドをはらって、倉庫から外へ。
もう一度サイドスタンドを立てた樹は、隣の平屋に顔を向けた。
コンパクトな印象を受ける三ドアの外車。全体的に丸みがあるフォルムで、右側テールランプとナンバープレートの間にONEと表記されている。
支度をして出てきた柚野真白が、澄んだ茶色の瞳に映りこむ。肩より下まで真っ直ぐに伸ばしている茶髪、大きいサイズのスマホと睨めっこをする漆黒の瞳と横顔、肩を落として溜息をつく姿さえ魅入ってしまう。
樹の熱い視線に気づいた真白は、少しだけ眉を下げて微笑む。
「おはよう、樹くん。昨日は手伝ってくれてありがとう」
「おはよう、ございます」
静かな声と一緒に頷いた。
「気を付けてね」
「はい……」
真白は運転席の扉に手を伸ばして、俯くと唸るように考え込む。その間も樹はジッと真白を見つめている。
「えーと、い、いってらっしゃい」
送り出す言葉を躓きながら、声に乗せた。
目を大きくした樹は、
「……行ってきます」
力強く頷き、キーをカブに差し込んだ。キーを回せば一瞬だけ電子音が聴こえた。丸目ヘッドライトは前方を照らす。
グローブをはめて、さらにハンドルカバーに突っ込み、握りしめる。
セルスイッチを右手の親指で押せば、静かにエンジンが始動。樹はホッと安堵の息をつく。
左足のつま先を踏み込んで、右手はゆっくり捻ってエンジン音を響かせ、マフラーはブルブルと揺れる。タイヤが動き出す。
あぜ道を、ひび割れた舗道を進んでいく樹とカブを先に見送った真白は、ふぅ、そう息を吐き出す。
昼休憩、クラスメイトの平沢絵里が、幼さが残る声で樹を呼んだ。
「この前はありがとうー助かったよー」
樹は席から静かに頷いて、絵里を見上げる。
同じ席で弁当を開けて食べている爽やかな印象を周りに与える宮代雄大と、購買のパンを食べているメガネをかけた高橋道弘も顔を上げた。
「ねぇねぇ蒲原君が乗ってるバイクって二人乗りとかできるの?」
絵里の疑問に、樹は答えられずスマホで祖父にメッセージアプリでそのまま疑問を送る。
すぐに既読がついて、その十秒後には『できる』『タンデムシートをつけたら』と返信。
「できるって、シートを替えないとダメだけど」
「へぇー冬は寒いけど、一度でいいから後ろに乗ってみたいなぁ」
絵里は頭上に妄想を膨らませてニコニコと笑顔。
雄大と道弘はお互い目を合わせて苦笑い。
「いやぁあれカブでしょ? もっと大きいバイクだったら、っぽいけどさ、あれはなんというか、ダサくない?」
雄大の感想に、樹と絵里は目を丸くさせてしまう。
「えーそうかなぁ」
「……ダサい」
抉られた気分で目を伏せた樹に、道弘は焦る。
「け、決して悪い意味で言ったわけじゃないぞ同志! 二人乗りするなら他のバイクの方が絵になるって話だ! 普段乗ってる姿は思わず撮りたくなるぐらいカッコいいぜ!」
「まぁでも配達とかのイメージが強いしな」
道弘のフォローに同調しない雄大に、絵里は呆れてしまう。
「宮代君はいっつも冷めてるんだから、もっとこう、ロマンを持ちなよ」
「なんだそれ」
「ロマンは大事だぞ! 宮代」
樹を置いてけぼりに会話が進んでいくなか、スマホから通知音が響く。
茶色の瞳が揺れる。樹は指先を震わしてアプリを開いた。
『昨日言ってた克服を手伝うって、具体的にはどういうこと?』
髪を掻き、どう返信すればいいのか一人で考え込む。
あれも違う、これも違う、真っ直ぐ伝えられない、ぐるぐる回る樹の思考。
「焦った顔して、大丈夫か?」
怪訝な表情を浮かべて声をかけてきた雄大に、樹は肩を震わした。
「ま、まさか、女か!?」
青ざめる道弘に、樹は目を丸くする。すぐに自信なく首を小さく横に振った。
「……色々あるんだし、そんな深く突っ込まないの。それじゃあ次は移動だし、じゃね」
頷いた樹と、拗ねるように頬杖をつく雄大、そして道弘は手を振る。
放課後、校舎の自販機を前に樹は立ち尽くす。困ったように、アタリと自販機のモニターが音もなく表示。
数秒考えた後、樹はふと思い出した。迷わずボタンを押して、アタリのドリンクを取り出す。手は熱に触れて温度が上がる。
駐輪場に行く前に、樹はグラウンドへ向かう。
ジャージ姿の平沢絵里がバインダーを抱えて走っている。
何も言わずに近づく樹に、絵里は目を丸くさせて立ち止まった。
「や、蒲原君。これから帰り? 気を付けてね……と、どうしたの?」
「これ」
絵里に温かいドリンクを渡す。ラベルにココアを表記された蓋つきの缶だった。
そっと受け取った絵里は、手に熱が伝わってくることよりも、樹とココアを交互に見る。
「……当たったから。マネージャー大変だろうけど、頑張って」
「あ、ありがとう。そんな気を遣わなくていいのにー」
濁すように笑い声を混ぜる絵里は、静かに頷いた樹の背中を見送った。
絵里は顔の熱さは、頬に添えたココアのせいにして、部員が集まっているグラウンドへ急いだ。