第六話
柚野真白は真新しい平屋を外から眺めて、肩をすくめる。漆黒の瞳を細くさせて、溜息を漏らす。
午後、カバンを肩に提げて小さいリモコンで玄関を施錠。
「こんにちは」
静かな挨拶が隣から聞こえ、真白は微かに肩を震わした。
軽トラから降りてきた五十代後半の丸メガネをかけた男性は、蛍光の黄色いジャケットと帽子、グローブをはめている。
「善一さん、こんにちは」
樹の祖父、蒲原善一は、
「お昼からか?」
そう簡単に訊ねた。
「はい……」
眉を下げて困ったように答える。
「どした?」
「あ、いえ、講義のあと、友人から飲み会に誘われまして」
「酒、飲めるのか?」
「いえ、苦手な方です。飲みたいなって気持ちはあるんですけど、善一さんは平気、ですか?」
善一は静かに、ふっ、と笑みを零すだけ。
特に何も返ってこないので、真白は不思議そうに眉を下げる。
「えーと、それでは失礼します」
「あぁ、いってらっしゃい」
送り出す言葉に、運転席の扉に伸ばした手を止めた。真白は一度俯き、唸るように考えながら顔を上げて善一に、
「い、い……いってきます」
上品さを意識して微笑み、照れも混ぜて言い直す。
運転席に乗り込んで、ブレーキを踏み、赤い丸いスイッチを押して、エンジンを始動させる。
真白は大きく息を吐き出す。
「はぁーなんか、調子狂う」
呟いた後、サイドブレーキを解除してアクセルを踏んで三ドアの外車を動かした。ペッパーホワイトソリッドという色に塗装された小さな乗用車は真白を乗せて、乾いた田んぼに挟まれた舗道から大きな交差点に向かって進んだ……――。
午後の講義が終わり、辺りは既に薄暗い。友人を乗せて、待ち合わせのレストランへ向かう。高価なブランド物の服に身を包んだ真白と友人。
レストランに到着しても、真白は浮かない表情を浮かべている。
「ちょっと真白、もっと楽しくしないと相手に失礼でしょ?」
友人の呆れた言葉に、真白は眉を顰めた。
「母親と同じこと言わないで。分かってる、でも私すぐ帰るかも」
「えぇーじゃあその時は言ってよ。アタシも帰るし」
「イケメンの御曹司はいいの?」
「イケメンと御曹司は大事だけど、帰りの足がないのはもっと困るから」
真白はジト目で睨み、肩をすくめる。
立て看板には『本日貸し切り』と書かれていた。
扉を引き開け、友人と共に入ると、既に何人か集まっていて、男性はスーツ、女性はドレス。
真白と友人は挨拶を済まし、どこの大学で、両親がどこの大企業に勤めているだとか、老舗だとか、新しいビジネスの話だとか、真白にとって退屈でしかない会話が続く。
友人は赤も白も関係なくワインを飲み、御曹司と呼ばれる相手に話しかけては盛り上がっていた。
全く盛り上がっていない真白は隣で相槌を打ち、ただ話を聞き流している。
「父が入学祝いにマンションを購入してくれたんですよ」
「両親と今度海外旅行をしながら会社の視察に行く予定なんです」
「この店は母の友人がオーナーで」
流れるような自然の会話が飛び交う中、時折聞こえてくる家族の話だけが真白の耳を刺激する。持っているソフトドリンクが入ったグラスに力が入りそうで、真白は意識して上品に微笑んだ。
「ごめん、そろそろ帰ろうかな」
そう友人に零す。
「え、もう帰るの?」
「一時間もいれば十分でしょ、もう聞きたくないし」
「うーん、やっぱりタクシーで帰るから、いいや。真白、気を付けてね」
真白は呆れつつ、相手側に帰ることを伝えて、誰よりも早くレストランを後にした。
運転席に乗り込んで、大きいサイズのスマホを手に取り、液晶画面を覗く。着信履歴も、メールの履歴もない。唇を強めに噛み、大きく息を吐き出した。
スマホをカバンにしまい、最寄りのコンビニまで車を走らせる。真白は梅のチューハイを一缶、手に取ってレジに向かう。
それだけを購入して、外灯がほとんどない乾いた田んぼに挟まれた舗道を進み、窪みもあるあぜ道を進んで、我が家に帰ってきた。
玄関の前に車を駐車して、玄関の鍵をリモコンで操作して解除。扉から電子音が鳴る。
家の中には最新ハイテク洗濯機、乾燥機、タッチパネル付き冷蔵庫や電子レンジが揃っていた。ブランド物は全て衣裳部屋にあり、高価な服はクリーニングから戻ってきたまま袋をかぶっている。ベッドのシーツと掛け布団はそのまま。
テーブルにチューハイを置き、イスにストン、と座り真白は目を細くさせて、チューハイを睨んだ。
首を横に振り、覚悟でも決めたように缶の飲み口を指で弾き開け、桃色の唇を飲み口につけた。
樹はバージンベージュのスーパーカブを降ろしてもらい、祖父の善一と一緒に頭を下げる。
「遠いとこまで、どうもありがとうございました」
「いえいえ、こっちの都合に付き合ってもらったんで、それじゃどうも」
宮代雄大の父親も頭を下げて、運転席に乗り込んだ。
窓から手を振る雄大は、
「今日はありがとう、またな」
樹に感謝をする。
「うん」
静かに頷いた樹は、善一と一緒に軽自動車のバンを見送った。
「楽しかったか?」
「うん……ネックウォーマー買った」
「あぁ、やっぱり首も寒いな、いいの買えたんだな」
「選んでもらった」
「そうか、風呂入ってゆっくり休め」
「うん」
樹はスーパーカブを倉庫に入れて、シートを撫でて強く頷いた。
シャッターを閉じて、玄関に向かう途中で樹は隣の平屋に顔を向ける。
真白の車と、暖かい照明がついている玄関、そしてふんわりと揺れるカーテンが澄んだ茶色の瞳に映る。樹は首を傾げた。
樹は一度敷地内から出て、隣の真白がいる平屋に向かう。
部屋に繋がっている縁側、窓は開けっ放しで身体を締めるような風が入っていく。肩より下まで真っ直ぐに流れるように伸びた明るめの茶髪が揺れ、漆黒の瞳はトロン、と星が無数に光る夜空を見上げていた。
柚野真白が、コートも着ずにワイン色のブラウスとロングスカート姿で縁側に腰掛けている。
「あの……」
樹は戸惑いながら、真白に声をかけた。
顔を赤く染めた真白は目を合わせずに、
「メールしても素っ気ないしさ……電話なんてかかってこないし、お父さんの前で嫌々お母さんと仲良い演技してるわけ」
ブツブツと言い始める。樹は口を小さく開けている。
「料理とか洗濯とか掃除とか苦手でもさ、頑張ってやってんのに……なんで私だけ、両親に愛されないわけよ」
睨むように見上げる真白に、俯いてしまう樹。
「おぶって」
「え?」
「おぶって、部屋まで連れてって」
樹の袖を指先で甘えるように引っ張る。目を丸くさせた樹は、キョロキョロと目線が落ち着かない。
「早く連れてって」
「あ……はい」
樹は真白に背中を向けて少し屈むと、真白は、ふふぅん、という笑みを漏らしながら背中にもたれた。
当たる柔らかい感触と微かに漂う香水とアルコールのにおい。樹の胸が弾け飛んでしまうのではないか、それぐらい高鳴っている。
真白を背中に乗せて玄関から入り、靴を脱いで室内へ。
ベッドに真白を運んだ後、樹は開けっ放しの窓を閉めて施錠する。テーブルに転がる空き缶が目に入り、テレビのコマーシャルやコンビニで見かけたことがある樹は、それがお酒だと分かった。
「ごめん、君に愚痴って……」
真白は寝転がりながら弱々しく謝る。
「善一さんから聞いてるよ、ごめん」
樹は口をぱくぱくと開閉して、言葉が思いつかない様子。
「みず!」
「え?」
「水を持ってきて! 冷蔵庫に入ってる!」
謝ったかと思えばまた甘えた口調で水を要求する。
樹は急いで見知らぬキッチンに走り、高価そうなグラスを食器棚から取り出して、最新冷蔵庫を恐る恐る開けた。
空っぽに近い無駄に広い冷蔵庫にある透明な浄水ポットを取り出す。
グラスに注ぎ、ベッドにいる真白にそっと渡した。
上品さなど忘れたようにヘラヘラと脱力気味に微笑む真白は、樹の短い黒髪を撫でる。
「えらいねーいつもあさはやくバイクで通ってさぁ、寒いし、大変なのに感心しちゃうなぁー」
間近で褒められ、撫でられ、樹は顔を真っ赤にさせてしまう。
グラスの水を口に含んで、ゆっくり飲んだ真白。
「……歯を磨いて」
「えっ?」
「歯、みがいて、脱衣場に連れてって!」
再び甘えた口調になって、歯を磨けと要求。樹はグラスをテーブルに置いて、真白をもう一度背負う。
キッチンから奥に続くスライド式の扉を開けて脱衣場に入る。
降ろされた真白はただ口を開けて待つ。
真白が使っている歯ブラシ、を樹は震える手で取り、見たことがない歯磨き粉に戸惑いつつそれをブラシにつけて、真白の口腔内へ。
「……」
綺麗に生え揃う白い歯とピンクの舌、他人の口腔内をじっくり覗く機会などなく、樹はじんわりと額を湿らせて、目を奪われる。
普段、樹が自分の歯を磨いているように歯ブラシを動かす。沸騰してきた頭で、真白の歯を磨く。うがいだけは真白にしてもらう。
「ねぇ、お風呂に入れて」
「おふ、ろ?!」
「服脱がせて、身体あらって」
樹は真白の身体をまじまじと見てしまう。喉をごくりと鳴らした。ブラウスに震える手を伸ばす。幼児のように何もせず、だらんとした表情で真白は待つ。
上のボタンをひとつ外した。
真白の細い首や左右対称に少し湾曲した、くぼみのある鎖骨が露わになる。
もうあと、ひとつふたつのボタンを外せば、脳内で想像を働かせる樹は呼吸が荒くなりはじめた。
震える指先を下げると、メールの通知音がポケットから聴こえて、樹は身体をびくつかせる。
我に返った樹は首を強めに振った。
「さ、さすがに、できない、です」
「なんで、なんでよー、イヤ!」
「……」
樹は嫌がる真白を無理やりお姫様抱っこで運び、ベッドに寝かせる。
ふぅ、と樹は息を吐いて、熱そうに手で顔を仰ぐ。ポケットからスマホを取り出して、液晶画面に映る通知を見ると、祖父の善一から。
『どこにいる』
スマホをポケットにしまい、布団をかけて帰ろうとしたところ真白は樹の手首を掴んだ。樹は目を大きくさせて身体が硬直してしまう。
「手、握ってて」
漆黒の瞳を潤ませる真白に、樹は小刻みに何度も頷いた。
ほんのり赤い真白の頬と桃色のしっとりとした唇をまともに直視できず、視線を外して、時々真白の蕩けた表情を視界に映す。
やがて、寝息が聞こえ、樹の手を握る指先の力が弱まっていた。起こさないように、樹は惜しむように手を離し、十秒以上温もりが残る手を眺める。
樹はゆっくり部屋を後にした。
「あ……鍵」
玄関の扉がそっと閉じると電子音が鳴り、勝手に施錠される。
「もう、熱い……でも、やばい」
樹は身を締める風に吹かれても下がらない体温のまま家に帰った。