第四話
太陽の光が山の輪郭を纏う時刻。
眠たそうな樹は学ランの上に防寒ジャケットを羽織り、ジェットヘルメットとグローブを抱え、リュックを背負う。
玄関の戸車とレールが擦れる砂利の音を響かせて、外に出ると、ジェットヘルメットをかぶり顎を固定、グローブは一旦ジャケットのポケットにいれて倉庫へ。
シャッターをそっと開けて、バージンベージュに塗装されたスーパーカブを薄明りに照らす。
シートを軽く撫でて、樹は頷く。サイドスタンドを上げて倉庫から出した。
敷地内の小さな畑の横には軽トラ、樹は敷地内にスーパーカブを止める。
ほぼ同時に隣から扉を施錠する電子音が聴こえ、樹は首を動かす。
肩より下に伸ばした明るめの茶髪が揺れ、コートを羽織った女子大生の柚野真白がスマホを軽く睨んでいた。小さく息を吐いてカバンにしまい、目を細くさせる。
唇を固く閉ざす樹は、真白の姿を澄んだ茶色の瞳で追い続ける。樹の視線に気付いた真白は、取り繕うように上品さを意識して微笑んだ。
「おはよう、樹くん。昨日はお鍋ご馳走様でした」
「おはようございます……」
静かな挨拶を返した樹は真白だけを視界に映すので、真白は眉を少しだけ下げて傾げる。
「えーと、き、気を付けてね」
丸みのある三ドアの外車に乗り込んだ。右側テールランプとナンバープレートの間にはONEと表記されている。
薄明かりの景色にヘッドライトを光らせて、車が走り出す。見送る樹は、頬を冷たさか、高揚感からか赤く染めた。
グローブをはめて、スーパーカブに跨り、キーを差し込む。セルスイッチを押して、エンジンは快調に鳴り出した。
ホッと安堵の息をついた樹は左足の先で踏み込んで、右手を捻る。唸るエンジンと共にタイヤは前進。
切れるような冷たさをものともせず、樹は学校に向かう。
放課後の教室、ミラーレス一眼レフカメラを大切そうに抱える眼鏡男子の高橋道弘は撮影したデータが入ったタブレットを樹に見せていた。
「先週の土曜、大学のカメラ愛好会と交流があってさ、現役大学生をモデルにファッションを撮影する機会があったんだよ。どうだ、俺の腕!」
誇らしげに見せてきた写真を、樹は静かに指先で液晶画面に触れて流していく。
その一枚に樹は手を止めた。茶色の瞳は大きく揺れる。
「どうした? 気になる子がいたのか? もしかしてお前も同志なのか?!」
嬉しそうに声を張る道弘に、残っていたクラスメイトはそそくさと帰っていく。
肩から下へ滑らかに伸ばした明るめの茶髪に合わせたブランド物のコートを着た女子大生がレンズに向かって、汚れを知らない無垢な笑みを意識するように浮かべていた。
「確か、柚野さん。お父さんが全国展開の不動産を経営しているらしい。つまり社長令嬢、可愛さと綺麗さが両立して、立ち振る舞いも話し方もホント上品でさ、また優しいんだよ。もうこれは俺に気があるに違いない!」
「……」
樹は道弘の話を後半から聞き流し、黙って真白の写真を見続ける。
「なんだったらデータ送ってもいいけど?」
「え、あ、え、と、うん」
樹は戸惑いながら頷いた。
スマホに送りこまれた真白の写真。数秒ほど眺めた後、樹はスマホをリュックに入れる。
写真部に向かう道弘と別れて、樹は駐輪場へ。
バイクロックを解除してリュックの中へ、それからキーを差し込んでハンドルロックも解除する。
「蒲原君」
幼さが残る女子の声、視界の隅には二人の人影が映る。
顔を向けると、ジャージを着たポニーテールの平沢絵里とサッカー部のユニフォームを着た宮代雄大がいた。
樹は小さく首を傾げる。
「明日の帰りって時間あるかな?」
「特には」
「それじゃ決まりな。明日、俺達と備品の買い出し、先輩に頼まれてたんだ。マネージャーは平沢だけだから大変だし、他の奴みんな薄情なんだよ。せっかくだしそのあとメシいこ」
雄大の爽やかな笑みと、絵里の申し訳なさそうに手を合わせる姿を見て、樹は頷く。
「分かった」
「遠いのにごめんね蒲原君」
「そういやそっか、父さんのバンがあるから、帰りに送れるか訊いとく。それじゃ、明日な」
遠くから二人を呼び出す大声が聞こえ、雄大達は急いでグラウンドに駆け出していく。
樹はジェットヘルメットをかぶり、顎をベルトで固定する。グローブをはめてからスーパーカブに跨り、セルスイッチを押してエンジンを始動。
快調に振動するメッキカバーがついたマフラーと、控えめにエンジン音が響く。
カバーがついたハンドルを握りしめて、左足のつま先を踏み込んで、右手をゆっくり捻る。タイヤが動き出し、樹は周囲を目視で確認してから一般道へ。
交通量の多い市街地を、すり抜けることなく大人しく自動車の後ろをゆっくり走る。
大きな交差点を曲がり、信号の少ない車道を進む。その頃には辺りは薄暗くなり、太陽はどこかの山に隠れてしまう。
乾いた田んぼに挟まれた車道は窪みがあったり、ひび割れたりと、樹は車体ごと時折跳ねる。
あぜ道に入り、真っ直ぐ行けば蒲原家の平屋、気持ち左に寄れば柚野真白が住む真新しい平屋に行ける。
スーパーカブは真っ直ぐ進み、倉庫の前で停車してエンジンを切った。
倉庫のシャッターを上に押し開けて、スーパーカブを中に入れる。地面に密着するまでシャッターを閉ざした後、樹は隣の平屋に顔を向けた。
真白が乗っている三ドアの外車はなく、玄関も窓も真っ暗。
正面に顔を戻して、家の玄関をガラガラと音を立てて入る。
リュックを取って、防寒ジャケットを脱いで、ジェットヘルメットとグローブを外し、靴を脱ぐ。
「ただいま」
独り言のような静かな声を出しながらリビングを開けると、五十代後半の祖父は、炬燵に入って寝転んでいた。
「おかえり……夕飯はまだ早いな」
上体を起こした祖父は天板に置いた丸メガネをかける。樹と同じく静かな声。
「明日、学校が終わったら友達と買い出しに、行く」
「そうか、じゃあご飯はいらないか?」
樹は頷いた。
「時間は?」
「友達のお父さんがもしかしたら、送ってくれる」
祖父は静かに頷き、炬燵から離れずに公共放送をただ流し観る。
樹はキッチンで手を洗い、それから炬燵に入って、夕食の時間が来るまでに宿題を済ますことにした。
数十分後、柚野真白は家に帰ってきた。
玄関の前に駐車。大きいサイズのスマホの画面を睨んだ後、数秒後、脱力気味に息を吐く。
乗用車から降りて、小さなリモコンのボタンを押すと、玄関の扉から小さな電子音が鳴る。ロックが解除され、取っ手を掴むと扉が開く。
同時にスマホからオルゴールのような着信音が流れて、真白は急いで手に取った。
名前を見た後、真白は眉を顰めながら指先でスライドさせ、耳に近づける。
「もしもし?」
『あ、真白、明日の飲み会参加するよね?』
躊躇なく飲み会に誘ってくる友人の声。真白は目を細くさせて口角を下げる。
「あぁーあんまり乗り気じゃないかな」
『お酒飲めなくてもいいってば、ジュースもあるし、それにあっちは有名企業の御曹司だよ! しかもイケメン、イケメン! ちょっと気晴らしにでもいいからおいでよ、アタシ寂しいじゃん』
「……えー、うーん行くだけなら」
『じゃ決まりー明日送ってね!』
目的はそれか、真白は苦笑いを浮かべながら通話を切る。
「はぁー……」
肩が大きく下がるほどのため息を吐き出した……――。