第三話
早朝のこと、樹は学ランの上から防寒ジャケットを羽織り、ジェットヘルメットとグローブを手に、リュックは背負う。
家の倉庫からバージンベージュのスーパーカブを出した後、そっとシートを撫でた。
土の汚れがボディのあちこちについて、飛び石による傷もついている。
隣の家から扉を施錠する電子音が聴こえ、樹は首を動かした。
肩より下までストレートに伸ばした茶色の髪が揺れ、眠たそうに目を細くしている漆黒の瞳はスマホと睨めっこ。彼女は昨日、隣に引っ越してきた柚野真白という女子大生。
樹は茶色の瞳をキョロキョロと動かして、落ち着かない。
スマホから目線を外した真白は控えめに溜息をつく。それから挙動不審な樹に気付き、
「おはようございます」
意識したように上品な笑みを浮かべて挨拶。樹はジェットヘルメットを抱える手に力が入った。
「おはよう、ございます」
挨拶を返し、樹は目線を下に動かす。
「樹くん、バイク通学なんだね」
「は、はい。遠いので……」
「気を付けてね」
真白は軽く手を振り、ナンバープレートと右側テールランプの間にONEと表記されている乗用車に乗り込んで、エンジンをつけると颯爽と駆け抜けていく。
樹は口角を上げて、胸元辺りでグッと握りこぶしをつくる。
「やば……」
そう呟いて、ジェットヘルメットをかぶった。
ほのかに赤い頬、樹はスーパーカブに跨り、セルスイッチを押してエンジンを始動させ、いつものように学校へ。
乾いた田んぼの間にあるひび割れた舗道を進んでいくと、どんどん影を追いやる太陽が山から顔を出す。雲が少ない寒空、信号のない交差点をいくつも通り、やがてたくさんの建物が並ぶ市街地に入っていく。
交通量も徐々に増えていき、サイドミラーで時々後ろを覗いて、樹は信号と前方をしっかり目視しながらカブを走らせた。
校内の駐輪場にスーパーカブを入れて、キーを回してハンドルロック、それからバイクロックもする。
朝練中の掛け声がグラウンドから聞こえてきた。
樹はジェットヘルメットとグローブを脱いで、口から白い湯気を出す。
「おはよう蒲原君」
幼さが残る少女の声が聞こえ、樹は顔を向けた。
有名スポーツブランドのロゴが表記されたエナメルバッグを肩にかけているポニーテールの少女。両手に飲み物が入った缶を抱えている。
「おはよう、平沢さん」
「冬のバイクは寒いでしょ?」
「少し」
簡単に答えた樹は頷く。
「想像しただけでもっと寒くなっちゃうや。でも家、遠いもんね」
平沢絵里は両手にある飲み物の中から、ココアを樹に差し出す。
「温かいうちに飲んで、自販機で当たったの」
「いいの?」
「うん、別に欲しいの無かったし、テキトーに選んだやつだからごめんね。それじゃまた後で」
平沢は急いでグラウンドに走っていく。
受け取ったココアが入った缶は冷えた手にじんわりと熱を与えた。
蓋を開け、温かく甘い味が口腔内と喉から奥へ温かいまま流れ込む。樹の口からさらに濃い湯気が出る。
よし、そう意気込むように樹は頷き、誰よりも早く教室に向かった……――。
午後五時過ぎはもう薄闇で、前方を丸目ヘッドライトで照らし、エンジン音を控えめに響かせながら、乾いた田んぼに挟まれた舗道を走る。
それからあぜ道に入り、窪んだ部分を避けて蒲原家に帰ってきた。敷地内の小さな畑の横に駐車された軽トラがある。
スーパーカブから降りて、樹は冷たい頬を赤くしたまま、隣の平屋に顔を向けた。
玄関には暖かい照明が周囲を照らしている。窓は真っ暗で、室内の照明はついていない様子。
三ドアの外車が玄関前に駐車され、樹は数秒ほど眺めた後、スーパーカブを倉庫へ戻す。
玄関の扉をガラガラと音を立てながら入ると、見慣れない黒のパンプスが。樹は首を傾げる。
防寒ジャケットと靴を脱ぎ、ジェットヘルメットを靴棚の上に置いてリビングに入ると、茶色の瞳を大きくさせて身体は硬直。
樹がいない間に出された炬燵と、天板にカセットコンロと土鍋。湯気を漏らしながら、ぐつぐつと蓋が揺れている。
「おかえり、樹」
丸メガネをかけた祖父は独り言のように小さく、樹を迎えた。
肩より下までストレートに伸ばした茶髪と、セーターにロングスカート姿の背中が視界に映り、ただいま、その言葉が樹の口から出てこない。
「お邪魔してます」
「え、あ……」
「歓迎会だ。ちっさいけど」
「ホントすみません、なにからなにまで。鍋までご馳走してもらって、なんだか悪いです」
ふっ、と静かに笑う祖父。
樹は急いでキッチンで手を洗い、タオルで手を拭きながら真白を視界に映す。
上品に微笑む真白の漆黒の瞳、祖父と落ち着いた様子で話している横顔が樹の胸を高鳴らせた。
夕食後、真白は玄関で頭を下げて、祖父と樹に感謝を零す。
「今度の日曜な」
「はい、その時はまたよろしくお願いします」
祖父と真白の会話に、樹は戸惑う。
「日曜?」
「あぁ、近所の挨拶。ここは、距離あるから」
納得した樹は頷くが、少し口角を下げる。
「それでは失礼します」
隣へ帰る真白を、樹は黙ってついていった。
「あれ、樹くんどうかした?」
「……夜なんで」
スマホのライトで前方を照らして、すぐ隣の平屋へ樹は同行。
「えーと、すぐそこなのに、ありがとう」
戸惑っている様子の真白は玄関を開けて、樹にお礼を言う。
樹は黙って頷いた。漆黒の瞳を覗くように見つめた樹はそっと口を開けようとした。
同時に、オルゴールのような着信音が鳴り、それは真白のカバンから。
急いでカバンから大きいサイズのスマホを取り出した真白は、液晶画面を見て、それから溜息をつく。
通話もしないで指先で着信音を消し、上唇を強めに噛んだ。
「あ、ごめんなさい。樹くん、見送ってくれてありがと、おやすみなさい」
「お、おやすみ、なさい」
微笑む真白は、そっと玄関を閉める。
家に戻った樹はソファを陣取る祖父に数秒ほど羨望の眼差しを送ったが、祖父は気付かない。公共放送をただ流し観て、呑気に熱いお茶を飲んでいる。
樹は特に何も言わず、炬燵に入って宿題をすることにした。