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第二十一話

 蒲原樹は、白の襟シャツとその上に黒のセーター、ネイビーのダッフルコートを羽織る。同じくネイビーのスリムパンツを穿いて、鏡に立ち、指先で前髪の位置を直す。

 こたつで温まる祖父善一は静かに湯呑に入ったお茶を啜り、口元は緩む。

「……いってきます」

「あぁいってらっしゃい。あまり困らせちゃダメだぞ」

「うん」

「伝えたいことは、ちゃんと言えよ」

「え……うん」

 樹は首を傾げながらも頷いた。

 スエードの靴を履いて、少し躓きながら玄関から飛び出す。

 ホワイトソリッドペッパーという塗装が施された丸みがあるコンパクトでシンプルな見た目をした三ドアの外車。右側テールランプとナンバープレートにはONEと表記されている。

 静かなエンジン音。

 窓にもたれて、肩より下まで真っ直ぐ伸ばした茶髪を身を縮ませる風に揺らす、ロングコートの裾はロングタイプのミモレスカートと同じ長さ、黒のタイツが輪郭をはっきりさせている。

 歩くのに支障がない短めのヒールを履いて、ブランド物のショルダーバッグを肩にかけ、手にはスマホ。シンプルながらも存在感あるブランドの名が刻まれた細い腕時計。漆黒の瞳は樹を映す。

 上品さを意識したような微笑みに、樹の唇は堅く、澄んだ茶色の瞳を細める。

「お、お待たせ」

 言葉まで躓かせた樹は、柚野真白を少しだけ見上げた。

 クスっと漏れる吐息のあと、真白は助手席を開けて、

「今日はよろしくね、樹くん」

 乗るように招く。

「はぃ、お願いします」

 微かに上がる口角と、期待と緊張が樹の胸を高鳴らせて、時々締め付けていく……――。



 水族館を前に、真白は周囲を時折探すように見回した。

 ふぅ、一呼吸をおいて、背筋を伸ばした樹に笑む。

「週末なのにそこまで人多くないね。水族館って冬はあんまり人気ないの?」

「多分……夏のイメージが、あるかな」

「混むよりはいいかぁ。ゆっくりできる方がいいし」

 ぎこちなく樹は頷いた。

 入場料を支払い、水槽の照明と薄っすらとした通路の小さな明かりが頼りの薄暗い館内へ。

 壁を覆う水槽に透き通って揺らぐ世界が広がり、その中を泳ぐ様々な魚が暮らし、真白は忙しく目や首を動かした。

 声を奪われて、足取りはゆったりと一歩ずつ動き、樹を置いて左右で異なる世界で自由に泳いでいる姿を順番ずつ、ガラスにくっつく勢いで眺める。

 上品なんて忘れて、自然と上がっていく口角。

 年下に思えてしまう彼女の横顔に、樹は数秒遅れて口元は上向きになる。

 繋ぎ留めないとはぐれてしまいそうな浮き立つ真白の指先に、口元はキュッとまた締まって、樹の手はそわそわと動く。

 掴もうと手を伸ばしてみるが、真白の指はガラスに触れて遠ざかる。空振りを恐れて引っ込めた。

 鮮やかな色をした魚が泳いでいく、淡く揺れる水とライトが交ざり合う。追いかける真白の輝く瞳と、水族館どころではなくキョロキョロと不安を抱く樹の瞳。

「樹くん」

 突然呼ばれて、びくっと肩を震わした。

「向こうに小さいサメがいるみたい。ほら、行ってみよう」

 袖を指先で絡むように握って引っ張る真白の無邪気な表情。上品さから離れた自然な姿に、樹は小刻みに頷く。

 薄暗くて、見ただけでは分からない顔の熱さに照れながら、樹は真白の手を掴む。

 心臓から滲む痛みに耐え、震える手で真白の指先を絡めた。


「思わずグッズ買っちゃったわ」 

 サメやペンギンのぬいぐるみを袋越しに抱え、満足気に微笑む真白。水族館に隣接している小さなカフェでコーヒーを注文する。

 対する樹は勝手に逆上せている。冷えたソフトドリンクをストローで吸い、体温を下げさせた。

「……はい」

「ごめんね、ああいうの初めてだったから、つい舞い上がっちゃった。ゆっくりとかエスコートがどうとか私が言ってたのに」

 樹は髪を掻いて、首を横に振る。

「俺も、楽しかった」

「そう? じゃあよかった。少し休憩してから買い物に行こう、お礼に夕食ご馳走するね。まぁ、試食だけど」

 真白は自信なさげに最後だけ呟いた。

 手作り、それだけで唇は上向きに動き、樹はソフトドリンクを飲み干す。




 薄暗くなってきた空は透明と青と赤が交じり合う。膨らむエコバッグを抱える樹は、乾いた田んぼと落ちた太陽が山に輪郭を描く景色を車窓から眺める。

「樹くん、あのね」

 ハンドルを握りしめる真白の声に、樹は顔を運転席に向けた。

「どうして……私を誘ったの? 前にお酒で君に迷惑かけてるし、前のハンバーグは生焼けだったし、今日なんか子供みたいに走り回っちゃったし、どう思って私を誘ったのかなって」

 素朴な疑問をぶつけられ、樹の唇は堅くなる。

 答えは返ってこない。真白は眉を顰めて、口角は少し下がっていく。車はあぜ道を走り、左に入れば真白が住む平屋へ。

 真白は目を丸くさせた。

「あ……」

 敷地内に高級な黒い国産車がとまっていて、スーツでがっちり固めた男性が扉の前で立っている。

 樹は首を傾げる。

「お父さん」

 男性をそう呼んだ真白は隣に車をとめて、運転席から急いで降りた。

 髭を揃えている真白の父は手を振った。

「おぉ真白、久し振りだな」

「お久しぶりです。もしかして、待ってました?」

「たまたま仕事で寄ることがあったから、そのついでに来てやったんだ。車に乗ってる子は?」

 怪訝な表情で真白と樹を睨んだ。

「隣の子。ちょっと一緒に出掛けていたの」

 なにもないと言う真白を疑うように、腕を組んで見下ろす。

「本当か? 母さんから聞いていると思うが、見合いの話ちゃんと受けなさい。向こうはお前のことを気に入ってくれているんだからな、ヘタなことして柚野のイメージを悪くするなよ、いいな?」

「お父さん、でもっ」

 返事を待たずに車に乗り込んで、真白の父は出発してしまう。

 真白は大きく息を吐いて、助手席から降りてきた樹に微笑む。

「ごめん、お父さんあんな感じなの。気を悪くしないで」

「……いえ、お見合いって?」

 真白は眉を下げる。

「あー断りたいんだけどね、両親は好意的なの。だから困ってる感じ」

 樹は真白の手を掴んだ。ただ真っ直ぐに真白を見つめ、瞳を潤ませる。

「え、樹くん、どうしたの?」

 衝動的に駆られた樹は何も言わず、真白に抱きついた……――。

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