第十六話
朝早く、樹は倉庫のシャッターを上に押し開けた。
ぼんやりとした薄明かりが差し込んだ。バージンベージュのスーパーカブを照らし、薄茶のシートが後ろまで続く。
樹はシートを防寒グローブ越しに触れて、控えめに頷いた。
サイドスタンドを払い、一旦倉庫から出して、敷地内に駐車されている軽トラの横へ移動させる。
そこから隣の平屋に顔を向けた。
同時刻に扉を小さなリモコンで施錠して出てきた柚野真白が、樹を漆黒の瞳に映す。
「おはよう樹くん」
「おはよう、ございます」
「昨日のオムライス、どうだった?」
保存容器に詰められたチキンライスの上にかかった少し焦げ目がついた玉子とケチャップが頭に浮かび上がる。
「美味しかったです」
静かに感想を漏らす。
真白は口角を下げて呆れるように息を吐く。
「それなら早めに感想欲しかったかな。昨日気になって、何回か訊こうかと思ったぐらい」
何も言わずに樹は髪を掻いた。
「でもよかった、安心した。樹くん、これからも試食してね」
澄んだ茶色の瞳を輝かせて、しっかりと頷く。
「もう、何か言ってよ……そういうの、すごく不安になるから」
両腕を擦るように組んだ真白は目を伏せる。
「あ、あの」
「なに?」
眉を下げた真白に、
「今度の週末、どこか行きませんか?」
樹は突然、誘い始めた。
怪訝な表情になる真白は、ジッと見つめてくる樹を睨む。
「未成年連れまわして逮捕されたら父や周りの関係者に迷惑をかけちゃうし、難しいかも」
さらっと非情なまでに現実を突きつけられ、樹の唇はぐっとさらに堅くなる。
すぐにクスっと吐息を漏らした真白は悪戯っぽく微笑む。
「なーんて冗談。昼間なら大丈夫だし、善一さんの了承があれば問題ないと思う。その小さなバイクで連れて行ってくれるの?」
樹は防寒ジャケットのポケットにグローブごと突っ込んで、寒さか、恥ずかしさか、頬を赤く染めていく。
「バイクは……春になったらで」
「まぁ寒いのはちょっとね、ヘルメットとか色々必要だし。大丈夫、樹くんが行きたい場所に連れていくわ。考えといてね」
「は、はい」
はにかむ樹に、真白はほんの少し目を点にして口角を下向き、すぐに釣られて微笑んだ。
「じゃ、樹くん。寒いから気を付けてね、いってらっしゃい」
「行ってきます。あの、柚野さんも気を付けて……いってらっしゃい」
ジェットヘルメットをかぶり、キーを差し込んでセルスイッチを押すと、すぐに左足のつま先を踏み込んで、アクセルを全開に出発していく。
真白は先に行った樹を見送り、肩をすくめた。
「……行ってきます。変な子だけど、なんか可愛いかも」
真白も三ドアの外車に乗り込んで、大学に出発した。
樹が到着する十五分前の校舎。欠伸をしながら部室棟から出てきた宮代雄大は、グラウンドで先に準備をして走り回っているポニーテールの髪型をした平沢絵里を眺める。
同時に、グラウンド前でミラーレス一眼レフカメラを抱えて風景を撮影している高橋道弘も視界の隅に映り、雄大は眉を顰めた。
「こんな朝っぱらからなに撮ってんの?」
「そりゃお前、朝の冷えた空気や締まる感じ、まだ薄っすらな景色と朝練してる姿の撮影に決まってるだろ」
特に驚く様子もなく、黒縁メガネをかけている道弘は淡々とシャッターを押す。
雄大は納得して白い湯気を口から漏らし、グラウンドと絵里を見つめた。
「……俺、応援するのやめた方がいいと思うんだよ」
道弘は液晶画面に撮影した写真を確認しながら呟く。
「なんで?」
「全国展開してる有名な不動産企業の代表取締役社長を父にもつ柚野真白さん……樹が相当の努力しない限り絶対釣り合わない」
「どうするかは当人の問題だし、俺には関係ない。応援ぐらいはするってだけ」
脚や腕、大幹のストレッチを行う雄大はグラウンドに足を踏み入れた。道弘は鼻で笑って、雄大の背中に、
「宮代、お前はホント、なんて冷血漢なんだ」
そんな言葉を投げた。
「うるさいなぁ、こっちはサッカーに集中してんの。じゃ、コンテスト頑張れよ」
軽く手を振ってグラウンドへ駆け出す雄大。
カメラを構えた道弘は朝練に飛び出す雄大の背中にピントを合わせ、シャッターを押す。連写で撮影し、データを確認すればパラパラ漫画のよう。
道弘は、校舎の外から響き渡るエンジン音に顔を上げた。
しんみりとした表情を振り払い、道弘は駐輪場に向かう……――。