第十五話
いつもの日課を行い、蒲原樹は炬燵でおにぎりと味噌汁を朝食にして食べていた。落ち着かずにそわそわと顔を動かす。
テレビで公共放送を流し観ている丸眼鏡をかけた祖父善一は完食し、孫の挙動に眉を顰めた。
「今日来る友達か? それとも、隣のバイクか?」
樹は黙って目を逸らす。
「せっかくタンデム用のシートに替えたが……そっちの方が気になるか」
暗い倉庫で大人しく休日を過ごすバージンベージュに塗装されたスーパーカブ。銀色の荷台は外されて、新たに薄茶のタンデムシートが取り付けられている。
一瞬にして熱を上げ、顔が赤くなる樹は善一と目を合わせることができず、急いで食べてキッチンに食器を運ぶ。
善一はリビングの棚に飾ってある写真立てに顔を向けた。レンズを静かに見つめる四十代の善一と、その隣で明るく微笑む女性の写真。懐かし気に堅い唇が綻ぶ。
立ち上がって前に鍔がついた帽子をかぶり、蛍光色の黄ジャケットを羽織る。
「そろそろ配達に行ってくる」
樹は静かに頷いた。
軽トラの荷台に載せたダンボール箱に詰められた野菜をロープで固定し、善一は運転席に乗り込み、あぜ道を走り抜けていく。
食器を洗った後、樹は玄関の扉をガラガラと鳴らし、隣の平屋を覗けるほど顔を出す。
それとほぼ同時だった、縁側の窓を開けて乾いた田んぼや輪郭がはっきりとした山々を眺める、細身の男性。
硬直したように身体が固まり、顔を引っ込ませることさえ思いつかない樹は、無言で男性を澄んだ茶色の瞳に映す。
「あれ。やっ、おはようございます」
男性と目が合い、優しさに満ち溢れた瞳と穏やかな表情に挨拶をされ、樹は急いで扉を閉めてしまう。
リビングに戻り、炬燵の中に入り込み、顔色を青くさせて狭いスペースを左右に転がる。
両手で顔面をくしゃくしゃと揉み、潤む目で天井を見上げた……——。
しばらくして玄関を叩く音が聴こえ、樹は目を丸くさせる。ほんのり目元が滲む、袖で拭くと痛みが増す。
扉の外に二人分の人影。
『こんにちはー』
よそ行きの口調。樹はそっと扉を開けた。
ガラガラと響かせて開けると、爽やかな印象を与える顔立ちの宮代雄大がビニール袋を片手に持って、隣にはミラーレス一眼レフカメラを大切そうに抱える高橋道弘。
雄大は樹の顔を見るなり、怪訝な表情を浮かべた。
「って目、赤いけど大丈夫か?」
「大丈夫……」
「それで、美女は、噂の美女はこの隣か?!」
カメラを構える道弘の勢いに、雄大は呆れてしまう。
樹は脱力気味に頷く。
意気消沈といった様子に、雄大と道弘はお互い目を合わせて首を傾げた。
「とりあえず元気ないみたいだけど、何があったんだ?」
「さっき……男の人が、いた。泊まりに」
「えーと、ど、どういうことだ?」
道弘はかけているメガネをくいっと直す。
「つまり、隣に引っ越してきた女性に彼氏がいた、と」
雄大は隣の平屋に顔を向ける。三ドアの外車の横にオールドルックなバイクがあった。
「そして、樹は隣に引っ越してきた女性のことが好きだと」
はい、いいえもなく、樹は俯く。
樹の反応に納得したのか、雄大は控えめな笑みを浮かべて樹の背中に手を添える。
「見ただけで判断するなって、ただの友達かもしれないだろ」
「そ、そうだぞ同志! 俺も応援するぜ」
慰められていると、隣の扉が開いた。
「それじゃ、課題も無事に終わったことだし、柚野さんもそれ、ちゃんと試食してもらうんだよ」
「うん、ありがとう望田くん。いろんな意味ですごく助かった」
「どういたしまして、ところで樹君ってあの子だよね?」
細身の男性望田貴信はフルフェイスヘルメットを脇に抱え、シートバッグを肩に提げて、見送る柚野真白に確認。
漆黒の瞳は、目を腫らした樹とその友達を視界に映した。
「そうだよ、樹くんと……あれ、君って確か写真部の子」
道弘は口と目を大きくさせて、
「あぁああ! 柚野さん!? そ、そそそそそれに、貴方は望田さん!!」
樹と真白、貴信を何度も見る。
「コンビニで見かけた、綺麗な人だ」
雄大も目を丸くさせ、気を抜かれたような声を出す。
「あー写真部の、えーと確か高橋君。奇遇だね」
思い出しながら貴信は優しい笑顔で道弘に手を振って挨拶。
貴信はバイクにヘルメットとシートバッグを載せてから、樹達に寄っていく。
青みがかった黒髪、後ろだけ少し長めに伸ばして結んでいる。
「や、さっき振りだね。ボクは望田貴信、柚野さんの友達で同じ大学に通ってる二年生だよ。高橋君とそこのイケメン君は……」
「宮代雄大です」
「宮代君ね。ちょうど樹君に訊きたいことがあったんだ」
怖気る樹は道弘と雄大より後ろへ下がってしまう。
「あ、大丈夫大丈夫、ボクはストレートじゃないから。柚野さんは大切な友達なんだ。安心していいよ」
ストレート、その言葉に樹と雄大は戸惑う。どういう意味かさえ分からない。
貴信は続けて、大きいサイズのスマホを眺める真白をちらり、と覗いてから樹に、
「柚野さん、素敵な女性だと思わない? 彼氏なし、優しくて家族思いな子、樹君とお似合いだと思うなぁ……」
優しく囁いた。
「えっ!?」
樹は驚いて、間抜けな声を出してしまう。
にっこり笑顔で貴信は三人に手を振ってバイクへ。グレーイッシュブルーメタリック4という塗装が施されたSR400に跨り、フルフェイスヘルメットをかぶり、防寒グローブを手にはめる。
「それじゃ柚野さん、あの子が起きたらよろしく言っといて」
「分かった、昨日課題頑張ってたからまだ起きそうにないけどね。ありがとう」
クロームメッキ仕上げの単気筒がブルブルと振動し、胸を昂らせるエンジン音が響き渡る。
あぜ道を進み、乾いた田んぼに挟まれた舗道をゆっくりと走っていった。
真白は見送った後、立ち尽くす三人に上品を意識したような微笑みを見せる。
「みんなお昼ご飯ってもう食べちゃった?」
「いやぁまだなんですよ」
道弘がニコニコと答えた。
「そうなんだ、ちょうどよかった。少し待っててね」
真白は一度家に入っていく。
その間に、雄大は樹の背中を軽く叩いた。
「良かったじゃん」
「……う、うん」
そんな二人を、道弘は眉を下げながらも優しく笑い、横目で覗く。
保存容器を抱えて戻ってきた真白は、樹と雄大、道弘、一人ずつ手渡し。手にじんわりと温かさが伝わってくる。
「オムライスなの、冷めないうちに食べてみて。それじゃまたね。あ、樹くん」
「は、はい」
「後で感想聞かせてね」
樹は小刻みに何度も頷いた。真白が家に入るまで見送り、樹はぎゅっと温かい保存容器を掴む手に力を込めた。
「そんじゃ、ゆっくり樹の家で食べさせてもらうか……お前に好きな人がいるのも分かったしな。あとこれ手土産」
ビニール袋をそのまま樹に渡す。
受け取ると、手首が微かに下がる程度の重さが伝わった。
「そ、そうだな、応援するぜ」
樹は口角を少し上げて、二人に頷く。
雄大は納得と答えを知り、満足気で冷めた目に笑みを浮かべている。
道弘はカメラを壊れない程度に抱え、どこか苦い表情ながらも笑みを浮かべていた。