閑話:メティア教教皇の憂鬱 後編
「こっの、クソガ――」
ゲルグ様の険しい顔を、そして今にも振り上げられそうなきつく握りしめた拳を見て、思わず目を閉じた。しかし、衝撃は襲ってこない。代わりに聞こえたのは、何かを叩く鈍い音。
「フランチェスカ猊下。私直属の騎士が大変失礼いたしました。この者には追って何かしらの処分を与えます」
恐る恐る目を開けると、エリナ様が彼と私の間に割って入っていた。その後で彼女はゲルグ様の耳を引っ張り、頭を下げる。自然とゲルグ様も頭を下げる形となった。
「ヒーツヘイズ。猊下に謝罪を述べた後、下がりなさい」
怒りを表現するように吊り上がった眦をエリナ様が彼に向ける。
良いのだ。彼の怒りも尤もだ。
ジョーマ様のこと。アスナ様のこと。
全て理解している。全て識っている。勿論、彼女らは私にとって「好ましい人間」の範疇だ。その心中に対して力を使ったことは無い。
だけれども知っている。
ジョーマ様の気高さを私は知っている。
だけれども知っている。
アスナ様が「勇者」という肩書を背負うには、余りにも優しく、責任感の強いだけの普通の少女だということを知っている。
だから、彼の怒りは当然のものなのだ。
「ゲルグ様のご怒りもご尤もです。エリナ様。処分には及びません。彼から誹りを受ける覚悟はありました。当然です」
小さな嘘を吐いた。
彼ならば、私のことを理解し、そして優しく頭を撫でてくれる。そんな、身の丈に合わない小さな希望を人知れず抱いていたことを、私は知っている。そして決してそれが叶わぬ願いであろうことも。
「有難きお言葉。ヒーツヘイズ! 謝罪を!」
謝罪など求めていない。でも本当は、罵られる覚悟なんてちっともできていない。
「いえ、良いのです」
私は笑顔で嘘を吐く。
それが必要だから。
私は優しく嘘を吐く。
それが世の中の為だから。
本心をひた隠し、自身の理想のために邁進する。
そうでもしなくては、今までの私の存在意義は失われてしまう。
「寛大なお言葉、痛み入ります。ヒーツヘイズ! 部屋に戻り、数日ほど頭を冷やせ。それを以て処分とする」
ゲルグ様が不承不承といった面持ちで返事をし、そしてすごすごと司令室を出ていった。
だだ広い部屋が、しん、と静まり返っている。当然だろう。私はメティア教最高責任者。そんな私と表立って諍いを起こす人間というのは珍しい。皆無と言っても良いだろう。
部屋中の大勢の人間が、ことの顛末を生唾を飲み込みながら見守っているのだろう。中には「あんな不敬者、処刑するべきだ」などと、潜めた声で話している者もいるだろう。
そんな空気を切り裂くように、私は部屋中を笑顔で見回す。
「皆様、お騒がせしました。ひとまず、艦隊が無事帰還できるよう、死力を尽くしましょう」
その言葉で止まっていた時が動き出す。部屋中の人間が我に返って自身の仕事を再開する。
私の表情から察したのだろう。表向きは何事もなかったかのように。
彼が出ていった扉をアスナ様が心配そうに眺めている。ミリアも同様だ。違う。ミリアは扉と私の顔を交互に不安げに見比べていた。その様子に少しだけほっとするが、何故ほっとしたのかについては、どれだけ考えてもわからなかった。
「猊下。本件に関しましては――」
「エリナ様」
笑顔で、今なお彼の所業について謝罪をしようとするエリナ様の言葉を遮る。
「貴方もお疲れでしょう? アスナ様も、キース様も、ミリアも。皆様お疲れだと思います。いかがでしょうか? 部屋に戻って休まれては?」
これは拒絶なのだろうか。識らない。こんな自分は識らない。自分の感情を、胸の内のもやもやを、理性で抑え込むことができない。こんな経験は初めてだ。
ただただ、今はこの人達と一刻も早く距離を置いていたかった。その理由を、原因を、私は識らない。
エリナ様が、他の三人に声をかけ、そして私に小さく礼をしてから部屋を出ていく。
その後姿を見送ってから、私は部屋の中央で忙しなく周囲に指示を出している女性に声をかける。
「ディアーナ」
彼女は私直属の側近であり副官だ。心を許したことはないが、私にとって好ましい人物でもある存在。非常に優秀で頭もよく、よく働いてくれる。今回の作戦における中心人物の一人と言っても過言ではないだろう。
「はい、猊下」
「この場は任せてもよろしいですか?」
本作戦において、私のすべきことは全体の方針決定と、然るべき際に決断することだけだ。その他の些末ではあるものの重要なことは彼女の裁量に任せている。
作戦自体が終盤となった今、彼女に全てを任せても問題はない。
「勿論でございます。ゆっくりお休みあそばされて下さい。何か重要な事項がございましたら、その際は申し訳ございませんが報告と相談に参ります」
「はい、構いません。申し訳ございませんが、よろしくお願いしますね」
「承知仕りました」
あの方々、アスナ様達と距離を取りたい。それと同時に、私はこの場から今すぐに消え去ってしまいたい、そう思わずにはいられなかった。
ディアーナの心配そうな眼差しを意識的に無視して踵を返し、司令室を後にする。
自分の部屋――執務室ではなく、居室だ――に戻る。戻りたい。足早に歩く。
何故そうしているのか。加護の力で、様々なことを識ることができるはずの私が、そのことに関してはさっぱりわからない。
どうしてしまったのだろう。私は。
どうなってしまっているのだろう。私は。
廊下ですれ違う人々が、私の歩く速度に驚いた顔を見せるが、そのような些事にかまっている暇は無い。
いつもの半分程度の時間で、自室にたどり着き、そしてドアをいささか乱暴に開けて、ベッドに飛び込む。
そして思い返す。
ゲルグ様の私を見る瞳を。憎しみにも似た光を帯びた、あの眼差しを。
怖かったのだろうか。よくわからない。ただ、仮に恐怖していたと仮定して、その対象は彼の視線にではないのだけは確かだ。
好ましいと感じている彼に、そんな眼差しを向けられる自分自身が、なのかもしれない。
彼は怒りをむき出しにした。私のしでかしたことに。しでかしてしまったことに。
私は何をした? 彼は何に怒った?
一つはジョーマ様を見殺しにしたことだ。
仕方のないことだ。彼女もそれを覚悟して死の大陸に向かった。私が誹りを受ける謂れはない。
もう一つはアスナ様を「勇者」として扱ったことだ。
これも仕方のないことだ。彼女は精霊メティアに選ばれた由緒正しき勇者だ。彼女には魔王を妥当し、世界に束の間の安寧をもたらす使命が課せられている。
果たして本当にそうだろうか? 仕方のないことだったのだろうか。
仕方のないことであれば、どうして彼はあそこまで怒ったのだろうか。
わからない。
わからない。わからない。
わからない。わからない。わからない。
顔を埋めている枕が、何故か冷たくなっていく。それと引き換えに私の心中は熱く熱く滾っていく。
識らない。
識らない。識らない。
識らない。識らない。識らない。
こんな状態の私はわからない。識らない。
混線する思考回路によってショートし始めた脳味噌が悲鳴を上げる。
だが、そんな混乱状態にあって、いくつか薄ぼんやりと理解できたことがあった。
理解できた。できてしまった。
でも、そんな感情を抱く私を私は識らない。
わからない。
それでもぽろぽろと心から溢れる。
溢れ出る。
「わ、たしだってっ……」
ジョーマ様ともっと一緒にいたかった。
私を「自分の愛しい子供」だと言って憚らない、彼女と、もっともっとずっといっしょにいたかった。
死にゆく覚悟を決めた彼女を、できることならば止めたかった。
止めるべきじゃなかったことは十二分に理解している。だから止めなかった。
「わたしだってっ!」
あんな風に怒りをむき出しにできたらどんなによかっただろうか。
あんな風に彼女の死を真摯に悼むことができたらどんなによかっただろうか。
彼が羨ましい。自由な彼が。縛られない彼が。
でもどうだろう。私は縛られているのだろうか?
縛られているのだろう。私は私が律するべきで、他の誰にも律されるべきではない。つまるところ、私は私に縛られているのだ。
そして、もう一つ。
溢れ出る。
「ゲルグ様っ、どうしてっ!」
密かに夢見ていた。
「お前は正しいよ」、「間違ってない」、「よくやってる」、「偉いな」、そんな彼から贈られる言葉の数々。
そんな言葉をかけてほしかった。労ってほしかった。
頭を撫でてほしかった。
理解してほしかった。
私のこのよくわからない考えを知った人間が仮にいたとするなら、「ちゃんちゃらおかしい」、と笑えば良い。
他人に理解して欲しいなんて一度も望んだことはなかった。
私は識っているから。
他人に好まれたいと思いはするが、飽くまでそれは目的のための手段としてであり、本心から「寄り添って欲しい」とまでは一度も望んだことはなかった。
私は識っているから。
そんな私が、彼に対しては理解を求めている。寄り添って欲しいと願っている。
私の中のおおよそ私とは思えない、駄々っ子のような私が叫ぶ。
――ゲルグ様は、あの方だけは、私のことを理解してくれると思ってたのに!
そうじゃないだろう。そんなこと期待してはならない。あってはならない。
――ゲルグ様は、あの方だけは、褒めてくれると思ってたのに!
そんなことを望んではならない。あってはならない。
――ゲルグ様は、あの方だけは、本心から私のことを好きになって欲しいと、そう願っていたのに!
あぁ、そうなのか。
この気持ちにはっきりと今名前がついた。
ついてしまった。
変なところで大人で、経験豊富そうで全然そうじゃなくて、それなのに突然芯を食ったことを言ってみたり、他人のために本気で怒ったり。
いつだって周囲を気遣って。
いつだって周囲を心配して。
大切な物を取り零さないように必死で。
大切な物を取り零すことを極度に恐れていて。
だからこそ弱くて。
だからこそ強くて。
そんな彼を。
「好き、だったのになぁ……」
私は識っている。
この感情を、この気持ちを、世間では「恋」と呼ぶ、ということを。
だけど、この恋は自分で気づいた瞬間には、もう終わっていた。
きっと彼はもう私に好意的な視線を向けないだろう。
きっと彼はもう私を心の底から信用などしてくれないだろう。
大切なものをないがしろにする者を彼は許さない。
識らないが、知っている。
当然だ。それが彼だ。
ジョーマ様を見殺しにし、その死をひた隠しにする私を彼は決して許さないだろう。
アスナ様を「勇者」とし、魔王などと言う化け物とぶつけた私を彼は決して許さないだろう。
これから彼の大切に思っている人間を酷く傷つけ、ともすれば見殺しにする選択を厭わない私を彼は決して許さないだろう。
そんなことは識らないが、知っているのだ。
布団が冷たい。
枕が冷たい。
自分の顔が冷たい。
湿気が凄まじい。
突っ伏していた顔をひっぺがして、上体を起こす。
「ひっ……ひっ……」
押さえていたしゃくりがあがる。
頬を熱い何かが伝う。
「ひーん……」
物心つく少し前くらいからの全ての記憶を思い出せるが、こんな情けない声を上げたのは初めてだ。
「ジョーマさまぁ……」
どうして死んでしまったんですか?
どうして私を残して逝ってしまったんですか?
私はどうすれば良いんですか?
わからないんです。
わからないんです。
識らないんです。
識らないんです。
「ゲルグさまがぁ……」
彼に嫌われてしまった。
彼に嫌われてしまった。
彼に嫌われてしまった。
「ミリアぁ……」
こういう時、ミリアだったら、きっと抱きしめてくれただろうか。どうだろうか。
彼に嫌われてしまった。
彼に嫌われてしまった。
彼に嫌われて……しまった。
それから一晩、私はよく理解できない、自分でも制御できない感情に振り回され泣き叫び続けた。
ぐちゃぐちゃな顔で、涙と鼻水を沢山垂れ流して。
次の日、私はディアーナだけにそっと伝えて、一日だけのお休みを貰った。
頂いたお休みが明けた。心配そうな眼差しを向けるディアーナに微笑みかける。
私は大丈夫。
世界をより良くするため。メティア教という宗教が健全な組織として人々から信仰される未来を作るため。
世界の平和のため。世界の安定のため。
私は邁進しなければならない。
さぁ仕事に取り掛かろう、そう意気込んだものの、気になったことが一つ。気になって気になってしょうがないので、ディアーナに尋ねてみた。
「あの、ディアーナ?」
「はい、猊下」
「ゲル、グ様は?」
「あぁ、あの不埒者ですね。彼ならば、自室で謹慎処分を受けていますよ。猊下の目の前でエリナ陛下がそう申し上げていたじゃありませんか」
あぁ、そうだった。
「……なんでも、食事もまともに摂っていない、とミリアがこぼしていましたね」
「そう、ですか……」
「猊下?」
「いえ、なんでもありません」
慌てて取り繕う。でも、彼を心配だと感じる気持ちを誰が咎められるだろうか。
何しろ気づく前に失恋したとは言え、彼は私の初恋の人なのだ。
少しだけ考えてから、ディアーナに小さく伝える。
「ゲルグ様が心配なので、できる限り美味しいものを手配していただけますか?」
「……心配、ですか? あのふらちも……失礼いたしました」
彼を再び「不埒者」と呼ぼうとしたディアーナをじろりと睨みつける。ディアーナが意外そうな顔をして、詫び、そして少し微笑んだ。
「承知仕りました。手配しておきます」
「よろしくお願いします」
彼に嫌われてしまったことはもうどうでもよい。
ジョーマ様は言った。「あやつの目標と、そなたの目標は、最終的に衝突を起こすやもしれん。その時、どうするか、今から考えておくが良い」、と。聡明な彼女の予言だ。それは高い確率で的中するのだろう。
私は私の理想のためなら手段は選ばない。きっとそれが彼に関してのことだったとしてもだ。
でも……。それでも今、彼を心配し、労る権利ぐらいは、私にだってあるはずだ。
これから彼と衝突していくとしても、彼を見殺しにするような選択を選ぶとしても、だ。
心の中で呟く。
――ゲルグ様は、私の初恋の人。それは何が起こっても変わらない。
それだけで、少しだけ胸のつかえが下りた気がした。
これにて第八部は終幕となります。
次話より第九部へ突入。
第九部を経て、第十部。
全十部でこの物語は完結となります。
長い長い物語となりますが、何卒お付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。
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