第二番歌:胸の奥にも Si・Ca(鹿)ぞ鳴くなる(二)
二
なぜだろう。余裕を持って五分前行動するはずだったのに、大幅に遅刻している。
「ちょっと図書室に寄っただけなんだけど」
「ちょっとやそっとやないわぁ!」
めずらしく夕陽ちゃんが大声をあげた。昨日の成果が出たんだね。
「のんきに何ゆうてるん!? 時間つぶしに図書室行っといて、入り浸ってたんはどこの誰やのぉ!」
「えっと……、ごめん、私です」
「せやな、もう出よかぁゆうとこで文庫本の棚でひゅって消えて、そこで動かなくなったんやからなぁ。おかげで研究棟の廊下走らせてもろてるわ。あはははは」
「す、すみませんでした」
全然気にしてへんよぉってにこやかにしているけれど、目が笑っていない。夕陽ちゃん、怖い、怖いよお!
「読んでみたい本があるんやけど、学生証家に置いてきてて借りられへんて、約束の時間ぎりぎりまでいじけてたんを、うちが代わりに借りたげたんやなぁ。『五色五人女』途中やのに、欲張りも大概にしぃやぁ」
「はい、反省してます」
「うちはええけど、安達太良先生がどない思てはるかや。ちゃんと謝るんやでぇ」
「了解です!」
あーあ、叱られちゃったよ。だけれど、遅刻したのは明らかに私のせいだ。認めよう。食べた後すぐに運動させてごめん。お腹の横がじわりと痛むよね。あと、学科主任の時進先生に「廊下を走らない」と注意されてしまった。『なぜ人は約束を破るのか』という分量が多そうな単行本を抱えていらっしゃったが、偶然だろうか。気まずい冗談にしかとれない。
「すみません、遅れました!」
二〇三教室の左隣、二〇二教室ことまゆみ先生の研究室にようやく到着。刻限はとうに過ぎている。どうしよう……。沈痾自哀文並みのお説教か、えぐりこむような鉄拳がくると構えていたが、どちらも無かった。先生はただ爽やかに笑って、
「構わないわよ。臨時で招いたんだから」
さらりと流してくださったのだった。
「遅刻は認めないて書かれてましたけど、ええんですかぁ?」
くたびれていた夕陽ちゃんが、荒い呼吸を整えながら訊ねた。
「ええんです。私のカンだと、図書館の誘惑に負けた、かしらね。読書家の大和さんらしいでしょ。あくまでカンよ、カン」
いえいえ、的を射ていますよ。まゆみだけに。カンを強調されるあたりが、毒を含んでますよね。
「お喋りは切りあげて」
まゆみ先生が、手前の椅子をすすめてくださった。定期的に片付けされ、きれいな状態を保っている白の空間が清々しい。だからといって、居たたまれなさを感じさせるわけではなく、ふらりと寄りたくなるような温かさがある。仕事場というより、小部屋だ。
「さあ、揃ったわよ。新メンバーさん、出てらっしゃいな」
奥に誰かいたのか。いや、新メンバーってどういうことよ。まさか、増員のためにわざわざ捕まえてきたんじゃないよね。自主的に入ったのなら、とんだ物好きだよ。
先生の呼びかけに応えて、ついたての向こうから一人、姿を現した。格式高い喫茶店の給仕係みたいな装いの、長身でやせ形の男性……? だった。
「自己紹介、お願いね」
その男性は、先生に黙礼して私たちの前まで来た。
「………………」
『?』
つかみ取れない表情でじっと立ちつくす男性。青白い肌、具合でも悪いのかな。こんなこと思うのは失礼なんだけれど、人間なのだろうか。
室内が無音で満たされて刹那、張本人が噤んでいた口をかすかに動かした。
「理学部、化学科4回生、仁科唯音……です」
注意深くならないと聞こえない音を拾い、私は夕陽ちゃんと顔を見合わせた。硝子玉を優しくこすり合わせたような、繊細な声色。この人、女性だ。丸みの無い体型で判断したのがいけなかった。
「え、えっと、日文……いや、日本文学国語学科、二回の大和ふみかです」
「文学部日本文学国語学科、二回生の本居夕陽と申します。昨日入隊したばかりで至らないところもありますが、よろしくお願い致しますぅ」
出端をくじかれた。私たちはつい早口で紹介をすませてしまった。しかし、仁科さんは一寸も感情の揺らぎが無く、
「……です」
と妙な間をおいてから、丁寧な断定の助動詞で終止させた。うーん、ひと癖ありそうな方を連れてきましたね。
いびつなご対面をしたところで、まゆみ先生が景気づけ程度に仁科さんの背を叩いた。
「仁科さんはね、化学科創設以来の偉業を成し遂げたの。今年の春学期が始まってすぐに卒研を出したのよ!」
まるで我が子を自慢するかのように、仁科さんの両肩を抱いて上機嫌に語る先生。あの、私、理系には疎いんですけど。ねえ、夕陽ちゃん。
「それ、聞いたことありますぅ。ナノテクノロジーの食品への応用について研究されたんですよねぇ。豆の構造をどないかしたら、別の食品に作り替えられるんでしたよねぇ。世界の食糧問題の解決策になるかもしれへんて伺うてますよぉ」
……勢い良く食いついているし。忘れてた、夕陽ちゃんの辞書には文理の隔てが存在しないんだった。博識なお友達、いと恥ずかし。
「そうなのよー! 早くも実用化されるみたい。大学院進学のお話も出ているらしいわ。まさに空満大学の誇りね!」
こちらはこちらで興奮されていますし。日本文学国語学科って、化学も研究の対象でしたっけ。私が勉強不足なのか、お二人がご立派すぎるのか、分かんないよ!
「…………」
最先端科学の展望について議論している先生と夕陽ちゃんを、先輩はぼんやり眺めていた。光の無い瞳は、色濃く、波立たない、夜更けの湖だ。
「ふみかさん……」
「ほえ」
話の輪に外れた私へ、声をかけてきた。えっと、何かご用ですか?
「それ……」
テーブルに置かせてもらっていた物に、関心を寄せているらしい。
「え、あ……、どうぞ」
視線の圧力に負けて、つい差し出してしまった。借りたての文庫本なので、お譲りできませんけれど。
本を手に取り、静止する仁科先輩。どうやらジャケットに釘付けのようだ。新たな研究の材料にでもするつもりでしょうか。
「…………………………」
ひたすらの黙秘。考え事をしている風にもみえるし、器用に寝ているようにもとれる。だけれど私の深読みだったそうで、先輩はこの一言だけ発した。
「私に、文学を楽しむ、資格は、ない……」
仁科先輩は、無駄な動作をせずに席を立った。
「ちょっと、仁科さん!?」
異変を察したまゆみ先生達が、帰るのを留めさせようとしたけれども、既に遅かった。
「お待ちなさあい!」
開け放たれた扉の外へ、先生は叫んだ。でも、そこに先輩の姿は無かった。
「逃げられたわ……」
よろめいて、へなへなと膝をつくまゆみ先生。なんだか労しくなってきたよ……。
「誰が逃げたって?」
名状しがたい雰囲気にさっと入ってきたのは、思いもよらない人だった。
「やあやあ、こんにちは」
『額田先輩』
夕陽ちゃんと重なる声。日本文学国語学科でその名を知らない者はいない、憧れの四回生、まゆみゼミの切り札、額田きみえ先輩だ。学内でわずかの、現役で教員試験に合格したひとりだという。前髪を上げてあらわれる広々としたおでこが、聡明で生き生きとした容貌を引き立たせている。
「へえ、君たちが隊員だったのかー」
私と夕陽ちゃんを交互に目をやって、興味ありげな額田先輩。もしや、入隊を希望されているんですか?
「違う違う。私はただの推薦人。唯音の様子を伺いにね」
先輩は、屈託の無い笑いで返した。
「仁科先輩とお知り合いやったんですかぁ?」
「うん、一回での縁でさ」
やはり夕陽ちゃんも気になっていたか。学部を越えた友人がいるなんて、ちょっとだけうらやましいな。私は学科で精いっぱいだよ。
「それでまゆみ先生、唯音は?」
額田先輩が訝しそうなまなざしになった。研究室をくまなく探し回ってみたけれども、仁科先輩はどこにもいない。
「脱走したわ。私に文学を楽しむ資格は無い、と言い残して行ってしまったの」
大物をすんでのところで獲りそこねたように、先生は悔しがっていた。和みかけていた場が、また締めつけられてゆく。
「私のせいかもしれないです」
しまいこんでいては、いけない。はっきり口に出そう。私は額田先輩に、例の文庫本をお渡しした。
「どれどれ……」
仁科先輩を魅入らしめた小説、『元素くんの冒険 エピソードⅠ:僕の成り立ち』。ジャンルはSFファンタジーなのかな。著者が「原子博士」だし。ジャケットの絵に、温かみがあるんだよなあ。色鉛筆画で、主人公であろう王子様がいとけない。
「唯音、まだ引きずっていたのか」
題名が記された部分を指でなぞり、額田先輩は静かに息をはいた。何か悟ったみたいですが、いかにやいかに。
「この際だから、唯音のこと、ぜんぶ話すわ。長くなるかもだけど、オッケー?」
唯音のお家は、化学の世界でかなり有名なんだ。空満に大きな研究所まで持っているぐらいでさ。紀元神宮を知ってる? そうそう。初代の帝が祀られている大きなお社。あの辺りに変わった建物、三つの三角柱があるんだけど、その建物の集まりが、仁科研究所。唯音の実家で、将来はそこの研究員として働くことになってる。
その仁科家には、風変わりな人がいたんだ。仁科弦志さん。唯音のお祖父さんで、化学の権威でありながらSF作家でも活躍されてたの。弦志さんの代表作といえば「元素くんの冒険シリーズ」。そうそう、ふみかちゃんが見せてくれた物だよ。もう分かってるかもだけど、「原子博士」はペンネームね。他にもショートショート集『元素千夜一夜物語』とか新聞で連載していた『恋した希ガスるアイソトープ』があるよ。でも、仁科家の人たちは、弦志さんを良く思っていなかった。化学以外で名を挙げることが許せなかったみたいだね。それで、弦志さんは仁科家で孤立していて、存在をほとんど無視されていたんだ。悲しいけど、つらいことは重なるもので、ずっと味方でいた奥さんが亡くなって、弦志さんは、ますます仁科家から遠ざけられてしまった。
でもね、ただ一人だけ弦志さんを慕っている人がいたんだ。そう、唯音だよ。物心ついた頃から唯音は、ご両親や家の人たちから化学の勉強を強いられていてさ、とってもつらかったんだって。そんな時、唯音は決まってこっそり弦志さんを訪ねては、絵本を読ませてもらったり、古典や小説のことを教えてもらったりしていたんだ。勉強ばっかりさせられて化学嫌いになりかけた唯音を、弦志さんが文学で励ましてくれたこともあったんだ。それで唯音は、いつかお祖父さんのような、文学もできる化学者になることを夢見てたんだよ。
だけど、二人の幸せな時間は、長く続かなかった。唯音が小学五年生の頃、いつものように弦志さんの家で遊んでいたら、急にご両親がたずねてきたんだ。娘が知らないうちによく出かけているから、おかしいと思って後をつけていたみたい。そうしたら、あの弦志さんの家に着いたもので、驚いてしまった。怒りに震えたご両親は、弦志さんをひどくなじったよ。仁科に不必要な文学を教えて、化学の勉強をおろそかにさせた原因はお前か。とことん仁科の看板を傷つける愚か者めってね。そして、二度と娘に近づくなと弦志さんから唯音を引き離してしまった。それから、唯音は一人で外出するのを禁止されたの。学校が終わればすぐに家に帰って化学の勉強、友達の誘いは断って仁科の名声のために尽くすようにってね。あの人―お祖父さんのことは一切口にするなとも言われたそうだよ。
……これだけでも心が痛むのに、次の年、弦志さんが亡くなったんだ。
ある日、弦志さんが何かぶつぶつ言いながら、ふらふらと家の近くを流れる川をさまよっていたのを、近所の人が見かけたそうなんだ。それを最後に、弦志さんは突然、姿を消してしまった。うん……、夕陽ちゃんの言う通り、溺れて亡くなったの。一冊の本を大切そうに抱えて……。なぜかその本だけは濡れないで残っていて、「唯音へ」と書いてあったから、その本は形見として唯音に届けられたよ。後で分かったことなんだけど、弦志さんがつぶやいていた言葉は、最愛の妻と孫の名前だったんだ。涙を浮かべながら、ずっとずっと呼び続けていたんだって…………。
事実を知った唯音は、強く自分を責めた。自分のせいで弦志さんを死に追いやったんだ、自分が弦志さんに関わらなければ、こんな悲しいことにならなかったんだ、って。弦志さんとお別れしてから、唯音は文学から遠ざかっていったんだ……。
唯音は何も悪いことしていないのにさ、今でも気にしているんだ。唯音は悪くないのにさ、ずっと弦志さんとのことを背負い込んでる。弦志さんだって、唯音のせいだと思ってない。文学を一緒に楽しめて嬉しかったはずだよ。唯音は堂々と文学を楽しんでいいんだ。これ以上、唯音に苦しんでもらいたくない。お願い、ふみかちゃん、夕陽ちゃん、まゆみ先生、唯音を助けてあげて。
「あ、あの……」
額田先輩がひと呼吸おいたところで、私は遠慮しながら手をあげた。すると、三人の視線が、私に集まった。
「これ、思いつきなんですけど」
仁科先輩が、もう一度文学を楽しんでもらえるには。私は、ふと浮かんだことを言葉に変えて、皆に聞いてもらった。
「うんうん、ふみかちゃんナイスだよ!」
「せやな。それやったら、先輩も楽しんでくださるわぁ」
額田先輩と夕陽ちゃんが、口を揃えて賛成してくれた。本当の本当に思いつきなんだけれど、いいのかな。まあ、いいのだろう。うなずいているのだから。
「良し、その作戦でいきましょ!!」
最後にまゆみ先生が、親指を立てて許可のサインを出してくださった。そして、太陽が白旗を揚げそうなくらいの輝かしいスマイルで、こう命じた。
「日本文学課外研究部隊、本日の五限は、仁科さんに文学PRをします。三人目のヒロインを、とにもかくにも救い出すわよ!」
『ラジャー!』