第二番歌:胸の奥にも Si・Ca(鹿)ぞ鳴くなる(一)
一
闇の中を、私は走っている。いつからここに迷い込んだのか、全然覚えていない。月も灯りも無い、真っ暗な世界。前へ行こうとしているけれど、どこもかしこも同じ闇で方向の見当がつかない。
「大和さん、観念なさいな」
私は、追われている。それも、私の知っている人に。
「ふふっ、ふふふふっ……」
すべてを見透かしているかのように、追っ手の声が私を嘲笑う。どこを走っているのか、分からない。追っ手より離れているのかもしれないし、近寄っているのかもしれない。とにかく、声から逃げたい。逃げたいんだ。
「逃げようとしたって、無駄よ」
体が、浮いた。まるで糸で吊られたように、あっけなく。だけれど、私を浮かせていたのは、糸なんかじゃなくって、あの人だった。
「ま、まゆみ先生……!」
担任の先生の顔が、暗闇からぼうっと現れた。鋭くきりりとした目が、こちらを見すえている。お、大きすぎやしないだろうか。だって、豆みたいに私をつまんでいるんだよ!? 私の地元、内嶺の廬舎那仏といい勝負じゃないか。
「これからも仲良くしましょう。おはじき名人さん」
と言って、まゆみ先生の唇が裂けんばかりに引き伸ばされた。その状態で怪しく、恐ろしげに私に迫って―、
「きゃあああーっ!!」
抵抗できず待ったなしに、先生の口の中に放り込まれてしまった。走っていた所よりも深い黒色が、私を飲みこんでゆく。存在をあっけなく無にする、強大なものに押しつぶされたような感じ。ありえない、帰りたい、出ていきたいよう!!
「……っ!」
狂いもなく一定の調子を保ち続ける無機質な音が、私の体をベッドへと戻してくれた。目覚まし時計が、朝を告げているんだ。
「嫌な夢……」
冷や汗が、首にまとわりついて心地よくない。先生の「おはじき名人さん」が、低く、ゆっくりと耳の内側で再生されているからだろうか。
「ああ、んもう」
重く、だるい体を無理やりに起こして、枕元でうるさい目覚ましを止めた。その隣に、伏せてあったはずの写真立てが面をあげていた。
「……絶対、これのせいだ」
幼い頃の私が、賞状を得意気に掲げている。内嶺県おはじき大会優勝、こんな賞もらってえらそうにしているなんて、ばか。後に何が待っていたのかも知らないで……。
「どうでもいいよ」
母のしわざだな、とため息ついて、写真立てを再び倒しておいた。そろそろ登校しなきゃ。今日は一限始まりだ。眠気がくすぶっていることだし、とりあえず、顔を洗おうか。
― 一日は、思った以上に長い。朝から夕方まで教室で座っていればいつか帰れるなんて、まったくもって甘すぎる。光陰矢の如しという諺は、お気楽な毎日を過ごしていた人が作ったんだよ、きっと。特に今日は時間が経つのが遅かった。一限目の「自然科学B」は教科書をうっかり忘れて、先生の言っていることが八割方ちんぷんかんぷんだった。クロロフィルって何よ。アントシアンって、闘魂を注入するプロレスラーにもいたよね? あ、違うか。二限目の「日本古代史B」は、まさかの抜き打ちテスト。歴史は得意なのに、なぜかこの日は勘が鈍かった。シャコウキドグウのグウと、ハニワのハニの漢字が全然書けなかったし。終わりの二分前で気づいて直そうとしたけれど、消しゴムが転がってそれどころじゃなかったんだ。年季が入って丸っこくなってたせいで教室の端までいったよ。新品に替えておけばよかった。貧乏性が恨めしい。
「はあ、なんとかしてよ。んもう」
古代史の拷問から解き放たれ、逃げるように待ち合わせの場所へ向かった。私のいる校舎は、二つの棟が合わさったL字型の建物だ。北へ伸びる縦棒がA号棟、西に面している横棒がB号棟で、学内ではひとまとめにしてA・B号棟と呼んでいる。文学部や外国語学部、一般教養科目の講義は大方ここで行われているんだ。
三階を後にして一階へ。確か、掲示板のあたりだったはず。
「休講あるかな……」
授業が済んだばかりの人たちの間をぬって、休講と教室変更のコーナーを確かめた。月、火、水、木、金曜とくまなく見たけれど、休講の張り紙は無し。残念。おとなしく待っておくか。
「ヒロインになって、ツキが落ちた気がするよ」
昨日の放課後、私はヒロインに変身した。まゆみ先生に誘われ、「日本文学課外研究部隊」という文学サークルに入らされていきなり活動始めちゃったんだよね。文集でも作るのかと思えば、「スーパーヒロインズ!」のレッドになって運動場で和歌を叫んで、野守が出てきて、襲ってきて、戦って……。
「おはじき、やってしまったんだよなあ」
パーカーにしまいこんでいた物を取り出す。先生がくださった、赤地に黒のチェックがおしゃれなパッチン留め。
「流星のごときおはじき名人・赤い閃光の正体は……大和ふみかさん。あなたよね?」
どうして昔の事を言ってきたんだろう。このパッチン留めで、おはじきをしてほしいの? それとも、また野守みたいな変なのと戦う時に使えということなの?
「意図が読めないよ……」
「ふみちゃん、ふみちゃん!」
わっ!? 無意識に体がびくついた。うつむいていた顔を正面になおすと、リボンがお似合いの待ち人が立っていた。
「ゆ、夕陽ちゃん」
私と同じく日本文学課外研究部隊に入隊した、本居夕陽ちゃん。野守に捕まえられて肝を冷やしただろうに、昨日と変わらない柔和な表情だった。
「昼間やのにぼぉーとして、どないしたん?」
「い、いや、別に、何とも……」
考えごとしてたって、普通にこたえればいいのに。私ってば、そっけないなあ。それに比べて夕陽ちゃんは、幸せそうだね。いいことでもあったの?
「あははは、ばれてしもたぁ」
夕陽ちゃんは両頬を覆って、嬉し恥ずかしとココア色の暖かそうなロングスカートをひらひら舞わせた。
「早起きして共同研究室で勉強してたら、会えてぇん」
「誰に」
「愛しの真淵先生に決まってるやんかぁー」
照れながら言って、弦楽器で奏でられる春の曲(後で教えてもらったけれど、ヴィヴァルディらしい)をハミングする夕陽ちゃん。もしもし、季節がずれてるんですけど。花は散って枯れ葉、お菓子は苺じゃなくて栗とさつまいも味だよ。
「講義以外で真淵先生をお見かけするて、激レアやわぁ、パラダイスやわぁ」
……聞いてないし。完全に真淵先生で胸がいっぱいだね。あれは。
「ご挨拶したら先生、『夕陽さんは、たいそう熱心でいらっしゃいますねえ』て仰ったんやよぉ。それからなぁ、『しかし、根を詰めてはなりませんよ。無理なさらないように』て。ありがたくて畏れ多くて、露になって消えてしまいたいほど赤面してもうたわぁー!」
辺りをはばかる事なく、夕陽ちゃんは言葉にもなっていない奇声をあげる、あげる。恥ずかしいのは、私の方だよ。横目でにらんでる人がいるんだもの。誰か「白玉か何ぞ」と問いかけてくれないかなあ。
「よ、よかったね」
「ほんまやわぁ! 罪すぎるくらいに素敵なんやよ。若々しくて、お優しくて、シュッとしてて、光源氏と薫と兵部卿が束になってもかなわへん。だんぜん真淵先生や! 男前レベルが始めからけた違いやもん。来年のゼミは絶対、真淵先生とこいくわ!」
掲示板前にて、恋の炎が激しくあがっている。そのうちリボンに引火するんじゃないだろうか。頼むから、落ち着こう。目立ってしょうがないから。
「それと、講義コンプリート! 全部休まへんで満点とるんや。『優』や『優』、頑張るでぇー!」
「はい、はい」
いいから、お昼食べに行こう。と暴走する友人を引っぱりだそうとしたら、何かが私たちの間を素早く横切った。
「む、虫?」
田舎なんだから、飛んでいたっておかしくない。だけれど夕陽ちゃんが、
「ふえ、ふえええええ」
ただ事じゃないように怯えている。
「ふ……ふみちゃん……、あれ……あれ…………」
メガネごと身をがたつかせて、夕陽ちゃんが前方を指した。壁に堂々と突き刺さっていた物とは―矢だった。
「物騒だなあ」
よくも学内に放ったものだ。戦乱の世でもあるまいし。しかも、白羽。いたいけな学生をいけにえにするつもりか。
「時代小説でもやらないよ」
怖がる夕陽ちゃんと、白昼の襲撃に呆けている周りの人達の中をすり抜けて、私は矢を引っこ抜いた。それほど力を入れなくても壁から外れてくれた。なんだ、吸盤だったのか。
「驚かさないでよね……ってあれ」
「ふみちゃん?」
「紙が結んである」
先に近いところに、細長く折りたたまれていた紙がくくられていた。矢文かな? ほどいて広げてみると、濃くすられたであろう墨の兵隊が整列していた。
日本文学課外研究部隊総員に告ぐ!
本日の十二時半、私の個人研究室に来られたし。いかなる理由があろうと、遅刻は認めないわよ。
司令官 あだたらまゆみ
…………あなたでしたか。まゆみ先生。もしやと思っていましたけれど、本当だったなんてね。というか、伝える手だてが古風だよ。まゆみだけに矢ですか、洒落たつもりが戦慄させてます。どこから射ったの? 労力を惜しまないにもほどがありますよ。
「そろそろ行こうか」
「せやね」
ふう、とんでもない担任兼顧問に当たったものだよ。放課後以外にも活動ですか。忙しいサークルだなあ。先生直筆の手紙を適当に丸めてカバンにねじ込み、私たちは動くことにした。さて、まずは腹ごしらえだ。