第一番歌:野守は見ずや ふみか手を振る(三)
三
先生に連れられ、道路をA・B号棟側へ渡ってすぐの場所まで来た。そこは、網で囲まれた運動場。使われるのは、体育系科目か、昼休みぐらいだけれど、三人で貸し切るには、とても広すぎた。
「ふみかレッド、ゆうひイエロー、位置につきなさい」
まゆみ先生が手を振って、決まった地点へ移動させた。
「日本文学をよおく知ってもらうには、私たちが正しく、心こめて読みあげなければいけません。今からその練習をしてもらうわよ」
ゆうひイエローと目を合わせて、今の言葉を反芻する。日本文学を読む練習かあ。ですが、なぜに運動場の中心で行うんですか?
「本番に近い状況がいいと思って。文学PRは原則、外で行うの。教室に閉じこもって読んでいたって、勉強会と変わりないでしょ。だだっ広い所で、思いっきり文学を声に出す! それが基本よ」
左様でございますか。まゆみ先生の目に、炎が燃えさかっている。もう止められないみたいだね……。
「今回、声に出してもらう日本文学は『萬葉集』巻一、二十・二十一番歌。去年の講義でやったけど、覚えてるかしら?」
「え、えーと」
いけない。番号で言われて頭の中が「?」だらけになった。上の句を聞けば思い出せるんだけれど……。
去年の記憶を急いで巻き戻しはじめた時、傍らの友人がメガネを軽く上げながら、「『天皇蒲生野に遊猟し給ひし時額田王の作れる歌』と『皇太子の答へませる歌』ですね。あかねさす、とむらさきの、でそれぞれ始まる」
あー、そう、それだ!イエローの確かな記憶力のおかげで、やっと思い出せたよ。額田王と大海人皇子の、紫を詠んだ歌だ。
「正解! じゃあ、二十番をふみかレッド、二十一番をゆうひイエローに詠んでもらうわね。では、始めましょ!」
まゆみ先生の弾んだ声で、日本文学課外研究部隊の活動が幕を開けたのだった。
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振るー!」
「紫の にほへる妹を にくくあらば 人妻ゆえに あれ恋ひめやもぉ!」
さびしいくらい広々とした運動場で、一斉に朗詠した。中学校の体育でも、似たことさせられたっけ。のどがかれるまで校歌を歌ったり、好きな人の名前を叫んだり。大声を出すって、かなりエネルギーがいるんだよなあ。さて、いかがでしょうか。
「こらあー、ぜんっぜん届いてないわよ! おなかから声出してる? 情景もうかべてないでしょ、やり直し!!」
運動場の端から、鼓膜が破れそうなほどのダメ出しが返ってきた。あの細い体のどこから出ているのだろうか。ええい、次こそは!
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振るー!!」
「紫の にほへる妹を にくくあらば 人妻ゆえに あれ恋ひめやもぉー!!」
先ほどの指摘を参考にやってみた。イエローの顔がもう真っ赤になっている。お互いに普段、声を張り上げないから、遠くへ飛ばすのは正直、とてもしんどい。
しびれる頬をおさえて、相手の気色をうかがった。顧問は腕を組み、ゆっくりうなずいて、
「まともに聞こえるようになったわね。だけど、大声ばっかり出しても、誰かの心に届かないとダメなの! もう一度!」
人差し指で「一」のサインを送るまゆみ先生。講義の時よりいみじく厳しいんですけど……。
「声が落ちている、やり直し!」
「うそくさい言葉はいらないわ、はい次!」
「私にだけ届いても意味ないでしょ、出直しなさい」
「惜しいわねー、標野がまだぼんやりしている。もっと額田王と大海人皇子の世界に入り込んでみて」
詠むたびに顧問の厳しい評価が返ってくる。初めは「どうせ素人ですよ」と卑屈な態度を見せていたが、数を重ねると、顧問に応えてみせたい、負けたくない気持ちに変わりつつあった。
日がすっかり西へ大きく傾き、学内から人気が無くなってゆく。それでも、私たちは構わずに朗詠を続けていた。
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る!!」
「紫の にほへる妹を にくくあらば 人妻ゆえに あれ恋ひめやも!!」
何回詠んだのか全然覚えていない。のどや腹筋の痛みなど、もう忘れてしまった。ただ歌に込められた思い、詠まれた景色を声と共にどこかへ飛ばすことだけを考えていた。まだ日本文学を読んだことのない人のため、日本文学の素敵なところを知らない人のために。
「あなた達…………」
まゆみ先生が、驚いて二の句がつげなくなっている。腕をわなわな震わせて、そのまま、私たちへと爆走しはじめた!
「え、え、え」
「はわわわわ、安達太良先生!?」
逆鱗にふれちゃった!?砂煙をあげてやって来た先生を前に、思わず目をつぶりそうになると……。
「良し!!」
予想外にも親指を立てて、太陽のごとき笑みをくださった。
「やっぱり、あなた達を選んで大正解だったわ! 最初は声を張り上げてやっとだったのに、心にじんじんくるまでに進歩して。私、『優』付けてあげたい!」
ハイタッチを求められ、流れのままに手を挙げる。ふれた先生の指先が、ほんのり温かかった。
「そんなぁ、まだまだですよぉ」
恥ずかしそうにメガネを上げ下ろしするイエロー。その隣でうなずいてみたけれど、先生はかなり上機嫌なようで……。
「いいスタートを切れて、嬉しい限りよ。第二十、二十一番歌も喜んでいるわ! 若くて才能あるあなた達の声が、萬葉の魂を呼び覚ましてくれた!!」
感極まったか、あちらこちらへ舞い踊りはじめた。そんなに素晴らしかったんですか。
「景色がここまで現れてくるのよ。標野で袖をふるいけない君に、恋に落とさせるあぶない人妻の妹、そして紫……。古の歌が今ここでよみがえっている、最高じゃない!!」
最高じゃない、の「い」の響きがちょうど止んだ頃、地面が小刻みに揺れ動いた!
「な、何!?」
「ふええええええ!」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!低いうなりをあげて、運動場が上下に震える。立っていられないわけでもないが、振動が足から膝へ伝わって気持ちが悪い。
「ごめん、レッド。うちの記憶違いかもしれへんけど」
がたつくメガネを必死におさえながら、私に訊ねた。
「今日て、雲の量あんなに多なかったやんなぁ?」
え、雲? イエローに促され、空を見上げる。なんと驚くことに、私たちがいる場所に雲が集まっていた。
「色もおかしいんやわ。白だけやねん。ほんまやともう少し黒っぽいやろ」
そうだなあ、どこをとっても白だね。もはや光の加減を無視しているとしか言えない。奇妙な雲はますます増えて空を占拠し、他の色を寄せ付けなくした。同時に、運動場の揺れがおさまってくれて良かったのだけれど、
「あれま、グラウンドが標野になってるわぁ……!」
殺風景から打って変わって、見渡す限り緑にあふれていた。
「先生の仰る通り、情景が見えてくるんやねぇ」
「いやいやいや、ありえないよ」
思わずツッコんでしまった。和歌を詠んだだけで運動場があっという間に野原になるなんて、おかしいよ。手品でも大がかりすぎる。
「やけど、現に草生えてるやんかぁ!」
イエローが飛びはねながら叫ぶ。
「普通こんなところに生えたりしないよ」
「じゃあレッドは嘘や思てるん? ほんまやのに」
「嘘というか、悪い夢だと思う」
「夢なら、つねってみ。絶対痛なるわぁ」
ほら、と頬をさしだしてきた。頑固だなあ、もう。
「わかった、やるよやりますから。はい」
白くて柔らかいイエローの頬をつまみかけた寸前、
「そこで何をしている!」
『!?』
どこからともなく、古風な恰好をしたおじさんが現れた。襟、帯の結び方からして、飛鳥・奈良時代か。まゆみ先生の講義で使った資料で見たものと一緒だ。
「ここは許された者だけが入れる場だ。見知らぬ女どもよ、いづくより来たのだ」
装束だけでなく、言葉づかいまで古めかしい。胸当てを付けて、槍まで持っている。しかも、ごつごつした体つき。…………ということは、
「レッド、この人てまさか」
「野守だ」
「歌から飛びだしたんやろか」
「う、うーん…………」
「余計な話をするな!」
小声でひっそり話したつもりが、丸聞こえだったらしい。うう、ものすごい剣幕でにらみつけている。
「お前たち、いづくより来たのか答えよ! 答えねば……」
手にしている槍で、自身の周りに生えている草を薙ぎ払った。その切っ先に触れた草は、やすやすと四分、八分に裂かれてしまった。
「ひええええええ」
無残に切り刻まれた草を見て、イエローがひどくおびえた。
「怖くない、怖くないよ」
びくびくするイエローを撫でて、黙って野守をにらみ返す。引っかかってはいけない。単なる脅しだ。
「言わぬのなら、捕えて吐かせるまで」
槍を構えて、少しずつこちらへ近づいてくる。完全に侵入者扱いみたいだね。
「ふえええ、ええと、逃げず・逃げて・逃ぐ・逃ぐるとき・逃ぐればぁ……」
「逃げよう!」
活用変化させている場合じゃない。とにかく足を動かさなきゃ! 私はイエローの手を引き、野守に背を向けて駆け出した。