第六番歌:アダタラマユミの白猪征伐(四-三)
たったひとりの婦人が、砂漠をさまよい歩いている。
婦人には、色が無かった。切りそろえられた短い髪、瞳や肌、着ている物まで、無色。首にかけた弓のチャームにも、輝きは一切失われていた。世間一般で「優しい」とされている思いやりの浅い者であれば、それは「白」でれっきとした色ではないかと偽善の言葉を贈るだろう。
だが、「白」とはいえないのだ。そこに何も無く、数えきれぬほど存在するというのにどれにも染まらず、選ばず。何かに優れていることはなく、劣っていることもない。何者にもなれなかった、虚しい有様。
そして、婦人がいる世界も、同じだった。細い足首にまとわりつく砂も、無限に広がっている空も、虚無。つまらない世界は、何にも彩られることは無く、変わることも無かった。色を失ったのか、色を忘れたのか、色を捨てたのか、それとも―もともとそういう概念がなかったのか。
おまえは、何色でもない、中途半端な人間だ。
二度目の大学受験に臨んでいた頃だったろうか。滅多に怒鳴らない父から、このような呪いをかけられた。精進を怠り、将来の夢を描けず、未来が見えぬと嘆く私を励ますためのまじないだったのかもしれないが、この年になってもその詞は、足枷となっている。
「私は、何者なの。分からない、怖い。助けて。私を………………救って」
乾ききった声が、婦人からしぼり出される。数々の経験をふまえ、成熟した心を持ち、余裕があるはずの大人には相応しくない、悲しみ、嘆き、懇願の言葉だった。
「そうか……。私は、ここで独り、命果てるまで惑うほかないのね」
婦人は虚空を見上げ、目を閉じた。心にあらゆる痛みを受けた彼女に、涙を流す間も与えられていなかった。そのまま力を抜いて、砂に身をゆだねようとした―。
「まゆみセンセ!」「安達太良先生!」「安達太良まゆみ!」「まゆみさん……!」
「まゆみ先生!」
突然、天から色とりどりの叫びがした。それは、私の名前。ただひとつ、私が「いる」ことを証明できるもの。驚いてまぶたを開くと、ただ無が支配していた空に、五つの星が現れた。桃色・黄色・緑・青・赤の輝きが、だんだん大きくなり、私の元へ降ってきた。
砂漠に落ちた星は、なんと五人の女の子だった。それぞれの輝きと同じ、もといもっと個性を表す呼び方があった―おのおの撫子色、蒲公英色、常磐色、露草色、緋色の衣をまとい、倒れそうになった細身で背の低い婦人を抱きとめた。
「助けにきたよ! まゆみ先生」
赤の乙女がそう言って、婦人の名を優しく呼ぶ。うつろだった瞳から、温かいものが流れてきた。永い間抱えていた苦しみが、一気に押し出されてゆくようだった。ずっと、待っていたのだ。ずっと、求めていたのだ。無の世界から救い出してくれる、ヒロインズを。
「あなた達は………………………………………………………………」
涙にむせびながら、婦人―安達太良まゆみが訊ねる。
おかしいわね、泣くまいと、弱き己をみせてはなるまいと、耐えて生きてきたのに。ねえ、改めて教えて。あなた達は、誰。聞きたいの。私を助けにきてくれた、あなた達のこと。あなた達から、聞きたいの。今だけは、私のわがままを、どうか許してほしい。
五人の戦士は、五者五様にまゆみへ笑顔をみせた。緋色の乙女は、素朴だが温かい笑みを。露草色の乙女は、よき人の目になりよく見ればわかる笑みを。常磐色の乙女は、とがった歯を出した天真爛漫な笑みを。蒲公英色の乙女は、上品で聡明さが内からにじみ出ている笑みを。撫子色の乙女は、とこまでもまっすぐで愛嬌のある笑みを。そして、師の願いに応えんと五人揃って、こう名乗ったのである。
『私たちは、日本文学課外研究部隊、またの名をスーパーヒロインズ!!』
私は、何者なの。
アナタは、非ヒロインだッた乙女ヲ、ヒロインに変身サセてくレタ、安達太良まゆみ
私は、何者なの。
あなたは、乙女に、学問の他にも大切なことを教えてくれはった、安達太良まゆみ
私は、何者なの。
てめえは、乙女を素敵なレディに導く、天下無敵っ、国士無双っ、安達太良まゆみ
私は、何者なの。
はい、あなたは、あなたの書いた物語で乙女の縁をつないだ、安達太良まゆみ
私は、何者なの。
おまえは、何色でもない、中途半端な人間だ。
私には、色が……無い…………。
―違うよ。あなたは、乙女に色を見いだしてくれた、光の色。乙女に色を塗ることができた、紙の色。
あのね、白は、色の仲間に入らない、って考える人もいるけれど、白は、色を生み出す色でもある、って考える人もいるんだよ。
中途半端な、色なき人間じゃないよ。
無限の可能性があり、誰かにもそれをあげられる、白の人間だよ。
さあ、目覚めて。さあ、生まれ変わって。
そして、詠って。あなたが、あなたである名前を―!!
誰かの命の動きをなぞっているかのように、人工的な鼓動が、耳を打つ。
ほどよく身体を沈める床と、かけられているらしき綿入りの布が、温かい。
私は、また意識を失い、長く眠っていたのか。だが、ヒロインズが何ものかと戦っているくっきりした夢は、見えなかった。代わりに、若き日の、懐かしい思い出を、ヒロインズと私が演じていた……と思う。
父の言葉に囚われ、「抜け落ちた記憶」があることに怯えながら年月を経て、大学教員という名の「形」を得たものの、私が誰なのか分からず惑っていたところを、彼女達に助けられたのだ。自らを救えぬ私が、他者に、しかも空想の世界にしかいないとされる「ヒロイン」に、物語を通して、声をあげていた。
神無月に五人を集めたのは、どこにも部活動に所属をあてていなかったから、ゼミ生から紹介してもらったから、袴垂に近い危なっかしき少女を見過ごせなかったから、「ホントウノワタシ」探しに苦労していたから、の単純な理由だけではない。それより前に、五人とは会っていて、ひとりひとり話していった中で、確信を持ったのだ。彼女達こそが、あの「五色五人女」、今様に称するならば、「スーパーヒロインズ!」だ! ……五人は、覚えていないと思うけれどもね。そういう私は、三割方忘れているけれどもね。年齢のせいにしておきましょ。
さあ、目を覚ましましょ。巨岩に下敷きにされているような動きにくさより、解き放たれたわ。ありがとう、ヒロインズ。左手を握ってくれているのは、主人、かしら。ごめんね、あなたには、いつでも笑っていようと心がけていたのよ。
「…………改めまして……、ただいま」
清潔な室内に、主人が白玉のごとき涙をこぼしていた。そして、五人の女の子が、世を照らさんばかりの面持ちで迎えてくれた。
大和さん、仁科さん、夏祭さん、本居さん、与謝野さん。いいえ、私が縫ったあの服を着てくれて……ダメね、変身、してくれているのだもの。そう、ふみかレッド、いおんブルー、はなびグリーン、ゆうひイエロー、もえこピンクね。ヒロインの「形」、いみじく似合っているわ。「形」がヒロインに変身させたのか、ヒロインがまとうから「形」となるのか。どちらでも構わないわ、あなた達は、立派なヒロインになれているから。
感謝の気持ちに、私が何者か、名を告らむ。
「私の名前は、安達太良まゆみ」




