第六番歌:アダタラマユミの白猪征伐(三)
三
白猪との決戦の日、神無月三十一日を迎えた。早めのお昼ごはんをかきこんで、遅刻しているわけでもないのに急いで自宅を出た。
本来は、アルバイトが入っていたのだが、前日に雇い主である老夫婦に「あの、実は明日」と全部言い終わる前に「休みだよね、いいよー。たまにはどっか出かけといで」と即許しをもらえた。
玄関でスニーカーを履いていた際、母が「あんた……」とえらく機嫌が悪そうな声で呼ばれた。もうばれてしまったか(バイト先は、歩いていける『石上書房』。そこの奥さんと母は年の差を超えた友情が育まれていたんです)親には内密にって頼んでいたんだけれどなあ。奥さんの口の軽さにちょっと恨みがましく思っていたら、
「これ、皆で食べなさい。サークルなんでしょ」
片手に収まる風呂敷包みを持たされた。
「鈴カステラだけれど、足しになるわ。お腹が減っては戦なんかできやしないんだから。それと、明日石上さんに、急に休んですみませんでしたって言うのよ。私からも謝ったけれど、あんたからもね」
「はーい」
お返事は「はい」でしょ、入社面接でそんなんだとあんた落ちるわようんぬんを回避するため、とっとと外へ逃げたのだった。お説教は毎度のことだからおいといて、腹が減っては何とやらが妙に引っかかった。偶然とはいえ、これから戦闘にしにいくことを感じ取っていたのだろうか。まあ、そんなわけないか。
休日の大学構内は、当たり前だが人の気配はまったくもって無く、しんとしていた。そこに流れる時間が、魔法か怪しい術かなにかで止められたみたい。あちこちにある時計は絶えず動いているし、空気も滞ってなくて普通に呼吸ができるんだけれど、どう表現したらぴたっとはまるんだろう。校舎は生きている、というのかな。学生、教員、職員、ボランティアの信者、訪問客、いろいろな人がここで勉強や仕事をすることで、はじめて校舎が生命活動できる……ええと、誰にも使われていなかったら機能が停止してしまうんだなあって。き、聞かなかったことにしておいて。
研究棟、閉鎖されていたらどうしよう。不戦敗だけはごめんこうむりたいな、と気をもめていたが、非常用扉が開いていたのであっさりと中に入れた。
腕につけた通信機に、時刻が表示させる。かなり早くに着いてしまったようだ。全員集合するまで、文庫本二冊は軽く読めそうなのになあ。行き帰りの電車用ならあるけれど、解説を残すのみだし。戦いに来たんだから冊数を減らしたんだが、やむをえない。
二〇三教室の鍵(倭文野さん、黙って持ち帰ってごめんなさい)をズボンのポケットから出して、二階の廊下を歩く。できるだけゆっくり、待ち時間を一秒でも減らすように。
「人の命かかっている戦いを前にして、読書なんて。のんきなものだよ」
『運動音痴さんに寄せるかんたんスポーツ精神論』だったっけ。全然緊張していないのも問題だ、適度に緊張していることで良い結果を生む、って書いてあった。現在の私は、後者に近づけようともがいている。平常心でいたくて、読書、読書って日常の部分を引き寄せて、お気楽なつぶやきまでして、緊迫しているのを緩めようと必死なんだ。
「どうして私が、こんなことに……」
帰宅部から、日本文学素晴らしいぞ! をPRしてまわるサークルに強制参加させられ、さらに過去の古傷という弱みを握られ、文学に関係する変てこ現象と戦わなきゃいけなくなって、挙げ句の果てには、顧問を人質にとられて。二回生後期に、次々と災難に見舞われるとは。神に見放された心地だよ、んもう。
―だけれど、いつしかそんな状況を楽しんでもいた。古典を題材にした寸劇、腕を振るった創作大会、作詞もして曲になって人前で歌わされたこともあった。ひとり書物を読みふけっているだけでは体験できなかったことだ。人と関わるのが不得手な自分に、様々な出会いが訪れ、仲間ができた。
「ふみかさん……」
祖父とのつらい別れが原因で、文学に対してあまのじゃくだった化学科の四回生、仁科唯音。坊主めくりを通して、共に活動するようになった。冷たそうな印象だが、和歌を愛する心と、魅力ある発明品を生み出す器用な手の持ち主であった。携行している通信機は、彼女が作ってくれた。いたずらと冗談が好きなところもあり、文系科目が壊滅的にできない抜けたところもありで、接すれば接するほど新たな一面をみせてくれた。
「延頸挙踵っ! 一番乗りは、このはなび様がもらったぞっ!」
唯音先輩が入隊して、大好きないとこを取られたとやきもちを焼いて宣戦布告した勇猛果敢な高校三年生、夏祭華火。乱暴そうな子かと思えば、空満一の名士のひとり娘でお育ちが良く、人見知りでとても怖がり。失礼だけれど、小中学生みたいな外見で、ちょこまか動き回ったりお姉様方を叱りつけたりするのが、かわいかった。足が速く、戦いでは切り込み隊長を務めていて、戦闘能力の高さには何度も助けられた。
「気ぃ張って、早起きしてもうたんやよ。ふみちゃん、今日は頑張ろうなぁ」
一回生からのお付き合いである才媛、日本文学国語学科二回生、本居夕陽。サークル活動を通じて、友人から親友へと絆が強まった。物腰が柔らかく、礼儀正しくて成績は常に全学年トップ。膨れあがり続ける知識と優れた記憶力で、講義でも戦闘でも世話になった。努力家で賢いゆえに、思い詰めてしまい苦悩する、影の部分もあった。それで喧嘩になったけれど、お互いの想いを打ち明けられて、もっと仲良くなって、合体技までできちゃった。
「イト重ク苦シキ戦デモ、背負イ投ゲしてヤルっスよ☆」
謎の覆面戦士、最終ヒロインとして見参☆ した日本文学国語学科一回生、与謝野・コスフィオレ・萌子(本名は与謝野明子、惜しくも日が三つの字ではない)。アニメ「絶対天使 ☆ マキシマムザハート」の主人公に傾倒している。二次元、コスフィオレ、とにかく好きな物事に萌えて燃える空満神道信者だ。悩みなどまったくnothingなわけはなく、空っぽではないと信じたい「ホントウノワタシ」と、自分を理解してもらえる人を探し求めていた。今でも中身がぎっしり詰まっていると思うが、ホントウノワタシ、見つかるといいね。
「……集合時間すさまじく前倒ししてるんですけど」
二〇三教室、ここから日本文学課外研究部隊が始動した。意気込みと適度な緊張を有する五人の乙女が、神無月に集ふ。
「変身、しよっか」
日本文学国語学科二回生、大和ふみかは、拠点への鍵を然るべき所へ差し込んだのだった。
ヒロインに変身して、戦法の最終打ち合わせをしているうちに、約束の時刻が近づいた。ふみかレッドの「恩師」、いおんブルーの「姉のような存在」、はなびグリーンの「学びの親」、ゆうひイエローの「尊敬すべき人物」、もえこピンクの「心の恩人」、安達太良まゆみ。
黄泉路に近きとてつもなく深き眠りの淵から、彼女を引き上げるのだ。
「どこへ行くんですか」
戦場へ続く階段の前に、分厚い本を抱えた年かさの男性が立ちはだかる。日本文学国語学科主任の時進誠教授だ。
「今日は土曜日、決まり事により日本文学課外研究部隊は休みです。それ以前に、顧問の安達太良先生が入院されていますので、当分は活動できません」
穏やかな話し方に反して、老眼鏡の向こうで目を鋭く光らせていた。
「んなこた先刻承知なんだよっ、時っちゃん。そこどいてくれってんだ!」
「萌子タチ、デュエルに赴クんデス。邪魔しなイデくだサイ!」
「どのような言い分があろうとも、ここを通すわけにはゆきません」
休日だからかセーターとコーデュロイのズボンにという、くつろいだ格好だったが、時進先生の意思は引き締まっていた。
「皆さんの様子をうかがうと、ただ事ではないと察します。ですが私は、皆さんを危険な目に遭わせたくはありません。これは主任としての責務であり、同年代の子を持つ親心でもあります。安達太良先生も、同じように思われるでしょう」
開きかけていた『日本古典文学の結末事典』を閉じて、先生は脇に抱えた。
「下校してください。困っているんでしたら、私が聞きます。対処もします」
「強硬手段っ、こーなりゃぶっ倒してやらあっ!」
「先へ、進ませろ……です」
「待って!」
花火玉を指の間にはさんだグリーンと、空気砲ピストルを構えたブルーをレッドはすかさず制した。
「時進先生、私たち、なにがなんでも行かなきゃならないんです! まゆみ先生を助けるために!」
先生の太い眉が、かすかに上がった。
「この機会を逃したら、後がないんです。負けてしまったら、まゆみ先生は二度と、帰ってこないんです!」
「大和ふみかさん……」
「お願いします、通してください。負けたくないんです! 危険なのは覚悟しているんです、行かせてください!」
「とても重要なんだということは伝わります。ですが……」
額に手をあて、顔色を悪くされる時進先生。持病だけでない事柄に、めまいを起こしたらしい。
「うちからも、頼みます」
「萌子モ、プリーズしマス」
ふらつきはじめた先生を、イエローとピンクが支えにいった。
「無茶はしません。約束します。皆で決めたんです、安達太良先生のために、戦うて」
「早クしなイト、センセがピンチなんデスよ!」
「本居夕陽さん、与謝野・C・萌子さん……」
武器を収めたグリーンとブルーが、頭を下げる。
「時っちゃん、平身低頭っ。この通りだ」
「道を、開けて……です」
「夏祭華火さん、仁科唯音さん……」
時進先生は、くらくらする身体を気力で持ちこたえさせた。立ちふさがった時の姿勢に戻して、
「信じましょう」
と重々しく仰った。
「日本文学国語学科を代表して、命じます。五人とも無事に帰ってきてください。安達太良先生も一緒に、です」
戦いにゆく者の顔ぶれを焼き付けるように見回し、主任は優しい微笑を贈られた。
「お気を付けて、行ってきてください」
『ラジャー!』




