第六番歌:アダタラマユミの白猪征伐(二)
二
「………………っ! …………っ! ……っ!!」
緑色の防寒用体操着を羽織るセーラー服の少女が、やけになって通学路を走っていた。
「…………でっ! ……んでっ! あんでっ!!」
椰子の葉のようなポニーテールが、寒風に打たれぶんぶん揺れる。荒削りで無駄に腕を振っているが、速さが落ちぬ駆けっぷりであった。
「……あんでっ! あんでっ! あんでだよっ!!」
あんでふみかはっ、安請け合いをしやがったんだっ! 夏祭華火は、怒りの炎を渦巻かせていた。悪戦苦闘し、仲間を負傷させた相手が許せない。さらに相手が、素敵なレディの指南者・安達太良まゆみの生殺与奪の権を握っていることも。そして、ちったあ傍目八目じゃねえや一目置いていたふみかが、無謀にもまゆみの婿に「私たちが助けるから」となぐさみにもならない宣言をしたことも、怒髪衝天っ、超腹立つ。
「……あいつはっ! あいつはっ! ふみかはっ!!」
ふみかはっ、あいつとバトるのが怖くないのかよっ! 夏祭華火は、怖れの嵐も暴れさせていた。今まで戦ってきた千差万別の化けもんも、わけわからんくて、どーすりゃいいんだとパニクった。でも、一緒に戦う仲間がいたし、姉ちゃんが作ってくれた花火って武器があったから全戦全勝できた。しかし、あの白猪は別格だ。デカい体は攻撃にびくともしなかった。鼻息はゆうひの防御すら突破できるくらい強かった。攻防完璧な前代未聞の相手に、勝てるやつがいるのか。明後日の戦いで負けたら、まゆみがあの世へ行っちまう。まゆみの運命を左右させる真剣勝負に、怯えていた。華火自身が怖く思うよりも、まゆみと二度と会えなくなってしまうことと、姉ちゃん、ふみか、ゆうひ、あきこが白猪に滅茶苦茶に痛めつけられることが、とても怖かった。
「あたしはっ、あたしはっ、こんなの逃げられんなら逃げたかったっ! だけどっ、だけどよっ…………!!」
自宅の蔵に閉じ込められた気分がする。蔵の暗闇が、華火が抱く恐怖のイメージだった。まゆみらと出会う前のあたしなら、逃げてた。あたしにゃ関係ねーよって、放棄してた。怖いから。でも、今の「怖い」はあの頃の「怖い」と形が違う。重いもんを背負ってる時に生まれる「怖い」だ。責任っつーのか、守らんとならねえやつがいるって、こんなにも怖くなるんだって、あたし、知らなかった……。
「あ~っ、なっちゃんだ! なっちゃんなんだな!」
「おうっ!?」
らしくもなく頭の中をぐるぐるさせながら走っていたところを、鬼ごっこみたいにたっちされて捕まった。
「とこよかっ。びっくりさせんじゃねえよ」
「えへへ~」
華火と同じ制服の少女が、無邪気に笑う。大柄ですらりとしたわりには、まだまだ子どもっぽいくせ毛の少女、尼ヶ辻とこよ。最近できた友達だ。
「本殿らへんで、ものすんげく飛ばしでる子がいだっで大騒ぎだっだがら来たんだよ。そしたら、なっちゃんだったがら、たんまげただよ」
なまり(ゆうひ情報だと、最古の空満方言)のきつい高校生活最後で最初の友達が、はきはきとしゃべった。彼女には陸上部で培った足があるので、華火を追うのは昼、否、朝飯前なのだ。
「そだ! 今会えだがら、これあげるんだな~」
学校名が箔押しされた学生鞄をかき混ぜて、手をグーの形で引き上げる。そのまま華火の前まで持ってゆき、パーにした。
「松ぼっくりじゃねえか」
「んだ! ヌシさんとこで見つけたんだな~」
「マジか、あんなとこに松生えてたのかよ。木はテキトーに木ってほったらかしにしてた」
「えへへへ~」
華火ととこよの縁は、高校裏の「古池」に棲む鯉「ヌシ」だった。本当のところ、附属中学からとこよは華火を見てきたらしいが、本人は記憶にない。この間、古池は本朝の蛙軍団に占拠されていたが、華火らヒロインズが撃退したことは、とこよは知らない。
「松の花っでさ、花言葉いろいろあるげど『希望』っで意味もあるだよ。なっちゃんのユニフォーム、常磐色なんだっでね。常磐は松どおんなじだがら、なっちゃんに合っでるなっで。なっちゃん、松みだいに希望でキラキラしでっから!」
開きっぱなしの鞄から、花言葉の辞典やら色彩図鑑がひょこっとのぞいていた。急いで叩き込んで来たのだろう。とこよの頑張り屋な性格に、華火はかっこよく感じていた。
「あれ? サークル休みだったん?」
「そーいうとこ、だな」
詳細説明は、しなかった。ややこしい話をすれば、とこよまで落ち込みそうだし、心配をかけたくなかったからだ。
「楽しそうだもんね。なっちゃんも、大学のお姉さんたちも。トコもPR活動見でて、古典とか小説読みだくなっただよ。あど、顧問の先生も! あんな先生に、トコ教えてもらいたいだ~」
「そーか」
「また、活動できるといいだね」
蔵から、脱出できた。戸の先で始めに目にする光と、今ここに差している陽の光が、華火の心と体に重なる。
「あんだ、簡単明瞭だったんだっ!」
皆で、楽しく、笑いあった放課後を、取り返しに行く。それに全身全霊かけて、全力全開すりゃいい。
「あんがとな、とこよっ!」
答えの道を示してくれた友達に、グーの形を突き出す。
「なんが分かんないけど、なっちゃんにいいこどでぎたんだな!」
友達がはにかみながら、同じくグーを出して、華火のものに軽くぶつけた。
「おい、とこよ。てめえ掃除当番じゃねえのか?」
「あっ、忘れでた!」
玉入れでもできそうなくらいに口を開けるとこよ。好き勝手にうねりはねる髪をなでつけ、高校の方角へ足を向ける。
「んじゃ、なっちゃん、まだ明日ね~!」
上半身だけ華火に見せつつ、手をぶんぶん振って流星のように爆走していった。
「へっ、明朗快活なやつだよな」
「……ですね」
風が吹けばいずこへ行きそうな声が、背後からかかった。
「げ、姉ちゃん」
細長い体が地面に突き刺さっているかのように、ぴしっと立っていた。今日は、びっくりさせられてばっかりだ。
「つけてきてたのかよ」
「とこよさん、良いお友達……です」
「うげっ、そんなとこまで見られちまってたのかっ!」
唯音は、首をミリ単位で傾けた。唇も、注意深く見たらほんの少しだけ上がっている。親族の華火だからこそ、気づいてやれるところだ。昔(生まれてまだ十八年目だが、そう言ってみたいお年頃なのだ)は、喜怒哀楽が素直に出せて、ぶつ切りなしゃべり方ではなかったが。
「華火さん、私…………」
「いらん遠慮会釈すんなよ。逃げねえんだろ」
まばたきを三回、こいつは図星ってこった。
「はい、私達が、まゆみさんを、目覚めさせる……です」
「あたしも、敵前逃亡を厳禁したんだ。やってやる、ってよ」
湧き出る泉のような瞳と、噴き出る炎のような瞳が、互いを映しあう。性質は異にしていても、思いは共にしていた。
「百術千慮っ、作戦会議すっぞ! 活動休止されてたまるもんかってんだ!!」
「……です」
本居夕陽と与謝野・コスフィオレ・萌子は、卓袱台を間に対面していた。卓袱台といっても、今は昔、一家の大黒柱が簡素な食事に腹を立ててひっくり返せるほど大きい物ではない。折りたたみ式で持ち運びに便利な点と引き換えに、ティーカップとプティ・フールを乗せたプレート二人分を置くと定員オーバーになる慎ましやかな家具だった。
「センパイ、足崩シチャっテくだサイ。リラックスっスよリラーックス☆」
「ほな、お言葉に甘えるわなぁ」
夕陽がしばし正座していたそこは、萌子の下宿先である「明の星館」。空満大学国原キャンパスと空満駅を結ぶ商店街を通り抜け、さらに駅を通り抜けたところにある「ベーカリービーナス」の裏手に建つ女子大生専用アパートである。管理人は暇を持て余す還暦前のOG、住人の七割は近くの海原キャンパスに通う体育学部の学生といった、親御さん安心の軍勢だ。
作りかけの衣装(最近、賛否両論が飛び交っている深夜アニメの敵役のものだと、すぐにわかった)、ハンガーに丁寧に通された今まで着てきたコスプレ服の列。コスプレ(萌子はコスフィオレと称していた)グッズは自作だと聞いていたが、どれも良い出来栄えだ。売り物にしても問題ないくらい質が高い。懐かしき時代のアニメ関連の本、漫画イラストの画材など、趣味への深き愛情に、夕陽は思わずにんまりする。
ミシンと木製の裁縫箱、ビーズののれんをはじめとするレトロな品々は、越す前から使われてきたのだろうか。もしかして、親の持ち物かもしれない。よく母親とのエピソードを話してくれるので、そう結びつけてしまうのだ。えぇなあ、好きなようにお部屋のレイアウトができて、のびのびと生活できて。ずっと実家暮らし(両親が過保護で、一人暮らしが禁止されている)で、部屋は妹と共同で使っている夕陽には、下宿生の萌子がキラキラしてみえていた。
「ソーリーっス、軽傷ダったケド送ッテいタだイテ」
「かまへんよぉ。心配やったんや。ついでに頭クールダウンさせてもろたし」
ガーゼ、湿布、ワイドサイズの絆創膏があちこちにつけられた後輩を、労るようなまなざしを向ける夕陽。ラ・フランスのフルーツティーと、和梨のミニタルトが秋の豊かな味を運んでくる。怪我人であるし、自分は帰宅の介添をしただけなのでお茶は遠慮していた。だが、アツいハートを持つ後輩は、おもてなしもせず帰すわけには、と部屋に招いてくれたのだ。ときどき痛そうにうめきつつ給仕する姿に、夕陽は申し訳なく思うよりも、その心意気に敬服したのだった。
「ほへ、ゆうセンパイ燃エテたんスか? ソウは見エませンでシタ」
「あはは、そない思われてたんやったら、うちは大人な振る舞いができてたんやなぁ」
「センパイはいつデモ、オトナな対応デスよ☆」
夕陽は、頭を横に振った。
「でけへんかった。あかんかった。うち、ふみちゃんに、ふみちゃんが言われたくないこと、言うてもうたんやよ……」
「ホントノコトなノニ? ふみセンパイを思っテ、だッたンスよネ?」
眉を八の字にする萌子。白猪は、倭建命の旅路に終止符を打った強きもの、人の身であるふみか達が太刀打ちできる相手ではない。夕陽は記紀を引き合いに出して、いま一度戦いについて考えるよう告げたのだ。そのどこが、いけなかったのだろう。
「ゆうひイエローとして、やったら、レッドについてくわ! て戦いに臨むところなんやけど……。本居夕陽としてはな、ふみちゃんに痛い思いさせたないんや。大切なお友達やもん、これまではうまくいけたけど、今回は、違う。先生の命がかかってる。うち達も命がけで戦わなあかん。せやけど、お相手は神様、その力には前例がある。一歩間違えたら、ふみちゃんが、唯音先輩、華ちゃん、萌ちゃんも、明日を迎えられへんようなる。うち、また失敗を怖がってる……」
夕陽のカップを持つ手が、かすかに震えていた。
「ふみちゃんの思いに応えたいんやけど、傷つけさせたくない気持ちもある。ヒロインやない本居夕陽が、勝ってもうたんや」
「解るっスよ。変身ビフォーとアフターとデ、人格がビミョーに違うんデス。コスフィオレしてルト、萌子気づかナイうちにソノ時のキャラになっチャッてますカラ」
ふうー、と萌子は、あえて先輩に聞こえるように息をはいた。両拳を胸の前に持っていき、このようにもの申した。
「ふみセンパイ、ヘコんでナイっスよ。むシロ、ゆうセンパイに感謝シテるんジャないカト。ジブンのコト心配シテくれテルんだッテ思ってマスよ。センパイは考えスギっス。ふみセンパイが鋼メンタルってコト、忘レてナイっスか!?」
夕陽が、びっくりして正座をしなおしている。しまった、気合いを入れすぎて身を乗り出していた。これでは脅しているみたいじゃないか。茶器の安否を確かめてから、萌子は三つ指ついて非礼をわびた。
「頭上げてぇな、お願いやから。せやね、ふみちゃんのこと、もっと信頼せなあかんわ。ふみちゃん意外に突っ走ってまうとこあるけど、考えなしやないもん。おおきになぁ」
メガネがずり落ちていたのを正し、夕陽は顔をほころばせた。
「ソレでコソ、スーパーヒロインズ! ノ大親友コンビっスよ☆」
萌子が大げさな敬礼をしてみせると、さらに夕陽は笑みを満開にさせた。
「明日、行くで」
「イヅコへ、デスか?」
もちろん、わざと問うているのである。聡き夕陽には、お見通しであった。だから、その旋律に合わせてあげるのだ。
「そんなん、決まってるやんかぁ」
リボンの乙女と長からむ黒髪の乙女との間に、かたい結び目ができていた。
ひとりで教室を占領するには、気が引けた。皆がいた、という跡を、使用前にだいたい復元しておき、鍵を閉めた。
頭の後ろと、背中が痛い。華火ちゃんだって、分別はある。深手を避けて、力を加減して突き飛ばしたのだ。軽く当たるくらいにしてくれていたはずなのに、じんと痛む。身体にきているものとは、違う。
唯音先輩と萌子ちゃん、平気そうにしていたけれど、つらいだろうなあ……。先輩、華火ちゃんを追いかけに行く前に、何か言いたそうにされていたよね。無口は無口でも、大切なことは、本当に言いたいことは、しっかり仰る人だもの。耳を傾けるべきだったんだ。
まゆみ先生がされた「人を外れた行ひ」とは何なのだろう。白猪が明後日に教えてくれるそうだが、それを知ることで、私たちと先生との関係が変わっちゃうのだろうか。萌子ちゃんは、どんな真実を聞かされても戦うと言っていた。
私も、先生にかけられた呪いを解きたい。次こそは、勝たねばだめなんだ。夕陽ちゃんなら理解してくれていると思っていた。ところが、反対された。並の人間が挑める相手じゃないから。根拠を持ってこられても、腑に落ちなかった。
共同研究室へ鍵を返却するまで、こんなに物思いにふけってしまうなんてね。事務助手の倭文野さんに「魂あくがれ出てない? 妻に祟るのだけはやーよ!」って指摘されたし(この人、奥さんの話ばかりするんだよなあ。おのろけだよ)。今日はあまりにも、いろいろありすぎた。寝床に直行するか……。
「嗚呼、再度相見えたね。赤美君」
共同研究室の真ん前―二〇二教室すなわち、まゆみ先生の研究室のあたりで、春彦さんとばったり会った。あ、あの、一応、大和ふみかって名前なんですけど。小説の登場人物の名で呼ばれるのは……気恥ずかしい。
「失敬。然し、大和君は、僕が担任をしている学年にも在籍しているからね。その印象が未だ離れず、なんだ」
「は、はあ」
内嶺大学の先生だったよね。弟は、そういえば漢文学科だったなあ。まさか二人に接点があるんじゃ……?いやいやいや、世の中は狭いとはいうものの。大和姓なんてわりと多いものだし、余計な想像めぐらせてどうする。
「此所は学問するに最高の環境だ。貴重な書物を所蔵する図書館、世界の史料が公開された参考館、コンサートホールまで開設されたじゃあないか。史跡も歌碑も近い。私は羨望するよ。家内も、頻りに母校を礼讃していたものだ……」
春彦さんが、右手に乗せた小物を寂しげに見つめていた。藤色の組紐細工が付いた鍵だ。たぶん、まゆみ先生の研究室を整理していたんだろう。紙袋を提げているということは、先生の持ち物を引き取りにも来たのかもしれない。
三限目終わりのチャイムが鳴り始める。旋律は、空満大学の校歌だ。本来なら、この時間は「日本文学講読A」で記紀歌謡(『古事記』と『日本書紀』の語尾を取っているんだよ)を習っているはずだった。だが、担当のまゆみ先生があんな状態なので突然の休みとなった。
「随分、長逗留したようだ。……此の後は?」
「あ、帰ります」
「バスに乗車しないかい? 運賃の懸念は不要。貴君とは、暫時雑談したくてね。中年の戯言だが、如何?」
いがぐり頭を叩いてみせるおじさんに、「遠慮します」なんて返せなかった。
「徒歩だと所要時間三十分のところ、十分。不惑過ぎには恩恵ものだ」
隣で、汗を拭きながら仰る。骨太で横幅の広い身体を、縮めに縮めて座られているのが、かえって申し訳なく思った。女子大生に対して、座席も心も適度な距離をおかねばと奮闘されているのが、すさまじく伝わるよ。
バスで下校かあ。課外活動や奨学金の説明会などで遅くなったら使うくらいなんだけれど、明るいうちに乗るのって、初めてなんだよね。一回一八〇円、購買部「一〇八〇(呼び方は、テンエイティ。うわあ、横文字)」で乗車券十一枚綴り一八〇〇円で販売してるよ。お得……なのかな。
「最初はね、五色五人女は、家内の中にある多種多様な人格を描写していたのだと思っていたのだが、誤読だった。彼の五人は……貴君達だったんだよ」
「十年以上前の頃の作品ですよね? まだ出会ってもないのに? 会ったとしても、子どもですよ。いくらなんでも、それは」
「似ている。似ているんだ、赤美君、青奈君、緑子君、黄代君、桃佳君、皆実在していた。理屈を抜し、時空を超越したヒロインズだったんだ……」
遠い目をする春彦さん。少年が、夢や希望に思いを馳せるみたいに。
「家内は、白の少女だ。自分の正体が解らない、自分の喪失した記憶を奪還する方法が解らない、然し其の記憶を知るのが恐怖……。彼女は救済を希求しているんだ。スーパーヒロインズを。当時から…………現在も、ずっと。可能なら、私がなりたかった」
「春彦さん」
「『赤美は、負けるのを赦さない。弓の名人だが、恥ずかしくて力を隠していて、人の中に埋もれて生きていたいと思っている。』貴君は、おはじきが得意だそうだね」
こくり、とうなずく。運転手の渋い呼びかけの後、ようやく発車した。
「貴君の仲間も、近似しているよ。『青奈は、自分の心に正直だ。二足のわらじを疎んじられていたこの時代に、物理学と歌の道を究め続けていた。』『緑子は、偽りの善意にがっかりし、自分の殻に閉じこもっているが、人の持つ温かさを信じている。怖がりでも、その俊足で前に走りゆく。』『黄代は、知識が豊富で覚えたことはずっと忘れない。だけど、知を用いて行動するのに勇気が足りなくて悩んでもいた。』『桃佳は、洋裁とカレーライスをこよなく愛している。だけど、愛を引いてしまうと自分は零になるのではないか、と気がかりでもあった。』」
「かなり読みこんでいらっしゃるんですね」
「引っ込み思案だった家内が、出来たてを私の勤務先まで直接届けに来訪してくれたんだ。後生大事にするよ」
先生のことを話す春彦さんの顔、嬉しそうだった。いただき物や新しく買った物を、どうだ素晴らしいでしょうってひけらかすという嫌みったらしい類いじゃないんだ。自分を優位に立たせたい、他人を妬ませたいとかのあらゆる欲というか煩悩というのをばっさり捨て去った、純粋な、まゆみ先生に関するお話。誰かを生涯かけて想うって、こんな感じなんだろうか。私には、まだ縁が遠いな……。
空満本通り、市役所前の停留所を通り過ぎ、バスは終点へと走る。
「昼は半狂乱になって、失敬。若人を不安にさせ、縋り付くとは愚行極まりない。彼の請願は、忘却してほしい。人事を尽くし、天命を待つとするよ」
「……やめて、くださいよ」
私は、胸にあった鞄の紐を、ぐっと握りしめた。
「そんな、そんな苦しい笑顔は、やめてください。春彦さんの愛する人が……私の、私の慕っている先生が、助けてって永く叫んでいるのを、読めたんです。やっと、聞けた。本から、文学PR活動の日々から。先生の思い、やっと読めた。……ヒロインは、助けを求める声がしたら、必ず駆けつけるものなんですよ。だから」
春彦さんが、目をほんの少し潤ませて顔を歪めていた。
「大丈夫、まゆみ先生は必ず助けます」
自分でも内心で驚くくらいの、強く、勇ましく、頼もしい声だった。
「赤美君、貴君……」
「だって、私たちは『スーパーヒロインズ!』だもの」
甲高い電気由来の通知音が鳴り、降り口が開く。駅前は、雲を抜けたばかりの太陽にあかあかと照らされていた。
神無月三十日、四限目「日本文学史B」が九十分きっちり終わるとすぐに、A31教室を出た。『古今和歌集』仮名序についての解説と、第一番歌の詠み人がなぜ在原元方なのか、だった。仮名序の「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり」が私は気に入っている。高校一年生の梅雨の時期に、学校の図書館にて、新編日本古典文学全集で初めて会ったんだ。白地に金色の文字と、天女(なのか菩薩なのかいまいち見分けつきません)が風とたわむれているような絵が目印の本。十代だったあの頃も、二十代に仲間入りした今も、思うのは、和歌に限らず、言葉にはいろいろな効能があるんだ、って。人と人を結びつけ、目には見えない存在や事象にも影響を与えちゃうんだ。心だって、強くさせる。願いも望みも、口ずさめば実行できる。
昨日の帰り、言葉の持つ力を直に感じられたんだ。あれは、春彦さんに一時の安心をあげるためなんかじゃない。春彦さんも私も、たぶん夕陽ちゃん、唯音先輩、華火ちゃん、萌子ちゃん、ううん、もっと多くの人が、様々な形で想っているまゆみ先生を、眠りから覚ましてみせる、私たちがやり遂げるんだ。もう一度、つれづれにみえて、楽しく幸せな日常にするんだ。私にそう実現できる強さを、私から現れ出た言葉からもらったんだ。
「ふみちゃん」「ふみセンパイ☆」
A・B号棟一階の掲示板広場で、夕陽ちゃんと萌子ちゃんに会った。
「え、えーっと」
「研究棟に寄るんやろ。一緒に行かせてもらうでぇ」
夕陽ちゃんが、目尻を上げて、表情をきりりとさせている。黒縁メガネで、より引き締まってみえた。
「前日ヲ制スル者ガ、デュエルを制スル☆ ホームでジッとシテられナイっスよ」
お先にヒロイン服で「変身」してきた萌子ちゃん。傷はまだ癒えていないが、肌を陣取っていた衛生用品が確かに減っていた。
「ふみちゃんのことやから、放課後作戦練りにいくんちがうかな思て。意地でも戦うんやろなぁて……」
お見通し、だったのか。私、けっこう読みにくい人間なのになあ。友人の洞察、侮りがたし。
「ヒトリジャナイ、センパイ言ッテくれタジゃナイっスか」
「そ、そうだっけ」
「赤隊長モードのセンパイ、萌子、リスペクトしテルんスよ!」
おお、そ、そんな、いきなり尊敬されちゃうと、くすぐったいんですけど。変身後どう振る舞っていたのか、あんまり覚えてないんだよね。当たり前なことを当たり前にする、ようには、やっているかな。
「じゃあ、い、行こうか」
校舎の外は、すっかり大学祭仕様になっていた。野外舞台には照明が吊られ、音響の道具がいつでも使えるように設置されている。模擬店の列は、各学科の特色が活きた飾りつけが目を引いた。
「世界文化学科ハ、ヤっぱワールドフードなんスね。アメリカ大陸コースは、バーガーとタコス、ヨーロッパコースは独国・維納菓子☆ ひゃは、小籠包モありマスな」
「日文は、安定と伝統のおむすびカフェやねぇ。去年はピアノ教室の発表会と重なったけど、今年は見て回りたいわぁ。あらま、外国語学科フランス語コースはマカロンやて。シトロンとピスターシュは外されへんなぁ」
「バンドステージと演劇、気にナルっス。天津乙女ハ、衝撃走るグループだソウっスよ。ふみセンパイは、惹カレるコーナーありマス?」
「うーん、展示かな。歴文の埴輪パラダイス」
「ヒラめイタんスけド、ヒロインズで学祭メグるっテどースか? 萌子、漫研ト裏合唱部応援シタいんスよー」
「えぇやんか。うちもふみちゃんもお初なんやよ。行こ行こぉ」
大学祭……ね。人混みが多くて、にぎやかな場って、どうも足が向かないんだよなあ。でも、日本文学課外研究部隊の皆となら、いいかな。
「よっ」
「……」
「あ、唯音先輩、華火ちゃん」
研究棟の対面にあるC号棟の方から、従姉妹組が歩いてきた。先輩は実験の助手をされていたんだろう。あそこは、理学部の本拠地だからね。受験生の華火ちゃんは、授業がほとんどないから自由行動していたんだと思う。
「ふみかっ」
華火ちゃんが頬をふくらませて、仁王立ちする。
「一念発起っ。あたし、戦うかんな」
昨日の戦闘後から悪かった機嫌を突き抜け、恐れも迷いも断ち切った境地にいる様子だった。二〇三教室を出て、転機が訪れたのだろうか。もしかして、彼女も言葉の効果を受けたのかもしれない。
「明日は、万全の体制で、挑む……です」
静かに、そして淡泊に述べる唯音先輩。工具箱を持参されて、対白猪用に発明をされるのかな。武器を改造するとか? 決戦への熱い思いが、言わずとも伝わってきますよ。
「はなび様も、学祭大賛成だっ。この真剣勝負っ、一本取ってまゆみ叩き起こして一件落着すっぞっ!」
「化学科の、駄菓子喫茶、よろしく……です」
「全力出シ切っタ後ハ、ガッつりバカンスに決マリッスよ☆」
「安達太良先生のためにも、来週のためにも、頑張らなあかんなぁ」
年も性格もばらばらな私たちが、まゆみ先生を中心に巡り会った。『五色五人女』と「日本文学課外研究部隊」があるから、こうして明日へ揃って進んでいる。その先の日へも。
「負けないよ、先生。私たちを信じて」
四角い建物へ、皆で踏み入れる。二階、日本文学国語学科の先生方がいらっしゃる研究室の並びの三番目。その空き教室で、五人の乙女が翌日に待つ戦の策を話し合われるのであった。




