第四番歌:古池や 蛙巻き込む 黄のリボン(三)
三
「本当の友人としてすべきこと」に突き動かされるまま、研究棟を走る。
お昼の休憩時間に夕陽ちゃんがいそうな所は、日文の共同研究室か、二〇三教室だ。
二階へ一気にかけ上がり、角を左へ曲がると、黄色いリボンを結んだ黒ぶちメガネの学生が見えた。彼女は私と目が合って、小さく口を開けた。
私は拳をぎゅっと握りしめて、のどから言の葉をしぼり出した。
「あ、あの」
続きを言う前に、リボンの学生―夕陽ちゃんは大切そうに持っていたB5サイズのノートを押しつけてきた。
「…………返しとくわ」
乾いた声で言って、夕陽ちゃんは早々と去っていった。
渡された物は、蜜柑色のノートだった。いつからか二人で、単純に赤と黄色を混ぜた橙色じゃなくて、蜜柑色と名付けよう、と誓い合った思い出の一冊。大学生活と同時に始めた、交換日記だった。
三限目が休講だったことを利用して、二〇三教室でノートを読み返していた。
夕陽ちゃんといえば、なぜだか私は、ノートを連想する。先にリボン、メガネ、西洋のおとぎ話で着られてそうな服、が浮かんでくるんだけれど、努力家の夕陽ちゃんはいろいろなノートを持ち歩いているんだ。
講義用、期末考査対策用、課題用、真淵先生語録用、こっそり書いているつもりらしいが、自作の小説用まである。どれも黄色系統の物で、月の柄(満月とか三日月、半月とか)が入っていて、いったいどこのお店で買ってきているんだろうと気になっちゃう、お洒落な文房具なんだ。この日記も、夕陽ちゃんが選んでくれた物だ。
「そういえば、したよねお花見」
入学式の翌日から一泊二日で、学科別新入生歓迎合宿があった。空満大学は、空満神道の学校だから、泊まり先は市内の詰所だった。最終日に先生方と学科団の先輩方とで、大学近くの村雲神社で桜を愛でつつ、市販のお菓子や現地のたこ焼きを食べたっけ。
○○先輩が手鏡で必死に青海苔ついていないか確かめていたところが、
なんか面白かった。女子だね。
まゆみ先生が、土御門先生と日本酒呑み比べしていたけど、
全然勝敗がつかなかった。一升瓶三本は軽くやってた……病院送りにならなかったのがびっくり。
桜と全然関係ないつまらぬ感想を書いた私に対し、
本居宣長は、満開の桜を愛したといわれています。和歌にも、桜を詠んだものが多いです。私は、一年遅れたけど、ここで文学を勉強することができて嬉しい。しかも、同じ志を持つクラスメイトもいるから(私はチョットお姉さんやけどね。ふみちゃんにだけカミングアウトしたけど、いつか皆にも言えたらいいな)、この四年間、素敵なものになるんだろうなと思うと、わくわくしてたまりません。
と、夕陽ちゃんはお見事な文章をしたためていた。
「どの頁も、ちゃんと書いているんだよね」
卯月のおきよめデー(学生と教員が校舎や駅近辺を掃除する、宗教行事だ)、皐月の連休にあった出来事、水無月のドッジボール大会、文月の前期末考査…………神無月のお月見会より後は、白紙だった。後期授業に入ってお互いに忙しくなったのが理由だったと思う。いつか余裕ができたら再開しようと約束していたはずだった。
「半分弱、余っているんですよね」
頁をパラパラ流していると、終わりらへんに書き込みがちらついたので繰るのを止めた。柔らかく細長い筆跡は、まさしく彼女のものだった。
なんで、夕陽ちゃんと呼ばないで、ときつく言ったんだろう。
ふみちゃんが指摘してくれたことは、本当のことだ。
私が直さないといけないって思っていることを、言ってくれた。
私はバカだ。良いところも悪いところも見てくれる友達がいながら。
え、これ……私に伝えようとして、ノートを? 直接話してくれたらいいのに。いや、私にも同じこといえるんだけれど。
「まったくもって不器用どうしだよね、私たち」
すれ違い、勘違い、邪推しすぎだったんだよ。今度こそ、言葉にして伝えるんだ。夕陽ちゃんへの気持ちを。
三限終了のチャイムとほぼ同時に、腕の通信機が鳴った。日本文学課外研究部隊専用の連絡道具だ。緑色の光が灯っているということは―。
「華火ちゃん?」
『事件発生っ! 古池わかるか? 空高の裏っ!』
ガサガサと慌ただしい音も入る。移動の最中なんだろう。
『姉ちゃんとヒロインに変身してバトりに行くから、ふみかも来てくれよなっ!』
「う、うん」
『あと、ゆうひとのケンカ、どーにかしろよっ。まゆみ、めっちゃ心配してたんだからな』
「そっか、わかったよ」
通信を切って、私はロッカーを開けた。変身するため、赤いヒロイン服をつかんだ。
空満大学からほど遠くないところに、華火が通う空満高校がある。件の古池は、空満高校の裏手にてひっそりたたずんでいた。鬱蒼とした林の奥まで行かねば辿り着けない池には、人が寄りつくことが少ない。藻が殖えすぎて濁った池は、撤去せよと高校の保護者会で唱えられていたらしいが、かつて神のおはす社が建てられていたので下手に除けないと却下されたという。
いわくつきの古池に、この日、大乱闘が展開されていたのだった。
「蛙鳴蟬噪っ、ちったあおとなしくなりやがれってんだっ!」
襲いかかる蛙の群れに、花火玉を投げつけて応戦するグリーン。火花でおののかせ、爆風で吹き飛ばすも、懲りることなく蛙たちは手を変え品を変え、寄ってたかってくる。
「焼く、煮る、干す、飽和状態……ですね」
グリーンと背中合わせになって、黙々と射撃を行うブルー。
「ここには、ヌシが住んでるんだっ。外来種かよく知らんが、あたしの大好きなヌシの邪魔はさせねえぞっ!!」
グリーンに扮する華火は、古池のヌシと(一方的かもしれないが)心を通わせている。始業前と放課後に、家から拝借したおかずをこっそりやっているのだ。大量発生した蛙ごときに、ヌシの暮らしを脅かされるわけにはいかない。鯉に恋する少女は、これまで以上に奮い闘うのだった。
「これも、まゆみさんが、原因……?」
遠くの木陰で遅い昼寝をする顧問、安達太良まゆみを目視し、ブルーは細い息をもらす。親戚の日課に付き合っていたら、顧問が池のほとりで突っ伏していてさあ大変だったのである(面には出さなかったが、さすがのブルーも人が倒れていたらちょっとは戸惑う)。
昨日の鯨騒動も、狙っていたクジラ天を食べ損ねて、まゆみが落胆した直後に起こった。理論を並べ連ねて解明するには無理がある不可思議な出来事には、まゆみが憤ったり落ち込んだり何らかの感情のゆらぎが関わっていた。
「根拠は、どこ……」
思索にふけるブルーに、太っちょの蛙が飛び込んでくる。難なく回避できるはずが、我に返るのが数秒遅れてしまっていた。
「…………!」
「ドントウォウリー、トンダ暴利デス☆」
妙に明るい声が割り込み、すぐ後にグエっ、という叫びが続いた。なんと、丸々とした蛙がブルーの足元で大股を開いてくたびれていたのである。
「最終ヒロイン・オトメヅカモード、ただイマ見参☆」
中世期の西洋の騎士服を着た黒髪の乙女が、ブルーを守るように降り立っていた。フリルと薔薇で飾りつけ、裾を短く大胆に改造した服がとてもよく似合っている。その手に掲げている細長い剣、サーベルという物であったか。あれで蛙を撃退したのだろう。
「前回ハ出ル幕ゼロだったノデ、活躍サセてもラウっスよー☆」
サーベルひと振りで、蛙達がいとも簡単に蹴散らされてゆく。英雄譚が再現されているみたいな、華麗な戦いぶりである。
「余計なしゃべりはいらねえからよ、途中参加したからにゃあ全力でこいつらをやっつけやがれっ!」
「ソノ憎まれフレーズ、地獄行キするホド後悔さセテあげマス☆」
先輩の貫禄を見せんばかりに笑うグリーンに、最終ヒロインがいたずらっぽく微笑み、互いに顔を見合わせた。
「一致団結っ、こっからは三人でやっつけてやるっ!」
三人、のあたりで最終ヒロインは、サーベルの柄をぎゅっと握りしめた。
「いくぞっ、青姉、最終ヒロインっ!」
『ラジャー!』
日文公認の文学サークル「日本文学課外研究部隊」には、もうひとつの顔がある。活動用の衣装で変身(お着替え)し、ヒロインとして謎の現象と戦うこと。現象は、衣装の作者兼顧問・安達太良まゆみ先生と関係していそうだが、いまだ明らかにできていない。不思議なことが起こると、空が雲に覆われて、先生が眠ってしまう(私たちが戦っている様子は、夢としてあらわれているみたい)のがみられているけれど、真相は神のみぞ知る、なんだろうね。
変身して、二〇三教室を出ると、また夕陽ちゃんと鉢合わせした。ここを訪ねるか、通り過ぎるか、迷っているみたいだった。
「ちょっと待って」
彼女が行ってしまわないうちに、私は教室に置いていた鞄からノートを引っこ抜いてきた。
「これ、持っていてよ」
「…………」
暗い表情で、夕陽ちゃんはノートを見つめていた。
「次、そっちの番だから、無いと困るんじゃないかなって思って」
「……」
黙り続ける夕陽ちゃんに、交換日記をぐいっと差し出した。
「私、これから古池に行くんだ。華火ちゃん達が待ってるの」
夕陽ちゃんは、おそるおそる日記を手にした。
「もし戦えそうなら、来てほしい。無理しなくていいから」
ノートを抱きしめた彼女は無言だったが、髪飾りの黄色いリボンはわずかに揺れていた。
「じゃあね」
私は夕陽ちゃんに背を向けて、走った。
「……ふみちゃん」
去ってゆく赤いヒロインを呼ぶ声は、静けさにむなしくかき消されてしまった。
「うちは……、うちは…………」
返されたノートを、こわごわと開く。一縷の望みを託して昨晩書いたメッセージ、読んでもらえただろうか。絶交ともとられかねない言葉を投げつけてしまったくせに、今さら、あなたは友達です、反省しています、だなんて、虫が良すぎるのは承知の上だった。それでも、伝えたかった気持ちがあった。
口にできなかった想いを記した頁に、真新しい文字が添えられているのに夕陽は気づいた。書き手の秘めた勝ち気さが表れた、太く力強い筆の跡。余白にぽとり、温かな雫が落ちる。
「うち達、不器用さん同士やなぁ……!」
背筋を伸ばし、夕陽は二〇三教室前にぶれずに立った。
「…………決めた。うちは、もう」
一切のためらいを捨て、彼女は自らの心にしたがって行動を起こした。




