第四番歌:古池や 蛙巻き込む 黄のリボン(二)
二
友のいない、一日はなぜか虚しくて
自慢じゃないけれど、私は朝に強い方だ。毎日四時から五時の間には起きているし、寝覚めの調子は、すっきりしている、それなのに、今日に限って体が重たいのは、どうしてだろう。
駅と大学を結ぶ、屋根付き商店街「空満本通り」が、とてつもなく長い道のり(いや、実際通り抜けるのに、約三十分かかるんだけれど、今朝は二倍以上の時間を要するんじゃないかと思えたんです)に感じられた。
B号棟に向かうまでが、もっと足取りが重かった。履き古した紐靴が、鉄下駄にすり替えられたわけでもあるまいし……。
「そっか、昨日、夕陽ちゃんにあんなこと言っちゃったから……」
心と身体はつながっているのだと、哲学や医療系の本でどれだけ教えられてきたか。私の経験を付け足すなら、身体が不調になっても、心ではごまかすことはできるが、心が痛んだら、身体で隠し通すことはできない。
夕陽ちゃんとは、昨日の戦いで別れたきりだった。
「……この一限で、今日初めて顔を合わせることになるんだよね」
うつむいたまま、B21教室に入った。ちょっとだけ顔を上げて、席を確かめると、最前列に、黄色いリボンを結んだ女の子が、ひとり座っていた。教壇に一番近いその席は、教室が変わろうとゆずれない、彼女の特等席だ。
(夕陽ちゃん…………)
普段は彼女の右隣に行くところを、私はそそくさと、そこから一列後ろへ鞄を下ろした。夕陽ちゃんは、予習に夢中だったようで気づかれることはなかったんだけれど……。
私、何やってるんだよ。あいさつする流れに乗って、ひとこと謝るくらいすれば良かったのに。きっと「ええんやよ、気にせんといてなぁ」ってお返事がきて、仲直りできるはず…………ないよね。
気まずさが邪魔をして身に入らなかった、一限「図書館情報システム概論」がようやく終わった。今度こそ、と夕陽ちゃんに話しかけようとしたが、姿がどこにも見当たらなかった。
肩を落としていた私に、同級生で、先日奥山寮にてお世話になった曽我さんと和泉さんが、
「モトちゃんとなんかあったの?」と心配してくれた。
「ま、まあ、いろいろあってね」
大和ふみかの大うつけ者。いろいろ、ってないでしょ。余計に気がかりにさせてしまってどうするのよ。もしかしたら、そっけないように思われたかもしれない。本を読みまくっているくせに、語彙が乏しすぎでしょ。そんなんだから、私は友達の輪に入れないん……やめよう、自虐なんてしても、状況が変わるわけないんだから。
二限「中国古代史B」は、得意分野だし、一人で受けているから気持ちを切り替えられるでしょ、と考えていたのは浅はかだった。先生の解説が、お耳の右から左へ受け流され、代わりに夕陽ちゃんの面影が、まぶたの裏にちらついてばかりで、今回のおさらい小テストは、すさまじき点数を叩き出してしまった。人生最低記録を更新しちゃったのだ。
友人の存在が、学生の本分にまで影響するなんて。小・中学生から友達に囲まれて充実した生活を送ってきている人も、こんな経験をしてきたのかな。にこにこして、にぎやかに昼休みを過ごしている時も? 気だるそうに授業を受けている時だって?
いや、そもそも…………………………私、夕陽ちゃんを「友人」だと言ってもいいの?
もしも、私の思い込みであって、夕陽ちゃんにとっては、私のこと友人でも、同じ学年の同じ学科の人でも、何とも思っていなかったら……。
「……その呼び方、二度とせんといて」
初めて聞いた、夕陽ちゃんから拒絶の言葉。胸の中に、どろりとした墨汁が注がれてゆく感じがして、気持ちが悪い。このまま、真っ暗闇に染め上げられてしまう前に、
「……あそこへ行こう」
ろくでもないことを考えはじめるようになったら、説明しがたい嫌な感情に押しつぶされたら、とにかくいったん逃げ出したい、ひとりになりたい、ってなったら自然とあの場所へ駆け込むんだ。
空満図書館、正しくは「附属空満図書館」。約三百万冊の蔵書が収められている、本朝指折りの「最大級の図書館」だ。私がいる国原キャンパスには、もう一か所図書館があるけれど、「図書室(またはI号棟)」と称されるとおり、小さな施設で、レポートのための調べ物や、読書のための本が集められている。そんな気軽に利用できる図書室に対して、空満図書館は格調高く、針一本落とすことさえも許されないような静けさに支配された場所なんだ。だからこそ、私は、ここに助けを求めていた。
希臘の神殿を模した造りに、気を引き締められる。石の階段を上り、重厚な扉を押して入った。すぐ右の受付で、空満神道信者の証である黒い法被をはおった人から、入館証を受け取る。必要な事柄を記して、パーカーのポケットに入館証を二つ折りにして放り込んだ。
正面の貸出・返却窓口に座っている司書と目が合い、微笑まれたので会釈しておいた。初めて訪れた時からお世話になっている人だ。二十代後半か三十になりたてと思われる男性、本当なら私には最も付き合いづらく感じられる相手なんだけれど、この人とは気兼ねなく会話ができる。本が好きっていうところが共通するからかな。数少ない、安心感のある人物だ。
少し心身のこわばりが緩んできたのか、あまり寄らない目録札部屋へ赴いた。ここでは、蔵書を探す方法が二通りあるのだ。パソコン検索と、目録札。ほとんどの利用者は、前者の方法で効率よく目当ての本を見つける(もちろん、私もその中に含まれている)。後者を活用するのは、ごく少数と図書館の職員だ。このご時世、目録札が生き残っている図書館は、本朝中でここだけらしい。ひょっとしたら、「世界中でも」と付け加えられるかもしれない。
小型の引き出しが所狭しと並んだ目録札入れは、時代小説に出てきそうな薬箪笥にそっくりだ。適当なところを開けてあさってみようとしたら、真後ろから声がかかった。
「おやおや、そこにいらっしゃるのは大和さんでしたか」
こんな近くまで気配を消して来られるのは、あの人しかいない。あまり会いたくない人物なので、聞こえないふりでもしようと思った。だが、学生といっても成人しているのだから、無視なんて応じ方はあまりにも幼い。
「こんにちは、真淵先生」
振り向くと、気味が悪いくらいに細められた目が待ち受けていた。
「クス、怖い顔つきをなさって。いつからいたんだ? と言いたげなようですねえ」
心の内を見透かされている感じと、常に笑みを絶やさない不気味さが、私はどうも苦手だ。日本文学国語学科の先生方は、それはもう風変わりな人ばかりだけれど親しみやすいのが救いだった(とはいうものの、物言わずの性格が災いして、私から関わりにいったことはない)。でも、この人だけは、得体が知れなくて嫌なんだよなあ……。
夕陽ちゃんが真淵先生にお熱を上げている理由が、いまいち分からないんだけれど、私からは下手に口出しできなくて。お友達の、好きっていう気持ちを尊重したいがために複雑な感情を抱いちゃうんだ……。そう、お友達……。
「ご友人の夕陽さんでしたら、あなたと入れ替わりでこちらへいらしていましたよ」
「そうだったんですか」
前々から気になっていたんですけど、どうして夕陽ちゃんを「夕陽さん」と呼ぶんですか。名字でいいじゃない。教員と学生の間柄でしょ、いやらしい。こんな人に夕陽ちゃんを取られてたまるか、ああ腹が立つ。
「依怙贔屓ではありませんよ。崇拝によるものと考えてくださればよろしいでしょう。それとも、嫉妬されています?」
「なっ」
危うく舌打ちしそうになった。目を閉ざすことを条件として心を読む異能力でも有しているんだろうか。真の姿は妖怪さとり、じゃあないでしょうね。だめだ、余計な考えをめぐらせている場合じゃない。
「ど、どんな様子だったんですか……本居さん」
「きらきらした笑顔が、今日は消えていましたねえ。悩んでいらっしゃるご様子でしたが。大和さん、心当たりありませんか?」
と先生が、芝居がかった口調で言う。手まで伸ばしてこられて、私は応答せざるをえなくなった。
「昨日、私が言い過ぎて、怒らせてしまったんですよ」
「なるほど」
もう、いいですよね。話を終わらせたので、再び木製の引き出しに触れたのだが、
「なぜ、夕陽さんはお怒りになったのでしょうか」
真淵先生は解放してくださらなかった。
「なぜって……。耳が痛いことを言われたからじゃないんですか」
「果たして、そう断言してよろしいのでしょうか」
先生は腕組みをして思案する形をとった。わざとらしくて、いらだちを覚える。
「あなたが仰っていた内容を詳しく当てられませんが、赤の他人に言われたのならどうでもよいと流されるでしょう。しかし、お怒りになったのは、あなたに思い入れがあるからではありませんか? 夕陽さんは付き合いの浅い方に感情をあらわにされないこと、ご存知でしょうに」
そうだ、夕陽ちゃんは滅多なことで感情をぶつけることなんてしない。だけれど、私の「どうして戦おうとしないの」「失敗するのが怖いんでしょ」「どこかで頑張ることをかっこ悪く思っているんだ」に強く反論した。それって、本音をさらけだしてくれたということ……?
「本当の友人ならば、あなたのすべきことはひとつ。ごく簡単なことですよ」
先生の細めた目が開かれ、私の姿をしかと映しこんでいた。
「私のすべきこと……!」
胸の墨だまりが、突然かき回されて渦が作られる。ぐるぐる回転するうちに、墨が分解されて浄められていくのを感じた。
気がつけば、体が勝手に動いていたらしく、私は図書室をあとにしていた。




