第四番歌:古池や 蛙巻き込む 黄のリボン(一)
一
内嶺県空満市に、鯨が出没した。
本朝の地理に詳しい人であれば、この事に異を唱えるだろう。内嶺県は、内陸県いわゆる海なし県のひとつなのだから、鯨が見られるなどありえない、と。しかし、それはひが事にあらず、真実なのである。
目撃された地点は、空満市袖之内町一〇八〇番地。夕方にセミクジラが現れたという。宗教都市に次ぐ、まちの魅力としてサンセット・ホエールウォッチングを売り出せば、観光客でより活気づくだろうに、前向きに検討しかねるものであった。
白い雲で塗りたくられた秋深まる高き空に、何の趣を感じさせるだろうか。
そこは空満大学国原キャンパスA・B号棟前広場。体育学部の本拠地・海原キャンパスもあるが、国原とはかけ離れた所に位置するし、海原といっても名ばかりで、しおからい水はどこにもありはしない。さて、国原の鯨は、アスファルトを海さながら泳ぎ回っている。気まぐれに潮を吹き、跳んでは巨体を見せびらかしていた。
そんな異様なものを、空満市の新名物しようなどと、いったい誰が考えようものか。
A・B号棟前の広場は、学生たちが最も行き交う所である。そして今は神無月、来月の大学祭にむけて舞台や看板、店の設営の準備でますます若人で賑わう時期だ。しかし、今日は不気味なくらいに閑散としており、残っているのは四人の女子だけでものさびしかった。
赤、青、緑、黄色、彼女達はそれぞれ異なる色の衣装を着ていた。放課後に会いにいけるをコンセプトにした学園アイドルのような、制服という統一感を示しながら、小物や下衣で差異を出して着用する者の個性を表現しているものであった。
「火すれば、花だっ! はなびボンバー!!」
緑色の動きやすさを重視した服の少女が、地面に向かってピンポン球のような物を投げつける。点火ボタンを押して衝撃を与えれば、爆発する代物だ。数個のうち、ひとつだけが地面に潜り込み、黒いしぶきを上げた。それ以外は、派手な音を立てて常磐色の火花を散らしていった。
「でかい図体のくせに、すばしっこいなっ! いま九時いま九時違え、今は五時、ゴジ……じゃねえっ、クジラめっ!」
その少女―はなびグリーンは、舌打ちして、花火玉をぶつけた所をにらみつけた。威勢の良い口ぶりをするが、小柄な体格と犬の尾みたいにぴょんと飛び出た一本の結び髪のせいで、あどけなく感じられる。
「まゆみのやつ、購買の期間限定クジラ天が売り切れたくれえで、ぶっ倒れちまうなんてよっ! そんで、わざわざ材料からお詫びのご挨拶たあ……って、どわっ!?」
体がふわりと浮いたので、はなびグリーンはつい驚きの声をあげてしまった。いたずらしてお仕置きされた猫のように、首根っこをつかまれていたのだ。
少女を軽々とつまみ上げていたのは、筋骨隆々とした屈強な男―だと相場は決まっているものだが、残念ながら大はずれである。答えは、ちょっとでもひねれば容易く折れそうな細長い手足、風が吹けば飛んでいきそう痩せた身体、幽霊かと見紛うような青白い顔、と三拍子揃った女性だった。女性の服の色は、細身を引き立たせる青。高い身長と、長い手足。すらりとした体型で、グリーンと一緒にいると、時計の長針と短針を彷彿させた。
「襲撃、回避する……です」
露みたいにはかない音量で女性―いおんブルーは、グリーンに言い、近くのベンチへ飛び移った。二人が立っていた場所に、高々と潮が吹き上がる。
「危機一髪っ、あんがとな青姉っ!」
「どうも……です」
舗装されたはずの広場に、あぶくが浮かび上がる。放課後に突如現れた鯨は、白い空のもとで地中を泳いでいた。空満大学の学祭には、恒例の動物ふれあいコーナーがあるのだが、こんなに大きな哺乳類を呼べる費用はない。というより、陸地で生息している点で普通じゃない。新種として世間を騒がせるだろう。ありえない事態であることは、理学部所属のいおんブルーは当然のこと、箸が転げてもおかしく思える女子高生はなびグリーンさえも理解していた。
「お?」
結んだ髪を跳ねさせて、グリーンはある所に目が止まった。飲み物の缶がぽんと置かれていたからである。まだ開栓されておらず、捨ててあるにしてはきちんと立てられている。飲み物は「エンジン・ブルル」。近頃流行りのエナジードリンクで、烏賊と鮪と蛸が乗った鯨がかわいらしく描かれていた。なお、売り文句は「終点南極までワンマン・ゴー!」だ。
「ご、ごめん、えさのつもりだったんだけれど」
隣のベンチから、頼りなさそうな声がした。赤色の服をまとった、ふみかレッドであった。グリーンとブルーに比べて標準的な装備だったが、かえって彼女の素朴さを表していた。
「どうせ私が飲むんじゃないから、つい縁遠い物を選んじゃったよ」
「鯨飲馬食っ! って、こいつエナジードリンク飲めんのかよ」
「あー」
間の抜けた返事をしてしまって、グリーンのチョップをお見舞いされるレッド。
「ま、まあ、食いついてくれると思うよ、たぶん。ね、イエロー?」
頭をさすりながら、レッドは傍らで腰掛けていた同級生―ゆうひイエローに訊ねた。
肩につくぐらいの波打たせた髪に、蝶々結びにした黄色いリボンが飾られている。リボンと同じ色の衣装は、派手に見えがちだが、彼女が袖を通していると上品な印象を与えていた。足元をしっかり隠した長いスカートと、ふっくらとした豊かな体型がそれを後押ししているのだろう。
「…………セミクジラいうたら『日本永代蔵』の巻二の四やな。せやけど、三十三尋二尺六寸やなかった。あっても三尋やろかぁ…………」
「イエロー?」
「ふえ、あっ、レッド。どないしたん?」
状況を整理することに気を取られていたのか、レッドの声は聞こえていなかったようだ。
「いや……」
レッドは、ばつが悪い顔をして、視線をそらした。地味で目立たない生き方を信条としているレッドだが、イエローには自身をみていてほしかった。だって、気の置けない間柄だから。友達と呼べる人は、イエローくらいしかいないから。それだけじゃない、友達に、ちりちりする思いが生まれていたのもある。だが、これ以上は言葉が出てこなかったので、気にしないふりをするしかないのだった。
「釣り、効率が悪い……」
「ブルー先輩にまでツッコまれると、きついんですけど」
「やる気だけは、あたしが直々に誉めてやるよっ。しっかしよ、クジラを倒さねえと状況打破できんだろ。こないだの猫又みてえによっ」
レッド達は、不思議な現象に数度巻き込まれていた。記憶に新しいのは、先日、女子学生寮「奥山寮」で暴れ回る猫又との戦闘だ。白い雲が霧のように立ちこめ、寮の人々をも飲み込んでいた。課外活動中に迷惑な話である。
「こんな変てこな事が起こっても、先生てば気持ち良くお休みされているんだからね」
彼女達「日本文学課外研究部隊」の顧問、安達太良まゆみは、売店前のデッキチェアにて悠々と眠りについていた。非常事態には、学生を守るべき立場にありながら、まことに残念である。
「まゆみさん、寝た後、発生する……です」
「先生の夢の中だったら、煩うことないんですけどね」
どうして私が、こんなことに。レッドは小さくため息をつく。平凡な女子大生の手に負えるのは、レポートと口頭発表、試験で充分だ。
「あーだこーだ言ってる間に、釣れたみてえだぞっ!」
「え、うそ」
鯨は、エナジードリンクもお好きだったようだ。缶を中心に、蟻地獄みたいに地面がへこんでゆく。
「よっしゃ、仕留めてやらあっ!!」
好機を逃すまい! と、グリーンは花火玉をへこみめがけて投げ入れた。
「私も、助太刀する……です」
三角形を二つくっつけた形の小銃から、青にうっすら着色された透き通った弾丸が発射される。ブルー発明の空気弾ピストルだ。
「やったかっ!?」
えさと一緒に攻撃を受けて、負傷を免れることはあるまい。しかし、いつまでたってもそこから相手が浮上することはなかった。花火と空気砲が来る寸前に、逃げたのか…………
「ふええええええええっ!!」
柔らかき悲鳴がしたかと思えば、一帯が薄暗くなっていることに三人は気づいた。声の方を向くと、鯨が口を大きく開けて、怯えるイエローを呑み込まんとしていた。
「ふえっ、も、鑓、鑓は…………」
危機が迫っているというのに、まだ考え事をしているの……? ふみかレッドは、奥歯を強く噛んでいた。
「くっ!」
じっとしていては、仲間が鯨の餌食にされちゃう! 引きちぎるように髪留めの赤いおはじきを外して、レッドはうなるように声をあげた。
「やまと歌は、天地だって動かせる! ふみかシュート!!」
指で弾かれた髪留め「ことのはじき」が、鯨の目玉めがけて一直線に飛んでいった。体の大きい相手にとっては、針でちょんと突かれた程度では。否、乙女の一念が岩をも通すように、乙女の一撃は鯨をも倒してしまうのであった。
野太い咆哮が、広場をこだまする。鯨は、傷んだ紙のごとくほろほろと身が粉になってゆき、風の前に吹き消されていった。天に広がる白き雲は、舞台の背景が切り替わるかのように、ぱっと夕焼けの空に戻されたのだった。
「でかしたぞ、ふみかっ!」
はなびグリーンこと夏祭華火がとがった歯をみせて笑い、ふみかレッドこと大和ふみかへ近寄った。いおんブルーこと仁科唯音も華火の後をついてくる。が、ふみかは二人をすり抜けて、鯨に食べられそうになった人物の前へ立った。
「どうして戦おうとしないの!?」
物静かなふみかには珍しい、激烈な言葉だった。
「な……なんでって…………」
ゆうひイエローこと本居夕陽は、突然責められて唇を震わせていた。
「危機が迫っていたんだよ、夕陽ちゃんだけじゃない、皆やられていたかもしれなかったんだから! わけ分からないし怖いけれど、立ち向かわなきゃ!」
場の空気が張り詰める。華火が「おい、そこまで言わんでも」となだめようとしたが、ふみかの思いは、もうせき止められなかった。
「ずるいよ、物知りなのに、出し惜しみするなんて。ううん、夕陽ちゃん、失敗するのが怖いんでしょ。賢いから、あれこれ考えてばかりで結局動かないでいるんだよね。努力とか、頑張るとかよく言うけど、どこかで頑張ることをかっこ悪く思っているんだ。頭の良い人は、無駄なことしないもの」
「…………」
夕陽の表情が、翳りはじめる。笑みを絶やさぬ彼女が、滅多に見せることない一面だった。
「頭の中でどれだけ完璧な戦術を練っていたって、実践しなきゃ意味ないから!」
鼻をすする音としゃくり上げる声が、夕陽からした。泣いている? そうではない、きつい目つきをして、ふみかを見据えていた。深く呼吸して、
「戦おうとせえへん!? 失敗が怖い!? 頑張らへん!? うちの気持ちも知らへんと、ようそんなこと言えるもんやなぁ!」
ふみかに負けぬ大声で言い放った。
「うちかて、うちかて戦いたいわ! 足手まといになりたないんや! せやけど、なんもでけへんで終わってまう自分が許されへんねん! ふみちゃんはええな、おとなしいみえて、度胸あんねんもん。やるときはやれるもん、うらやましいてしゃあないわぁ!」
もうええわ! と夕陽は回れ右をして、早足で場を離れてゆく。
「夕陽ちゃん!」
動揺が混じったふみかの呼びかけに、夕陽は歩みを止めた。振り返ることなく、
「……その呼び方、二度とせんといて」
と一言残して、風を切り進んでいった。どのような表情であったかは分からぬものの、語気からして怒りを含んでいることは、読みとれた。
「そんな……」
口業を恥じる暇など、与えてはくれなかった。華火がふみかをはやしたてていたが、放心して雑多な音として耳に入るだけ。まゆみ先生を負ぶった唯音は、華火へ先に行くよう促し、申し訳なさそうにふみかを一瞥して退いた。無言の気遣いに、ありがたく思いたかったがそういう余裕すら、失っていた。
「夕陽…………ちゃん」
ふみかは、腕をだらりと下ろして、己の影を見つめるばかりであった。




