第四番歌:古池や 蛙巻き込む 黄のリボン(序)
序
明日なんて、来たって来なくたってどうだっていいと思っていた。
どうせ、同じことの繰り返しなんだもの。ひとりで本を読んで終わる一日だと決まっているんだ。私は物語の世界には住んでいないから、日常をがらりと変える急展開なんて起こらないんだ。ううん、それでいいの。私の望みは、地味に目立たず生きること。誰かに構ってもらわなくてもいい。勉強は、独りでもできるのだから。
その年は、朝の天気予報コーナーの言葉を借りると「数百年ぶりに到来した暖かな冬」だったせいで、桜の開花が早まってしまい、卯月朔日の入学式だというのに、桜はかの枝、この枝もみすぼらしいほどに散っていた。
おめでたさに欠けるわびさびすぎる花を添えられ、私の大学生活はぼんやりと始まったのだった。まあ、中学、高校と変わらず、ひとりなる、我が身居坐る椅子の上で、読書をして四年を過ごしてゆくのだなあ、と変わることの無い展望を胸に閉じ込めつつ、期待に心弾ませている同学科の人達の群れから数歩離れて、式場なる体育館の出入り口で立ち往生していた。
皆、塾で受験の苦労を共にした仲だとか、教会どうしでの知り合いという宗教系大学ならではのつながりだとかで、早速、友達の輪が生まれている。私はというと、塾通いでもなく信者でもなく、昨日まで万年帰宅部の平凡な女子高生だったから、知っている人なんて、当然いない。ああ、そうですか。共通のものを持っていて仲良くなれてよかったですね。と冷ややかに傍観するしかなかった。
どうして、私には、友人ができないんだろう
いやいや、今さら考えても遅いよ。できないんじゃなくて、もう作りたくないんだから。いいんだよ、私には本がついている。物静かだし、話すのを待っていてくれるし、会いたい時に会えるし、いつでもそばにいてくれるし、なにより、知らないことを私の知っている言葉で教えてくれる。本にはこの世にいない人、実在しない人もいるけれど、私とお友達になってくれる。手のひらを返さずに絶えずお友達でいてくれる。
式の次は、空満神道本殿に参拝だ。母の情報(といっても、井戸端会議で仕入れたものだけれどね)によると、手を使って何やら神様にお祈りするらしい。未信者についていけるものなのかとおそれていたが、信者の真似をすれば、形になるらしいとのことだ。見て、ふりをしておけば無難だ。担任の先生、遅いなあ。最初に集合場所の教室に入ってきた、扇を振っていたお爺ちゃん先生が? とちょっとがっかりしていたが、はずれてくれて助かった。えーと、白いスーツのお姉さん先生だったよね、どこにいらっしゃるのかな。人ばっかりで、見通しがきかないや。日文らしき人についていけば間違いないものの、あいにく新入生は皆、黒、黒、黒。特徴とか個性とか受け付けませんの一点張りな単一された背広ばかり。吉日なのに喪に服しているみたいだよ。そういう私も、同じ服装なんだけれども。
群れが、少なくなっている。移動しはじめているのだろう。日文はとうに本殿へ着いているのかな? 知っている人いないから、かたまっている所が分からない。どこに行けばいいですかなんて、聞けるならはじめからしているよ。入学早々、置いてきぼりかあ……。
「あのぉ、日文の方ですかぁ?」
日文、と聞いて私は周りを見回した。ちょうど正面に、眼鏡をかけた女の子が、首をかしげてこちらに目を合わせていた。私に訊ねたんだよね? だって、この人と私しかいないし。とりあえず、そうです、と答えてみた。すると眼鏡の人は、ひやぁ、と金平糖のように甘い声をあげて、頬を赤らめた。
「本殿に参拝するのに、はぐれてしもうたんですぅ。よかったら一緒についていっても、ええですかぁ?」
自然とうなずいていた。私も日文だよ、一緒にいこう。言葉は出せなかったけれど、この人となら大丈夫だと思った。
「うち、本居夕陽いいます。よろしくどおぞぉ」
きれいな名前だ。本居って、あの宣長さんとつながりがあるのかな? 『うひ山ぶみ』読んだことあるのかな? あれ、黒っぽい灰色の上着とスカートだ。チャコールグレーっていうんだっけ。フリルのついた卵色のブラウスと合わさってお洒落だ。都会から来たのだろうか。雑誌には載っていない珍しい鞄をかけているし、髪型からつま先まで、垢抜けている。印象的なのは、髪に結ばれたリボン。快いぐらいに明るい、黄色いリボンだ。児童文学に出てくる鍵を握る物みたいだね。幸せの黄色いリボン、ん? 布違いか。まあいいや。だめだ、人をじっと見てあれやこれやと想像するのって、されている方からしたら気味悪いよね。会ったばかりなのに、嫌われちゃうよね。どうしよう、本居さんと終わりにしたくない。
変な人、怪しい人に思われるかも、と不安だったが、本居さんは笑みを絶やすことなく、話を続けていた。
「いやぁ、うち浪人して一年遅れて入ってもうたから、お話できる人いるやろかぁて困ってたんやよ。うち、あんまりおしゃべりするん得意やないからぁ……」
え、同い年にみえなかったのに。黙っていても良かったのに。それでも正直に身の上を言えるって、勇気がいるはずだ。会話が苦手だったら、なおさら……。本居さんは、私と―。
「やけど、心配せんでもええみたいや。だって、会えたもん」
彼女が垂れ目を細めた先には、他の誰でもなく、私だけがいた。まなざしを浴びた途端に、足下、桜の木々、空が生まれ変わったかのように明るく彩られていった気がした。
「大和ふみかさんやね。ふみちゃん、て呼んでもええですかぁ?」
「い、い……いいよ」
あだ名、つけてもらっちゃった。晩御飯のおかずにひじきが出された時よりも、嬉しい。でも、どうして、名前を知っていたのかな。ああ、教室に貼られていた座席図か。いや、単に名前を覚えていたわけじゃなさそう。短時間で顔と名前を一致させるなんて、すさまじい記憶力だ。何の縁があったか空満大学にはもったいない才女さんだよ。
いやいや、そうじゃなくて。私からも、言わきゃならないこと、あるでしょう。言うんだ、思っているだけじゃあ、いつまでたっても伝わらないんだから!
「あ、あ、あ、あの」
何だろう、と本居さんが首をかしげて待っている。言葉を惜しまないで、言うんだ、言おう!!
私も、「夕陽ちゃん」って呼んでも、いいですか?
…………本居さん、びっくりしている。だ、だめ、だったかな。そ、そうだよね。調子に乗りすぎたよね。なれなれしかったよね。あれ? 口元にに手を添えて、あははは、あははって笑っているよ。
「ええよぉ。これからよろしくなぁ、ふみちゃん」
よ、良かったあ。これって、友人になれたってことだよね? どうせ独りぼっちだ、とふさぎこんでいた自分がばかばかしくなっちゃった。今日、大切な友達ができた。
「……よ、よろしくね…………夕陽ちゃん」
明日に、早く来てほしいと思うようになった。




