第三番歌:奥山寮に猫又あり(序)
序
新しく、お昼ごはんを一緒に食べる人が増えた。それから、専用の休憩場所ができた。
「いただきます」
「いただきますぅ」
「いただきます……です」
日本文学国語学科と化学科、相対する学科が一堂に会している。この何とも稀な状況を実現させた一室の名は、二〇三教室。空満大学国原キャンパス西側に建つ「研究棟」の二階、日本文学国語学科の先生方の個人研究室と並んでいる空き教室だ。このたび日本文学課外研究部隊の活動拠点になった。利用予定が入っていなければ、いつでも使って構わないと事務助手さんから許可をいただいたので、お言葉に甘えさせてもらったというわけ。いつもは午後の講義が行われる教室に先回りして、そこでいただいていたんだけれども、せっかく貸し切りできるんだもの。文学PRで学内の注目の的になるのは苦手だが、この特権だけはありがたく行使させてもらおう。
うん、ひじきにコッペパンは奇跡の組み合わせだ。芥子入りマヨネーズが、対照的な二つを仲良くさせているんだね。脂っこくなくて、飽きがこない。病みつきになるなあ。腰を据えて食べていると、純粋に味について思いをめぐらせる余裕ができる。うん、ひじきパン、明日も買おう。常に人がいる購買部に行くのは恥ずかしいけれども、美味なるひじきパンのためならば、労力は惜しまない。
「…………」
ひたすら沈黙して食す唯音先輩。片手で持っているレタスサンドが、一向に無くならないのは、どうしてだろうか。まさかと思うが、ミリ単位でかじっているのではないですよね? というか、先輩はいつ息をしているのか分からない。片時も目を離さずに観察していないと気づけないだろう。
「あはは、おいしいお弁当、お弁当ぉ」
夕陽ちゃんは、歌の文句みたいなことを言ってうきうきしている。そうか、今日は大好物のオムライス弁当だからか。お母さんがときどき作ってくれるんだって。おかずがミックスベジタブル入りのポテトサラダとは、洒落ている。ちくわを醤油で甘辛く炒めただけとか、こんにゃくと味噌を和えただけという、美しさや彩りなんかとは無縁な大和家のお弁当とは雲泥の差だ。食べ物に文句をいうつもりはないけれど、母よ、夕陽ちゃん宅を見習ってください。
ふう、それにしても落ち着く。木目調の組み立て式長机に、パイプ椅子。壁際には段ボール箱に詰め込まれた、日文が発行している学会誌「嶺邊道」と、ほどよく光を取り入れるブラインド。何の変哲も無い教室だというのに、なぜだか安らげる。ホワイトボードに置かれた水性ペンでさえ、和ませてくれる感じがする。このまま入り浸って、自主休講してみようかな……なんてね。ひじきパンを食みながら、頭の中でひとり雑談。あ、私、話したいことがあったんだ。
「昨日先輩が持っていた武器、あれはいったい何だったんですか」
本当ならその場で訊ねるべきだったけれど、坊主まみれの大騒ぎで機会を逃してしまった。そのせいで、気になってしょうがなくて眠れなかったんですけど。
「護身用……」
レタスを噛み終えて、先輩はぽつりと返事した。こりゃあ物騒な。まあ、名家の娘さんだと、身の危険がつきまとうのだろう。誘拐して身代金とか研究の機密情報とか要求されたら、たまったものじゃないからね。実弾が入っていないから、銃刀法には引っかかっていないのかな?
「ご家族が持たせてくださったんですかぁ?」
夕陽ちゃんが、オムライスにケチャップを塗りながら訊ねる。アルミカップにしぼられたケチャップを、スプーンで慎重にすくっていた。
「私が、作った……です」
ほ、ほんまかいな。あやうく最後のひと口を気管に入れそうになりましたよ。発明の才能にも恵まれていたとは。やっぱり、卒研を短期間で出した人は、格が違うね。恐るべし、理系の申し子。そして、ごちそうさまでした。
「…………」
唯音先輩の目が、ちょっとだけ見開いた。思いだした、といったところかな。お手ふきで指先を拭って、隣のイスに置いていたビジネスバッグを引き寄せた。
バッグより、丸っこい物が三個出てきた。腕時計のおもちゃ? メダルをはめて妖怪を呼び出す、みたいな?
「発明第八十八号、携帯通信機……」
さ、最新型の通信機器でしたか。失礼しました。「発明」という言葉で、ピンときたんだね。
「どうぞ……です」
私と夕陽ちゃんに、一個ずつ渡された。赤、黄色と私たちの好きな色を揃えてくださっていた。もちろん、残りは先輩の色、青だ。併せて、説明書と保証書もいただいた。って、本格的な電化製品ではありませんか。今すぐにでも販売できますよ。
「そうですかぁ。本体のフタは下のワンタッチボタンでオープン、三つのボタンでお話したい人を選んで、決定、やね。あらま、時計とキッチンタイマー、ストップウォッチ機能も付いてる。通信先のデータフォルダを見るにはぁ……」
うわあ、夕陽ちゃんてば、早くも説明書を熟読して使いこなしているよ。授業でも、教本を買ってすぐに目を通した上で臨む方だもんなあ。中身を把握していれば、難しくないのだと思う。でも、予習する時間を作れないんだよね。それ以前に、私は機械が苦手だ。
「えーと、先輩。通話はどこでするんですか」
「文字盤に、向けて、話す……です」
試しに先輩が、私へ発信してくださった。出るには、本体真ん中の決定ボタンだったっけ。お、画面に「いおん」と表示された。
『は、はい』
『聞こえる……ですか』
『あ、はい。聞こえてます。ありがとうございます。き、切りますね』
『……です』
試験通話は、つつがなく終わった。やり方は携帯電話とあまり変わらないのか。これなら、私でも使えるね。いただいた通信機を腕に着けたのも束の間、再び私宛てに発信があった。単純だけれど、ひと度耳に入れば口ずさんでしまう電子音。はいはい、出ます、出るよ、出るから。
『ふみちゃん、ふみちゃん!』
夕陽ちゃんだ。あ、あの、大きな声で呼ばなくたって、同じ室内にいるから分かるよ。
『ずるいわぁ。なんで、うちにもかけてくれへんのぉ』
なんでそうなる。ずるいと言われましても、意地悪をしたわけじゃなくて、使い方を教えていただくためでありまして。
『いや、さっきのお試しだし。というか、いつも一緒にいるんだから、直接しゃべってくれたらいいのに』
『せやからいうて、せんでええんちがうもん……』
さては、すねてるな。たまにあるんだよなあ、少し扱いがめんどう、もとい、かまってほしい時が。
『ふみちゃんのアホぉ』
『あー、ごめん。ごめんだって』
他の人だと、いい気分がしないんだけれど、夕陽ちゃんのふんわりした声で「アホ」と言われると、許せてしまう。なんか、こちらが申し訳なくなって、折れちゃうよ。
『あはは。ええよ、うらやましかっただけやからぁ』
たぶん、男の人だったら、こう言われると愛おしく思うのだろうな。夕陽ちゃんが好かれる理由、なんとなく分かる。だって、しぐさや話し方ひとつとってもかわいいんだもの。
「予鈴、鳴る……です」
いけない、つい長居をしてしまった。あと五分で講義教室へ移らなくちゃ。えーと、司書課程の講義はB23教室だったよね。B号棟二階にある三番教室だ。学生手帳の時間割欄を確かめないと、どうも気が済まないんだよなあ。
「片付け、まかせて……」
唯音先輩が、先に行くよう促してくださった。何から何までお世話になってすみません。このご恩は、いつかお返しします。
「それでは先輩、また四限目の後にぃ」
予鈴が鳴り終わる寸前に、夕陽ちゃんとおいとまさせてもらった。
「お?」
ドアを開けたら、目の前に球が置かれてあった。
「落とし物やろか」
「落とし物にしたら、大胆すぎない? けっこう目立つよ」
「せやなぁ。真っ黒に塗られたバレーボールて、珍しいもん」
「来月の学祭でいる物なのかな」
「かもしれへんわぁ。よう見たら、導火線ついてるし。花火でもあげるんとちがう?」
「ゆ、夕陽ちゃん。そ、その導火線なんだけど……」
「ふえ?」
知りたくもなかった事実を、包み隠さず伝えよう。
「火、ついているんですけど」
「ふええええええええええええええ!!」
夕陽ちゃんの大げさな叫びが、空しく廊下にこだました。その間に、球から延びている紐は焦げていき着実に火を運んでゆく。
「消火器、消火器探さな、はわわわ、消火器よりも消防車呼ばなあかん? ひやあああ!」
「あわてないでよ、夕陽ちゃん。ここは避けて、共同研究室へ誰か呼ぼう」
「あかん、あかんてぇ! ほらぁ、火がボールにぃ!!」
「わっ!!」
手遅れだ、爆発する! 両の腕を交差させ、とにかく身を守ることに徹した。
「……あれ?」
火薬の臭いが漂ってこない。癇癪玉の破片すら散らばっていないし、熱くも痛くもない。それ以前に、爆弾特有の派手な音がしなかった。
「何なんだ、んもう。あ」
黒い癇癪玉の正体、破れたり。
「夕陽ちゃん、大丈夫だよ。爆弾じゃなかった」
「ほんまに?」
なおも怯えている友人の背を叩き、球の成れの果てを指し示してあげた。
「なんや、偽物やったんやぁ」
爆弾だと恐れていたけれど、それに似せたおもちゃだった。黒玉は、きれいに半分に割れていた。
「あれま、中に入ってるんは?」
ひょいと夕陽ちゃんがつまみ出したのは、マッチ棒に間違えそうな巻かれた紙。おそるおそる広げていくと、鉛筆書きの文章が連ねられていた。
日本文学課外研究部隊へ
宣戦布告。今日、午後三時、鵯公園で待つ。あたしと勝負しろ。
ゲロ吐かせられたくねえなら、おやつは食うな! 夏祭 華火
「ふみちゃん、どないしよう。うち達、決闘申し込まれてもうたわぁ……!」
いたずらか、罠か。果たし状を読み返しながら、考えていた。剣呑な内容だけれども、信念が貫かれた、まっすぐな字だ。まゆみ先生とはまた違う、美しい筆蹟。きっと差出人は、裏表の無い人物だと思う。まあ、手紙の出し方は、過激だったが。
「会ってみようか」
「ふえ!?」
正気なのか、と言いたげに夕陽ちゃんはメガネをずり上げた。
「勝負はともかく、会ってみたいんだ。夏祭さんに。お礼もしたいところだからね」
ひじきパンの余韻にひたっていたのに、一転、寿命が縮みかける恐怖体験を届けてくれたのだもの。無視できるわけないじゃない。うん、今日の三限目は、うたた寝せずに受けられそうだ。




