ブランカ・ネゴはとろけるキスに頼らない。
美しさ。美の基準。
それは卑下の土台に成り立つ物であると、女は鏡を見ながら呟いた。
薔薇の模様を遇えたロウソクが、ほのかな熱とともに室内を照らしている。
「これが噂の鏡ね」
羊皮紙に包まれた手鏡をしげしげと眺めると、はあっと息を吹きかけてシルクでその鏡面を拭いた。
「美の頂点を映し出す、魔性の鏡よ。其方の気心のままに……」
面妖な程に赤いネイルの手のひらをそっと鏡にあてがった。
念を込めて、圧を放ち、力を押した。
手を離すと鏡が一人の女性を映し出す。
それは若い女だった。
ブランカ・ネゴは農家の生まれだった。
産まれながらにして母を失うが、父が男で一つ、ブランカを育て上げた。
まるで絵画から抜け出したかのような美貌を兼ね備えていたが、それに驕ることなく、ブランカは父の農を手伝った。
「パパ!」
ブランカの呼び声が、牛舎に響いた。
牛の反芻と、男の息遣いを包むようにだ。
「おおブランカ。もう終わったのかい?」
「パパったら、そんなに無理しなくてもいいのよ? もうすぐお爺ちゃんなんだから」
牛の頭を撫でながら、ブランカが父親へと歩み寄る。その歩き方は、思わず牛が見惚れてしまう程であった。
「いやいや、いつまでもブランカに苦労をかけるわけにもいかん」
「……結婚は嫌よ?」
父親が、その手を見た。
美しい手にはマメや擦り傷が大小様々あった。
働く美しさがそこにはあったが、父親はそれを良しとはしたくなかった。
「縁談があるんだが……」
「だから、嫌よ!」
ブランカが突っぱねる。
牛が驚き、慌ててブランカは口を押さえた。
「相手はポーノ家の次男、ルガー・ポーノだ。悪くない話だろう?」
「いーや! あんな道楽者はゴメンだわ!」
ブランカはきっと口を横に広げた。
怒って牛舎を出て行くブランカに、父親はやれやれと頭を掻いた。
どう説得したものかと、ため息をついた。
「すみません。娘が頑なに嫌がるもので」
「まあまあ、一度会えばきっと気が変わりますことよ。合うのは十年ぶりでしょう? 息子も見違えましたことよ?」
農夫が赤を基調としたソファに腰を浅くして座っている。
出されたティーカップの取っ手に指が通らず、飲み慣れない味に眉をひそめた。
「お宅の牧場はウチで買い取りましょう。牛も良い牛だ。貴方にはウチの家畜担当を担ってもらいたい」
それは降ってわいたような話だった。
娘は良家の嫁に行ける。
自分は老体に鞭を打って農作業をすることはなくなる。
至れり尽くせりとは正にこの事だと、その時農夫は思った。
ただ、それもこれも縁談が纏まればの話であるが。
雲行きが怪しくなってきたのを見てブランカが洗濯物を取り込み始めたのは、午後の食事を終えた頃だった。
一雨来そうだ。
ブランカは家事を急いだ。
「もしもし、そこのお嬢さん」
牛舎の戸締まりをしていたブランカの背中に、フードを被った女が声をかけた。
腰が曲がり、足が不自由なのか杖を突いていた。
バスケットを下げ、中にはリンゴがいくつか見える。行商だ。
「リンゴをお一つ如何ですか?」
「結構です」
用心。ブランカが父親から強く言われている言葉だ。
ブランカは注意深く女を観察した。
「大病を患いまして、日々の薬代も捻出出来ません。どうか、お救いの手を少しだけ……」
フードから僅かに見える女の顔に、緑色の斑点が見えた。見たことも聞いたこともない症状だ。
「そのような方が牛舎に来られては困ります。どうかお引き取りを」
ブランカが牛への感染を危惧した。
しかし女は食い下がらなかった。
本当に金に困っている。そんな口調だった。
「わかりましたわかりました。一つだけですよ」
ブランカは根負けし、リンゴを一つだけ購入した。
コインを渡し、女を見送る。
それが本当なら助けてあげたいが、何よりも牛への安全を危ぶむ行為に、ブランカは耐えられなかったのだ。
「あ、雨が来ちゃったわ」
ぽつぽつと雨音が鳴り、ブランカはため息をつきながら、リンゴの臭いを嗅いだ。
「大丈夫かしら、このリンゴ……」
躊躇いながら小さく、ほんの一口にも満たない欠片を齧る。
とても甘いリンゴだった。
すると、ブランカの意識は直ぐさま朦朧とし始めた。
感覚が狂いだし、空と地面がぐるぐると回り出す。
今自分は立っているのか、寝ているのか、それすらも解らぬまま、ブランカの眼が虚ろなものになってゆく。
「おい」
ブーツがブランカの頭を小突いた。返事はない。
雨は上がり、空はすっきりと晴れている。
酷く濡れきったブランカの全身を眺めると、男は舌舐めずりをした。
「いい女に育ったな。結婚話を持ち掛けられた時は冗談かと思ったけどよ」
白い馬の嘶きが空へ溶ける。
澄み渡る空にずぶ濡れのブランカが酷く不釣り合いに見えた。
「後は手はず通り、解毒剤を飲ませれば……っと」
男がブランカを馬に乗せた。
歩き出した馬が、転がっていたリンゴを踏み潰した。
「見付けたときには倒れていて……」
男がガタつく木製の椅子に深く腰掛け、コーンスープを飲んでいる。濃い味付けに少しだけ眉をひそめた。
「すまないポーノ君。娘に何があったのか、今医者を呼んでいるから、少しだけ傍に居てあげてくれないかい?」
「お安い御用です。愛するブランカの為ですから」
父親が部屋を去ると、ポーノは足をベッドへと上げた。
ベッドの中のブランカは、まるで死んだように眠っている。
「原因不明の眠り姫。王子のキスは明日の午後。あの女の話がこうも上手く行くとはな」
ポーノが鼻で笑う。
酒と女遊びが好きなポーノは、初めこそ結婚に難色を示していたが、久方ぶりに遠くから見たブランカに、悪くないと手のひらをそっと返し、頷いたのだ。
しかし彼が欲しいのは妻ではない。女だ。
遊んで飽きれば次に変える。
それが色男と呼ばれたポーノの女遊びだった。
医者が到着する。
しばらくブランカの体を調べたが、異変は無かった。
「あまり妻をジロジロと触らないでもらいたいな」
ポーノがもたつく医者に釘を刺した。
良家の圧に怯んだ医者は、診察を諦めて「原因不明」とだけ告げて家を後にした。
その日、父親は泣き続けた。
男で一つ、苦労して育てた娘に突如訪れた不幸。
幸せを掴む前に倒れた娘の顔は、とても白かった。
明け方、むくりと起き上がる影が一つ。ブランカだ。
記憶が曖昧気味ではあるが、倒れていた時に聞いた声だけは残っていた。
「道楽者は相変わらずだこと」
ブランカは笑った。
笑っていないと怒りで騒いでしまいそうだったから。
そして、騒いでいけない理由が出来たブランカは、そっと部屋を抜け出した。
「ブランカ……入るよ」
返事があるとは思えない部屋をノックし、男がすっと入り込んだ。ポーノと父親だ。
「変わりなく、か」
少し寂しげにポーノが口にした。
気のせいだろうか、その目には涙が浮かんでいる。
ベッドでは白い顔をしたブランカが、静かに眠っている。
「嗚呼……ブランカ! 何故このような事に!」
ブランカに覆い被さるポーノ。
後ろでは父親が目頭を強く押さえている。
「愛しのブランカ……!」
ポーノがブランカの頬に手を当てる。いよいよだ。
ポーノの顔に気迫が満ちる。
口の中の袋を歯で破き、息を整える。
そっと、だが強く。
ポーノはブランカに口づけをした。
生娘ならとろけてしまうようなキスを──。
「──ッ!?」
ポーノがばっとブランカから離れると、頭をぐらぐらと揺らし、直ぐに倒れてしまった。
「ポーノ君!? どうしたんだい!!」
父親が肩を揺らすが返事はない。
目は虚ろ。口はだらしなく開き、色男の面影はそこには既に無い。
ポーノはルガー家に運ばれ、直ぐに医者が呼ばれた。
「原因不明」
「ちゃんと診なさい! 判るまで帰さないわよ!!」
ポーノの母親がドレスが乱れることもお構いなしに、医者の頭を強く小突いた。
翌日、ブランカは何気ない顔で牛舎へ現れた。
父親が、餌やりのピッチフォークをがたりと落とし、固まった。
「ブランカ!?」
「おはようパパ」
父親に抱きつくブランカ。
それを強く抱き返す父親。
ワラを食べながら、牛たちが二人を見ていた。
「元気になったのか?」
「ええ、この通り!」
その場で一回りしたブランカを見て、父親はほっと胸をなで下ろした。
「ブランカ、君を見ていたポーノ君が今度は倒れたぞ」
「あら、そうなの? 知らないわ。きっと悪い物でも食べたんじゃない? きっとすぐに良くなるわ」
「それなら良いのだが。なんか申し訳ない気がして、な」
「バチが当たったのよ、バチが」
ブランカは嬉々として笑った。
そして壁に掛けてあったお揃いのピッチフォークを手に「手伝うわ」と、餌やりを始めた。
「パパ」
「なんだい?」
嬉しそうに父親がブランカを見た。
「結婚相手は自分で選ぶわ。少なくともパパより使えない男はダメね」
「ハハッ、そういうところは……母さんに似たんだなぁ」
父親は嬉し涙を堪えきれず、流した。
ポーノが目を覚ましたのは、二日後の朝だった。
とにかく腹が減った。
ベッド脇のテーブルに置かれたお見舞いの品を手にする。
「何だったんだチクショウ……」
赤いリンゴ。
手にしたリンゴが入っていたバスケットに目を落としたポーノは、手書きのメッセージが入っていた事に気が付いた。
リンゴを齧り、手紙を手にする。
何処の女からだ?
ガネットか? サマンサか?
ポーノの頭の中に、お見舞いを送りそうな女の顔がピックアップされた。
──リンゴご馳走様。ブランカより──
「ゲーッ!!」
ポーノは慌ててリンゴを吐き出した。
騒ぎを聞き付けた家人が部屋に入る。
目覚めた喜びに満ちあふれる家人。
「ネゴの娘のお見舞いが効いたのね!」と、齧られたリンゴを見てポーノの母親が涙した。
「い、いや……違う! もうあの女はいい! 縁談は止めだ! 止め!」
ポーノはベッドへと素早く潜り込み、震えた。