50メートル走自称5秒台の男
体育の授業で50メートル走のタイムを計る。
足の速さというのは、高校生にとって一定の価値がある。とはいっても、小学生のときと比べると、その価値はぐっと減る。昔は足が速いというだけで、モテたりしたものだ。わけがわからない。
高校生にもなると、足の速さなんかよりも、頭の良さや、顔の良さ、コミュニケーション能力なんかが重要視される。女子は男子に対して、足の速さを求めない。まあ、陸上部で全国大会で入賞するレベルにまでなるのなら、価値はあるんだろうけれど。
でも、男子での間では、まあまあの価値があったりなかったり。文化部の、いかにも運動ができなそうなやつが、妙に足が速かったりする。そういうやつは、運動部のやつらとかからの評価がぐぐっと上がる。上がったところで、どうなるんだ? いや、とくにどうもならないけど……。
あ、でも、クラスにはカーストというものがあって、いじめられている人は、運動もできなかったりする。運動ができないとかはネガティブになり得るのだ。逆に運動ができる、足が速い――こういった要素は、男子同士の間でポジティブな影響を与える。いじめとか、カーストとかに関わってきたり。だから、まったくの無意味無価値ってわけじゃないよね。
「どうよ、調子は?」佐藤が話しかけてきた。
「まあまあ」
「目標は?」
「うーん、7秒台半ば」
「低い目標だなあ」
「頑張ったところで、足が速くなるってものじゃないでしょ」僕は言った。「こういうのは日頃の努力が大切なんだから」
「じゃあ、常日頃から脚を鍛えなさい」
「別に、僕は足が速くなりたいわけじゃないし」
「俺は6秒台を目指したい」佐藤は言った。「前に計ったとき、7,0だったんだよ。あれ、滅茶苦茶悔しくてさあ」
「7秒台か、6秒台かって、大きな差だものね」
「うむうむ」佐藤はがくがくと頷いた。
僕たちは順番を待っている。一応、クラウチングスタートで、測定はストップウォッチによる手動である。位置について、よーい、ドン!
「ねえ、佐藤」
「なんだ?」
「測定さ、手動じゃない」
「ああ、そうだな」
「手動だとさ、けっこう誤差が出ると思うんだよね」
「あー、まあなあ。でも、しょうがないだろ。大きな大会じゃないんだからさ、そんな機械による測定とか無理じゃん」
「うん」頷く僕。「手動だと、実際のタイムより速くなると思う? 遅くなると思う?」
「えー、どうなんだろ?」佐藤は考える。「遅くなるのかな……? ゴールのラインを見て、そこを通過した瞬間にボタンをかちっって押すんだから」
「でも、人によってはゴールの少し前に早まって押しちゃいそうだよね」
「計測者によってだいぶ誤差が出るなあ」佐藤が言った。「運ゲーだ。運ゲー」
「佐藤のときに計るの僕だったら、多少忖度してあげようか?」
「いや、忖度して速いタイムにされても複雑だからやめろよ」佐藤は言った。「ただし、遅く押すのも勘弁な」
「おーけー」
まあ、僕が佐藤のタイムを計ると決まったわけじゃないんだけれど。
やがて、僕の番になった。尻についた土を払って、ラインの前に立つ。クラウチングスタートの態勢をとる。隣はハンドボール部の里中だ。僕よりずっと速いだろう。彼についていく形で走ろうじゃないか。
「位置について、よーい、ドン!」
これ、もう少し、どうにかならないかな?
僕は低い姿勢で走り出した。少しずつ姿勢を上げていって、同時に加速していき、最終的にはトルソーを突き出すような形でフィニッシュする。
「6,7」
「7,4」
僕のタイムは7,4だった。7秒台半ば。まあ、ノルマは達成したかな。6秒台はどうあがいても、僕の筋力、ストライドじゃ無理だろう。
「鈴野、タイム計測変わってくんね?」
頼まれたので、僕は頷いた。断る理由はない。別にそこまで面倒な仕事ってわけでもないし。受け取ったストップウォッチを手に持ち、スタートラインをちらっと見る。佐藤が気迫の入った顔で、クラウチングスタートの態勢を取っている。
「位置について、よーい、ドン!」
ピッ。ボタンを押す。
タッタッタッタ……。大きく腕を振って、佐藤は走る。とても真剣な表情だ。隣の男子よりだいぶ早い。
僕はゴールラインに体を向けた。佐藤が通過した瞬間、できるだけ早くボタンを押した。……いや、正確に言うと、佐藤が通過するほんの少し前にボタンを押そうとし、その命令が脳へと伝わり、右手の親指が動くとともに、佐藤がゴールをこえていった。つまり、ほとんど正確なタイムというわけだ。
「どうだった?」佐藤が尋ねてきた。
「うん……6,8」
「やったぜ。自己記録更新」
六秒台を叩き出した佐藤は、ご満悦だった。
その後、もう二人ほどタイムを計測した後、僕は計測係を変わってもらった。佐藤と並んで座って喋る。
「なあ、鈴野。別に、俺に忖度とかしてないよな?」
「してないよ。できるだけ、正確なタイムを出そうとはしたけれど」
「ほう。ということは、俺の6,8というタイムは、非常に正確性の高いタイムだということだな?」
「まあ、そうなるね」
「ふむふむ。よしよし……」
僕はタオルで汗を拭いた。今日はとてもいい天気だ。こんなにも日光が照り付ける中で、体育をするのは馬鹿げていると思う。熱中症になってしまいそうだ。
「うちのクラスで一番足が速いのって誰だっけ?」
「さあ」僕は首を傾げた。「ああ、でも、確か高橋とか足速かったよね?」
確か、高橋本人が『俺、足速いぜ』的な自慢をしていたような気がする。だから、なんだよって感じだったけど。
「ああ、高橋……」佐藤は呟く。「あいつって、何部だっけ?」
「帰宅部じゃなかった?」
「ふうん。運動部じゃないけど、運動できるって口か……」
僕は思い出す。
前に高橋が『俺、50メートル、5秒台なんだぜ』と言っていたことを。
5秒台? 100メートル10秒とかで走るような、プロ級が50メートル5秒台とかだろ? さすがにありえないだろ。いくら足が速くたって、専門的な指導を受けていないアマチュアなんだぜ?
まあ、ストップウォッチでの計測はかなりの誤差が出るだろうから、6,4秒の人が0,5秒の誤差で5,9ってこともありえなくはないか……。0,5秒の誤差はなかなかのものだとは思うけども。
佐藤と高橋の話をしていると、件の高橋氏の番になった。彼のタイムを計測するのは、彼の数少ない友人である山川である。
「へえ。高橋5秒台なの?」
「正直さ、にわかに信じがたいよね」と僕。
「うーん、5秒台ってなると陸上部でもトップクラスに速い奴になるんじゃねえの?」
「そうだよねえ」
高橋がクラウチングスタートの態勢をとる。詳しくはよくわからないけれど、僕みたいなド素人っぽさがある。このスタート前の態勢でも、ちょっとした差が生まれるのだと思う。
「位置について、よーい、ドン!」
高橋が走り出した。彼は背が高い。タッタッタ、と走る。まあ、僕より早いと思う。佐藤よりも少し早いと思う。だけど、5秒台――俊足の走りってほどではないかなあ。ピッ、と山川がボタンを押した。
「5,9」
おお、とどよめく。
クラスに陸上部の奴とかいるけれど、5秒台ではなかった。さすがに、帰宅部の高橋が5秒台を叩き出すのは、おかしいというかミスなんじゃないか、と思う。
僕たちと同じように考えている奴がけっこういた。
「今の5秒台だったか?」
「50メートル走の日本記録が5,75なんだぜ? 素人のあいつが5秒台とかありえねえー」
「ストップウォッチによる手動の計測は、機械の計測よりもだいぶ速くなるらしいし、実際は6,4とかじゃない?」
よく、50メートル自称5秒台の人がいるけれど、それはきちんとした計測じゃないから参考記録程度のものだ。後に軽く調べてみると、誰かさんの言う通り、手動の計測のほうが速いタイムが出るらしい。
異論がでまくって、それに対して高橋が反論した。
「お前ら、山川が嘘のタイムを言ったと思ってるのか?」
「いや、嘘じゃないと思うけど、ボタンを押すのが少し早かったような気がする」
俺も、俺も、と何人かが同意する。
一緒に走ったハンドボール部の里中が「はい!」と手を挙げた。
「俺が計ってみるから、高橋もう一回走ってくれない?」
それに対し、高橋はぐうっ、と苦虫を嚙み潰したような顔をした。しかし、自分の表情に気づいたのか、すぐに表情を引き締めた。それから、もう一回走りたくない的なことを、表現をころころ変えつつ、何度も言う。
50メートル走にタイム計測は、一回ないしは二回だ。一回目にミスったり、もう一回チャレンジしたい人は、もう一度走ってもいい。一回目の結果に満足した人は、そこで終わり。
結局、高橋は拒否しきれず、不承不承二回目の計測を行うこととなった。明らかに不満そうな顔を――いや、あれは困った顔だろうか……?
「位置について、よーい、ドン!」
だっ、と走り出した。
ストップウォッチを構える里中は、かなり真剣な表情をしている。普段の授業から、これくらい真剣に取り組めよ――とはさすがに言わない。言えない。ピッ、とボタンを押した。僕が佐藤を計測したときのように、高橋がゴールラインを通過するほんの少し前にボタンを押そうとし、彼がゴールした瞬間にストップウォッチが止まった。
「6,7」
先ほどから0,8秒遅くなった。見たところ、スタートダッシュに失敗したとか、こけそうになったとかはない。先ほどと同じように走り、似たようなスピードで50メートルという距離を駆け抜けていった。
「0,8も遅くなるのはおかしくね?」と里中は言った。
「さっき一回走ったから、疲れたんだよ」
「プロみてえなこと言いやがって」ジョーク気味に笑って言った。
「おい、里中。お前、わざと遅く押したとかねえよな?」
「お前がゴールした瞬間に、ストップウォッチが止まるようにしたんだぜ。だから、けっこう正確なタイムだと思う」
そこで、一回目のときにタイムを計測した山川に視線が集中する。見るからに気の弱そうな彼は、怯えたように震える。視線恐怖症的なものかもしれない。
「山川、お前ちゃんと計ったのか?」
「は、計った……よ」
顔から汗をだらだら流している。挙動がなんだか怪しい。
「お前、正直に言えよ」
と、野球部の男子が問い詰めるように言う。
すると――。
「……もしかしたら、ちょっと早く押しちゃったかも、しれない」
「おい、山川!」高橋は鋭い声で怒鳴った。
それ以上、何も言うな。そんな感じである。脅しのような野太い声。ああ、これは何かあるな――僕以外もそう思っただろう。
「お前、なんか隠してるよな」里中は優しい口調で言った。その優しさが、逆に山川を恐怖の谷へと叩きつける。
「ううっ……」
吐け! 吐け! 吐け!
群衆の無言の圧力に耐えかねた山川は、すべてをげろった。
「実は、そのっ、高橋くんに千円を渡されて、50メートル走の測定のときに5秒台が出るように止めろ――って、そう言われたんです」
まさかの賄賂(千円)による、タイム偽装。
衝撃の罪の告白に、1組男子がざわついた。千円で買収されたのかよ!?
「山川、てめえ!」
殴りかかろうとした高橋を、運動部の三人が押さえつける。
「悪いのはお前だろ」
「暴力はよくないぞ」
「高橋、お前どうしてこんなことをやったんだ?」
俯いた高橋は流れそうになっている涙を、懸命に堪えている。泣いたら、きっとそのことを馬鹿にされる。
「足が速かったら……」ぼそぼそと言う。「一目置かれるんじゃなくかと思って……」
それは間違ってはいないけれど、完全に正しいとは言えないんじゃないか?
厳密に言えば、『一目置かれたい』のではなく、『足の速さを自慢したい』あるいは『足の速さでマウントをとりたい』のではないか。
思えば、高橋はマウント気質だったよなあ、と思う。性格もよろしくないので、いじめられているわけではないけれど、クラスのみんなから好かれてはなかった。
こうして、高橋の50メートル走のタイム『5,9』は幻のタイムとなり、体育教師に伝えた正式なタイムは『6,7』となった。
「6,7でも十分速いじゃん」僕は高橋に言った。「僕なんて7,4だよ」
「うるせえ。鈍足野郎が」
「……」
ひどい奴だな。慰めてやったというのに……。
高橋は体育の授業中だというのに、どこかへと去っていった。その目からは涙が流れている。泣きたいのはこっちだよ。ほんと、ひどい奴だ。
「ざまあみろ、って感じだわ」と佐藤が小声で言った。「俺、あいつのこと正直嫌いだったんだよ」
「まあ、僕も好ましくは思ってないね」
「今ので嫌いになっただろ」
「好きか嫌いかで言えば、まあ確かに『嫌い』に傾いたかな」
体育の次の授業は現国だったが、高橋は早退していた。意外とメンタル弱い奴だなあ、と僕は漫画を読みながら思った。
◇
さて。その後の話。
タイム偽装に加担した山川はなんとか許されたけれど、張本人である高橋は許されなかった。喜ばしいことに、我がクラスでは露骨ないじめはない。ただ、高橋に話しかける生徒はいなくなった。山川も高橋とは袂を分かったようだ。
高橋のほうも、誰にも話しかけなかった。僕は自分から積極的に彼に対して話しかけるつもりはなかったが、話しかけられれば普通に答えるつもりだった。多分、高橋はプライドが高く、あの事件以降、自分から話しかけるのは『敗北を認めること』だと考えたのだろう。わけがわからない。
やがて、高橋は学校に来なくなった。
それから、一か月して高橋は学校をやめた。
「なあ、鈴野」と佐藤が話しかけてきた。「高橋さ、学校やめてどうすんだろ?」
「僕は転校するものだと思ったけど」
「あれかねえ? 転校は逃げるようで負けだ、とか思ったんかね?」
「さあ。でも、なんか、気分よくないよね。別にいじめてたとかじゃないけどさ」
「まあ、いじめられてたというか、自ら孤独の道を突き進んだって感じだな」と佐藤。「自ら選んだ道に耐えかねたってやつか……」
「ふうむ」
50メートル走のタイムを偽装して、それが原因となって高校を中退する男――前代未聞なんじゃないかと思う。
高橋が学校をやめてから数日の間、クラス中――いや、学年中でそのことが随分話題になっていたけれど、すぐに飽きられて忘れ去られた。二か月が経った頃には、みんな高橋という生徒がいたことすら、記憶から抜け落ちたんじゃないかな。
◇
高橋のことをすっかり忘れていた僕だったが、あれから三年ほどが経ったある日、佐藤の家でゲームをしているとき、なんとなく付けたテレビのニュース番組に彼が登場していた。……容疑者として。
「おい、鈴野!」
「なんだい?」
「この高橋って容疑者……あの高橋じゃないか?」
三年という月日が経過しているので、顔つきが少し変化しているものの、確かにその写真の高橋容疑者は奴だった。名前も同じで、年齢も僕たちと同じ20歳。
高橋は友人(?)たちとともに、詐欺を行って逮捕された。彼の役柄は、いわゆる受け子というやつだ。
老夫婦の家にスーツ姿で赴いて、現金を受け取ろうとしたところ、たまたま巡回に来ていた警察官とばったり遭遇。高橋は50メートル走自称5秒台の俊足でもって逃げ出したが、追いかけてきた警察官に取り押さえられ、逮捕された。
この警察官、どうやら高校時代は短距離の選手で、50メートル走のタイムは『6,2』だったらしい。もしも高橋が50メートル走5秒台だったなら、おそらく警察から逃れることができただろう。しかし、『自称』5秒台で実際は『6,7』くらいだったから、あえなく逮捕されてしまった。
「この詐欺グループ、オレオレ詐欺以外にもいろんなことをやってたらしいな」佐藤はスマートフォンで調べながら言った。
「へえ。なんだろう? もしかして、50メートルを5秒台で走れる方法教えます、みたいな情報教材売ってたり――」
僕はジョークのつもりだったのだが……。
「あ、それ本当にあった」
ほら、と画面を見せつけてきた。
「マジか」と僕。「高橋はこの情報教材を買うべきだったね」
「だな。そうすれば、少なくとも現行犯逮捕されることはなかったな」
あはははは、と二人で笑った。
高橋たちの詐欺グループのニュースはすぐに終わった。世の中には詐欺師がたくさんいて、日々捕まっているので珍しさはない。センセーショナルなニュースじゃなければ、たくさん報じられないのだ。
「あ、そういえば、実家からスイカが届いたんだけど、食う?」
「いいねえ。いただきますよ」
僕たちはスイカを食べながら、高橋の話をした。その流れで、高校時代の楽しかったこと、辛かったこと、大学受験のことなんかを話した。
すべて、何年も前のことなんだ。時が経つのは早いものだ。
高橋が学校をやめたときのように、彼が捕まったことも、きっとすぐに忘れてしまうんだろうなあ、と思った。
ま、どうでもいいことだから忘れてしまうんだ。
夜になるころには、高橋のことなんてすっかり忘れて、僕たちはお互いの彼女のことを話しながら酒を飲むのだった。
高橋の話題が出ることは、それから二度となかった。