あくまでアクマは良魔にこだわる120 海メン隊
自分はどうも海メン隊が好きだ。
四月上旬に「カメ頭社中」がトサ藩の下部組織「海メン隊」と改称された。
中オカ慎太郎は「陸メン隊」を結成した。
個人の結社でどうにかするのに限界を感じたのだ。
メンバーは変わらないが、トサ藩の庇護が得られ、資金も調達しやすくなった。
そうそう、ここでイワ崎弥太郎という御仁を知った。
この人はもともと地下浪人で、新おこぜ組の主要メンバーである。
新おこぜ組というのは、ヨシ田東洋傘下のエリート集団の俗称だ。
今は海メン隊である自分たちの金づるである。
のちにはミツビシ財閥の創業者になる。
トサ勤王党のことは、今となってはどうにもならん。
少なくとも参政の象二郎は開明派である。
裏切りだと感じる誰かさんもいるだろう、多分。
誰とはいわんが、乙女姉さんである。
先頃より段々のお手紙を下された。
おおせいただいた文に、自分についてこのように思っておられる。
利をむさぼり、天下国家のことを忘れている。
また、お国の姦物役人にだまされている。
右の二条はありがたきお心付けだけれど、及ばずながら天下に志を延べる為だ。
お国より一銭一文の助けを受けず、自分たちを五十人も養おうとしている。
一人につき一年どうしても六十両位はいるものだから、利を求めるしかない。
トサで生まれた人がまた外の国に仕えた場合は、自分にまで二君に仕えるようにいわれ、また女の二夫に仕えるようにいわれる。
お国の為に力を尽すとおおせられるが、これは天下の大議論をする時、このように自身の議論を貫くことができないために浪人をしていた。
そうした状態で、またお国を助けなければいけないものである。
それでお国より出ている人々は、皆自分の元に集まっている。
もうトサからはお構いもなく、楽に稽古をしている。
この頃自分もキョウへ出て、日々国家天下の為、議論し交わっている。
お国の人々は後トー象二郎、福オカ藤次郎、ササ木三四郎、モー利荒次郎。
中オカ慎太郎、この人は自分と同様の人だ。
またモチ月清平、これはずいぶんいい男だ。
中でも後トーは実に同志で、人の魂も志もトサ国中で他にはあるまいと思う。
その他の人々は皆、少しづつは人柄があまりよくはないかな。
清次郎が出てきたことについて、この人にも早々に内達して、兄さんの家に傷はつきはすまいかと相談した。
それは清次郎が、天下の為にお国の事について一家の事を忘れた、となれば兄さんの家には傷はつくまい、ということで安心した。
かれこれの所をお考えになって、姦物役人にだまされたなどとお笑い下さるな。
自分一人で五百人や七百人の人を率いてそれをするより、二十四万石を率いて天下国家のお為にいたす方が、はなはだよい。
これらの所には、乙女姉さんのお心が少しおよばないのではないかと思う。
六月二十四日、乙女姉さん、春猪さん宛ての手紙である。
海メン隊の初仕事で、イヨオオズ藩の蒸気船「いろは丸」を運用する契約をした。
一航海十五日につき五百両の使用契約である。
帆船「タイキョク丸」だけでは大きな商売はできないのだ。
しかし「タイキョク丸」は後トー象二郎が引き受けてくれた。
自分を「海メン隊」隊長とし諸君はそのまま修業できるよう都合をつけてくれた。
これはサイ郷隆盛さんが容堂公に説いてくれたおかげである。
福オカ藤次郎はこのことをお国より直接聞いたようだ。
しかしこの度トサ藩は「いろは丸」を借り受けて、オオサカまですぐに送った。
はからずも四月二十三日夜十一時頃、ビンゴのトモノ浦の近い方ハコノ岬という所で、キ州の船に直横より二度乗りかかられた。
我が船は沈没し、またこれよりナガサキへ帰った。
いずれ血を見ずばなるまい、と思っている。
その後の応接書はサイ郷さんまで送る必要があるから早々にご覧いただきたい。
航海日記の写し書きを送っている間、ご覧いただくべきである。
この航海日記は、ナガサキで議論が済むまでは他人には見せない方がいいと思う。
サイ郷さんに送った応接書は早々に天下の耳に入るから、自然と一戦争する時、他の人が我らの言い分ももっともだと思うだろう。
総じてキ州人は荷物も何にも失っていないのに、自分たちおよび便船人をただトモノ浦に投げ上げ、主用あり急ぐといってナガサキに出ていった。
トモノ浦にい続けよという事か、実にこの怨みの報いを受けさせずにおくものか。
船代の他に千金借りたのは必ず代金のご周旋で収めてくださるようお頼みする。
別紙は航海日記、応接書一冊をサイ郷さんに送ろうと記した。
しかし諸君がご覧の後早々、サイ郷さん、小マツさんなどの本にお回し、ついでに中オカ慎太郎などにもお見せ願いたい。
まただらしなくご一見のあとまでお留め置いては不安なため、ご覧の後はサイ郷さんあたりに早々ご覧いただくべきだ。
実は一戦交えている間、天下の人にはよく知らせておきたいと思う。
四月二十八日、スガ野覚兵衛・直宛ての手紙である。
そうなのだ、また沈没なのである。
しかも今回はキ州という雄藩が相手というわけである。
積み荷も何も保証しないわ、さっさと他へ行ってしまうわ、最悪である。
まず、航海日誌をお互いに持ち出すようにした。
航海日誌や談判記録の保全を再度命令した。
ここまでは手紙で判明すると思う。
証拠保全のため、家に見張りまでつけた。
キョウの出版元に「万国公法」の印刷を依頼した。
まあ国際法で自分の論にハクをつけるためである。
その後自分は天下の人を味方につけるため、ナガサキの繁華街で歌を流行らせた。
「船を沈めたキ州藩は償いをせよ。」
これも手紙の最後にちらっと書いている。
自分の言い分がもっともなので、船長は交渉の席に着かずに逃げ回った。
トサ藩から象二郎を呼び、交渉にあたった。
自分も一緒に応戦した。
とうとう耐えかねたキ州藩は、サツマのゴ代友厚さんに仲介を依頼。
キ州藩は賠償金を支払うことに同意した。
裏話をしておこうか、公正を期すために。
まず、積み荷をそうとう上乗せして賠償金の請求をした。
銃火器三万五千六百三十両や金塊など四万七千八百九十六両を積んでいたとした。
証拠は海の底である。
自分たちには非がないといったな、あれはウソだ。
舷灯を点灯していなかったし、右側通行という原則違反もあったと思う。
十一月七日に賠償金は七万両に減額されたうえでナガサキでトサ藩に支払われた。




