あくまでアクマは良魔にこだわる111 トサ勤王党
自分はどうもトサ勤王党が好きだ。
だからこそ、このところの情勢は全くもって納得がいかない。
容堂公はトサをどうするおつもりなのだろう。
サツマ藩も、にわかにアイズ藩と手を組んで佐幕派に変わった。
自分もこのごろはよほど目立っていて、大フクイ藩によくよく心中を見込んで頼みにしていただく。
今何かやることがある場合は、二、三百人ほどは自分に預けられているので、人数も気ままに使えるようになった。
金子などは少し入るようになったので、十、二十両ぐらいは誠に心やすく使えるようになった。
自分がいつまでも長生きするものとの思い込みは、益体もないことだ。
しかし人並のように中々めったに死なないぞ、死なないぞ。
自分が死ぬ日は天下の大変だから、生きていても役に立たず、いなくとも立たないようにならないと、中々こすいイヤなヤツで死にはしない。
トサの芋ほりともなんともいわれぬ居候に生まれたが、一人の力で天下を動かすべきなのは、これまた天命で決まっていることだ。
こういっても、決して決してつけあがりはせず、ますます棲みひそんで、ドロの中のスズメ貝のように、常に土を鼻の先につけ、砂を頭にかぶっている。
御安心なさってください。
そしてヒラ井収二郎は、誠にむごいむごい。
妹お加尾の嘆きはいかばかりか、一筆、自分の様子など話して聞かせたい。
まだ少しは気遣いもする。
実は六月二十九日の乙女姉さん宛ての手紙にはこのような続きがある。
あとは乙女姉さんのご機嫌を取るための文ばかりで恥ずかしいから伏せる。
どうもオカ上さんとうまくいっていないらしく出家したがっている。
まあ、そんなことよりこれだ。
ショーレン院宮からの令旨つまりは命令書のことだが、トサの藩政改革のためにこれを強引に求めた。
これが容堂公の逆鱗に触れたのだ。
六月九日、ヨシ田東洋暗殺の下手人の探索を命じた。
ヒラ井収二郎さんたち関係者が切腹を余儀なくされた。
ショーレン院宮令旨事件といい、これがトサ勤王党の獄の始まりとなった。
九月二十一日、帰国したタケチさんが投獄される。
翌年二月、オカ田以蔵が捕縛され、拷問の末暗殺などすべてを自白し打ち首。
タケチさんはすべての責を負い翌々年閏五月に切腹。
関係者すべて捕縛、獄死して、トサ勤王党は壊滅した。
以蔵の捕縛と同じタイミングで自分は三十歳になり、トサ藩に前年申請した帰国延期が拒否された。
自分はきな臭い帰国を拒絶して再度の脱藩と相なった。
六月五日には新撰組に襲われ、多くのチョウ州尊攘派志士ら、モチ月亀弥太らが死亡した。
イケ田屋事件として知られているヤツだ。
八月五日、イング国、アメリ国、フランス国、ラン国四カ国艦隊による下セキ砲撃を受ける。
十一月、朝敵となったチョウ州はチョウ州征伐を受け、責任者の三家老が切腹して降伏恭順した。
こうしてチョウ州の尊攘派も勢いを失ってしまった。
去年十月、自分はコウベ海軍塾の塾頭になった。
去年五月から、チョウ州によるカン門海峡の封鎖が続いていた。
二月九日、海舟さんと自分はこの調停のためにナガサキへ出張を行った。
その後クマ本へいった自分は、失意の帰国をしたヨコ井小楠さんを訪ねた。
小楠さんは海舟さんに『海軍問答』を贈り、海軍建設の諸提案をしてくれた。
五月十四日、海舟さんが軍艦奉行に昇進した。
周辺ではこのようにいいことも多かったのだが、総じて佐幕派の持ち直しで、尊攘派には受難の時期となった。
前にいったキョウの禁門の変でチョウ州軍側で参加した安オカ金馬、イケ田屋事件でのモチ月亀弥太らが問題になった。
海舟さんは十月二十二日にエド召還を命ぜられ、十一月十日に軍艦奉行も罷免されてしまった。
海舟さんはサツマ藩城代家老小マツ帯刀に託して、自分ら塾生の庇護を依頼した。
翌年三月十八日自分は三十一歳になったが、とうとうコウベ海軍塾は廃止された。
かの小ノ小町が名歌を詠んでも、よく日照りの順のいい時はうけあい、雨がふらなかった。
あれは北の山がくもってきた所を、内々よくしって詠んでいたからだ。
ニッ田義貞が太刀をおさめて潮が引いたのも、潮時をしっていた事だ。
天下に事をなすものは、腫れ物治療術もよくよく腫れていないときは、針へは膿をつけないものだ。
春猪さんは早くも子ができた、などという人がいた。
いかがと自分がいっていた、といっておやり。
六月二十八日、乙女姉さん宛てにこのような手紙を書いた。
まあ処世術というか自分にとっては死活問題である。
なにしろ、トサ周辺の組織や人材がどんどんなくなっていくのだ。
時節をとらえて時には、自分の理想を柔軟に押し引きして生きねばならない。
おおそうそう、春猪さんに旦那ができたぞ。
カマ田清次郎という御仁だ。
権平の婿養子に入ったそうだ。
春猪さんとの間にすぐに女の子ができたそうだ。
やったー。
これで長年の難問、跡継ぎ問題が解決された。
いやー、困っていたのだ実は。
彼の養子の都合は積年の志願にて、先年も度々申し出ている。
兄が心配のあまりついに立腹するほどの事だから、雅兄もよくご存じのとおりだ。
土佐一国での学問では、所詮土佐一国の論からは出られない。
世界に目を向けて行き来して、さらに大きく目を見開いて、天より与えられて得た知識を広げなければならない。
かねての雅兄のご論として、このお言葉はいまだに自分の耳に残っている。
昨年頃から今日のような問題があることは手紙に書いて兄さんにも出しているので、親類と共に相談してください。
自分は勢いで海外に渡ってしまう事もありうるためなおさら生命の保証もない。
かつまた自分が歳四十になるまで修行したいため、その時には兄上はお歳六十にも及ぶものだ。
家政もごらんなさるには今の内よりできるだけ人をお見立て下さるべきだ。
こういう話もあるはずだから、この文を何度もごらんいただきたい。
今時の武芸修行というのは、元亀天正ころの武芸人のように時々、戦場において実戦の稽古をするようになった。
当時エドにおいても攘夷というようになり、カツ麟太郎殿もこのことは元より幕府から重く命ぜられている。
なお自分らも用事があって、エドよりの書状が八月二十八日に参り、同九日にオオサカを発する予定だ。
右の件についても元より天下の事に比べれば、一家の事は顧みる暇がない。
またすこしも家兄の家の後のことは、念を入れる必要はない。
自分が家に帰らねば養子もできず、家兄にまで大いに心配をかけるとなれば、またまた出奔か死かを選ぶより他ない。
何卒以前のお心に変わりなき時は、養子の都合をおつけくださいますよう。
以前八月十九日、カワラ塚茂太郎宛てにこのような手紙も書いた。
この御仁は権平の妻の弟であり、自分にとっては義兄ということになる。




