あくまでアクマは良魔にこだわる110 イケ内蔵太
自分はどうもイケ内蔵太が好きだ。
うちも近所で、親族とも結構な付き合いがある。
ヤンチャなヤツだが、かわいげがある。
運も強いため、大抵のことはどうにかなる。
さて、内蔵太が一件は今、朝廷の思し召しも貫かず、トサをはじめ諸藩の殿様がた皆々国に帰り、内蔵太が心中に思うようなトサなどない。
世の中のあまり難しくない時は、トサの殿様をはじめエドでもキョウでも、ただヘラヘラと、国家を憂えるの、滑ったのとやかましくいい歩く。
当今に至っていよいよ難しくなってからは、国もとを見つくろうとか、なんとか名分をつけて逃げていき、このごろ将軍さえエドへ帰るような都合となる。
実にこれ。
神州という義理も勢いもなく、孝明天皇陛下をいずれの地へ置くやら、更に納得がいかず、実に恥ずべきことだ。
これは数ならぬ我々が、どうにかして孝明天皇陛下のみ心を休めていただこうとのこと、ご案内の通り。
朝廷というものは、お国よりも父母よりも大事にせにゃならんというのは、決まり事だ。
ご親類をはじめ杉山さんなども、お国を後にし、父母を見捨て、妻子を見捨てて、脱藩するのは大義に当たらない、とのこと。
それは実は当時のヘボクレ役人や、あるいはムチャクチャ親父の我が国びいき我が家びいきであって、男子としての話ではない。
お前方をはじめ内蔵太の奥さんたちも、長刀など降り繰り回しながらヘボクレ議論に同意して、メソメソ泣きだしなどしていてはダメだ。
実に内蔵太を辱めている。
六月十六日、イケ内蔵太の母宛てにこのような手紙を書いた。
ヤツもとうとうキョウにて、脱藩の道を選んでしまったのだ。
自分の脱藩時の思うところも含めて、一気にこのような文を書いた。
尊王の志をこの機会に地元のヤツらにも伝えておこうと思ってね。
まあ他人ごととはとても思えないから、必死で書いた。
しかし、誠になげくべき事は、これだ。
チョウ州にイクサが始まった後月より六度のイクサに日本ははなはだ利が少ない。
あきれはててしまうことは、そのチョウ州で戦った船をエドで修復して、またチョウ州で戦っている。
これ皆、姦吏が夷人と内通いたしているものである。
右の姦吏などは、よほど勢いもあって大勢である。
しかし、良魔は三家の大名と約束をかたくし、同志をつのり、朝廷よりまず神州をたもつの大本をたてる。
それよりエドの同志、旗本や大名その余り段々と心を合わせる。
右にいう姦吏を、一事にイクサいたし打ち殺す。
日本を今一度洗濯いたすべし、との心願である。
この思い付きを大藩にもすこぶる同意していただき何度も使者を内々に下さる。
しかし良魔は少しも支えを求めていない。
実に天下に人物のなき事これを以てしり、お嘆きください。
六月二十九日、乙女姉さん宛てにこのような手紙を書いた。
イケ内蔵太は脱藩後チョウ州の下セキで外国船砲撃の遊撃隊参謀として参加した。
五月にチョウ州藩が攘夷を決行しアメリ国フランス国軍艦と交戦し、敗北した。
これを下セキ戦争と呼ぶ。
その際、幕府が外国の役人と内通し、外国艦船の修理をしている。
実に誰のための幕府なのかという話である。
イケ内蔵太は無事逃げおおせて、今度は七月十七日結成のヤマト天誅組である。
これは、先に脱藩したヨシ村寅太郎の組織で、九月二十七日壊滅してしまった。
これも上手に逃げてチョウ州に保護される。
先日ヤマト国にて、すこしイクサのような事があった。
その中にイケ内蔵太、ヨシ村寅太郎、ヒラ井の従兄弟のイケ田虎之進の弟、水通町の坊主、ウエ田宗児など、先日皆々打ち負けた様子。
これらは皆々将が悪いにつき、キョウより打つ手を諸藩へ仰せつけられたものだ。
皆々どうもイクサの仕方をしらず、ただひと負けに負けた様子。
あわれ、私が少し差し引きをもいたした時は、まだまだ打つ手の勢いはひとかけ合せにて、打ち破ったものをと、あわれに存じる。
秋ごろ、乙女姉さんと春猪さん宛てにこのような手紙を書いた。
翌年七月十九日のキョウの禁門の変でも上手に逃げおおせている。
チョウ州軍の約三千がキョウの御所を目指して進軍し、一日で幕府に敗北した。
この時、コウベ海軍塾の安オカ金馬がチョウ州軍側で参加している。
コイツは後で問題になった。
当時サツマの屋敷にいた。
このころ将軍家がオオサカに参り、チョウ州を征伐するとやっていたけれど、大軍がただ無益に日を費やしたのみで、何の事もなかった。
イケ内蔵太は、この頃八度の戦、段々軍功もあり、この頃チョウ州では遊撃軍の参謀という役職になった。
その勇気で諸軍をはげました事で物見の役を兼ね、一軍四百人の真っ先に進み、内蔵太が馬上にて旗ひと流れ持たされたそうだ。
総じてトサより出ている者は、どこにいても皆大将を致し、またイクサにも一番強く、討ち死にする者が多い。
あわれ、今トサの政治をうまいことやった時は、天下に横行する国になれるのに。
残念である。
西町の内蔵太母はいかが、ただ心配している。
そういえば内蔵太はこの頃、相変わらず一軍四百人の参謀となり、戦場にも鞭をとり、馬上にて見廻りなどしている。
何もない時は、自ら好んで軍艦に乗り組んで稽古している。
勢い盛んであることである。
先日も図らずも会って、いろいろ大いに話した。
昔の西町の騒ぎなどたがいに言い合い、実におもしろい。
かのお方へお伝えください。
時々の事は外よりもお聞きください。
しかし先月、初五月になったチョウ州の下セキという所に参り滞留した。
その節、内蔵太に久しく会わないためたずねた所、それは三日路も外遠い所にいるのでそのままにおいた。
ふと内蔵太は外の用事にて私の宿へ参り、たがいに手を打ち合って笑った。
天なるかな天なるかな、奇妙奇妙。
この頃、内蔵太は一向病気もなく、はなはだ達者だそうだ。
中でも感心な事は、一向うちのことを尋ねず、終日談じているのはただ天下国家の事のみで、実に盛んと云うべきだ。
それよりたがいに、先々の事を誓った。
これより、もうつまらぬイクサを起こすまい、つまらぬ事で死ぬまいと、互いに固く約束した。
おしてお国より出た人に、イクサにて命を落とした者の数は、前後八十名ばかりだが、内蔵太は八、九度も戦場で弾丸矢石を冒しているけれども、手傷もない。
内蔵太は自慢していた。
イクサに臨み敵に合い三、四十間になり、両方より大砲小銃打ち発すると、自分が持っている筒や、左右大砲の車などへ、飛んできて当たる弾の音バチバチ。
その時大抵の人は、敵の銃火が見えると地にひれ伏すそうだ。
内蔵太は論じた。
これほどの近くにて地へ伏しても、弾の飛んでいく速度は速いものだから無益だ、といってよく辛抱し、突っ立ってよく指図していた。
こう内蔵太は自慢していた。
いったい内蔵太は普段やかましく、憎まれ口ばかりいって憎まれている。
けれどイクサになると人がよくなるようで、皆がかわいがるようで、大笑いした。
申し上げる事は千万なれば、まずはこれまで。
夏ごろと秋ごろ乙女姉さんに、九月九日内蔵太家族に、こんな手紙を書いた。
内蔵太の方がなろう主人公っぽいってか、おう、その通りだ。




