あくまでアクマは良魔にこだわる104 剣術修行
自分はどうも剣術修行が好きだ。
エドのツキジにはトサ藩の中屋敷がある。
ちなみにシナ川には下屋敷がある。
ここは海沿いであり海防のかなめの地点である。
中屋敷に自分の居場所を何とか確保し、すぐにミゾ渕さんと外に出た。
相変わらずひどい狭苦しい扱いである。
早急にこのような場所から逃げ出したい。
旅の間にすっかり身体もなまってしまった。
しかし日本最高の都会であるエドの土地には不用心である。
ここでフラフラすると確実にえらいことになる。
ミゾ渕さんについてとぼとぼ歩くしかない。
早くどこかの道場へ行って身体を鍛えなおしたい。
どうも話はついているらしく、そのまま北辰一刀流のゲンブ館に向かっている。
すぐに屋敷に通されて、そこでミゾ渕さんとともに例の身上書を渡した。
記述に自信はない。
しばらく読み進めて、チバ於菟松さんにけげんな顔をされた。
そのまま弟の定吉さんに相手を任すといわれて席を立たれた。
郷士はそもそも於菟松さん、つまりは周作さんには指導してもらえない。
弟の定吉さんやその息子重太郎さんが我々の指導をするようだ。
身分差というのはこういう場合いかんともしがたい。
ゲンブ館の向かいにある定吉さんの道場に自分たちは向かった。
剣術の腕を見られた後、合格点をもらえたようである。
身上書がそうとう不思議だったようで、そこをしつこめに訊かれて面白がられた。
まあ、学問はイヤでもエドでしっかり学びなおせる、といわれた。
どうも読み書きが不如意だと思われているようだ。
ここでまずはしっかり剣術修行に励もう。
そう思ったら、トサを離れた寂しさを紛らせるように打ち込んだ。
佐那子さんがよく相手をしてくれた。
重太郎さんの妹で小太刀の名手である。
チバの鬼小町といえば彼女の通り名である。
自分は乙女姉さんの影響で得意なのは薙刀や長刀である。
乙女姉さんは、そういえばお仁王様という通り名がある。
あと、これは偶然なんだが、彼女も幼名を乙女というらしい。
身上書を見てなんだか縁を感じました、と彼女はいって笑った。
あれ、気の強い、いい女。
ホノカというドラゴンはいつ来るとはいっていなかったよな。
もう来ちゃっているのか。
早い、早すぎるだろ、いくらなんでも。
しかし、そのあと夢を見た。
違います、あのコはアラクネのミユキです。
絡新婦だから、気をつけないと喰われますよ。
ホノカというドラゴンはちょっと怒っていた。
出る予定はなかったのに、緊急事態で仕方なかった、という感じで焦っていた。
その証拠にすぐにブツって夢は不自然に切れた。
頭がいつも以上に傷む。
それにミユキという単語に、なんだかまた寒気が走る。
佐那子さんとは距離を置いた方がいいのかも。
ややこしいことに巻き込まれた可能性が高い。
でもそのあとも剣術修行は彼女とやることが多かった。
薙刀や長刀の対応は、女性の方がいいようだから。
不穏な話はまだある。
例の黒船の話である。
六月三日にペリー提督率いるアメリ国艦隊がウラガ沖に来航した。
エドに来たのが四月ごろだったので、一ケ月後すぐぐらいの話である。
臨時招集され、シナ川の下屋敷の守備任務に就いた。
これは郷士にとっては大変名誉なお役目であり、自分も素直に喜んだ。
家族に送った手紙に、戦になったら異国人の首を打ち取って帰国しますと書いた。
まあ、実際の黒船の迫力には圧倒されたのはナイショだ。
自分があこがれ続けている運送業や廻船業に近づくにはコレだと思った。
あんな豪華な黒船を操って運送業商売をしたらきっと儲かる。
その証拠に我が日本もあれ以来、大わらわで対応に追われている。
アレについている大砲でもぶっ放せば、いうことを聞かざるを得ないだろう。
まあとても郷士ではないものいいだが、当家はサイ谷屋という商売屋である。
自分も含め金の臭いにはめっぽう鋭い。
しかしアレを手にするには、もっとまとまった金が要る。
操縦技術も物資も、何もかもが足りない。
ミゾ渕さんには剣術修行が落ち着いてエドに慣れたら五月塾へ行くといわれた。
佐クマ象山さんに砲術、漢学、蘭学などの学問を学ぶためである。
今エドにはヨシ田松陰というチョウ州の偉い先生もいるようだ。
佐クマ象山さんとも旧知の仲らしい。
頭が痛くなる。
これも海賊王になるためだから我慢が必要である。
結局十二月ごろ、佐クマ象山さんの五月塾に入学した。
実に実りの多い日々を過ごしたが、やはり性には合わない。
攘夷だなんだと騒いでいる学問にうるさい人たちには、申し訳ないが。
今のところ幕府は安泰で、尊王論は机上の空論に思える。
そんなことより、目の前にある黒船を自分たちで作ったり操ってみたりしたい。
そうするには、どれぐらいの資金がいるのだろう。
翌年四月、象山さんはヨシ田松陰先生のアメリ国軍艦密航事件に関係したとして投獄された。
まあ、中を見てみたくなった先生方のお気持ちは痛いほどわかる。
残念な結果になってしまったが。
いろいろ学びきれなくて、もったいないような気がした。
その六月二十三日、一回目のエド遊学を終えトサへ帰国した。
二十歳になっていた。
その後トサでは、ヒネノ道場の師範代になった。
エドの刺激的な生活は、退屈な田舎暮らしに変わってしまった。




