あくまでアクマは良魔にこだわる101 自由
自分はどうも自由が好きだ。
トサのオトコはどうもみなそうであるようだ。
あのヤンチャなイヌイ猪之助まあイタ垣退助のことだが。
のちに自由民権運動の旗手となったようだしな。
まあ冗談はともかく、トサ脱藩の手はずを整えている。
去年の九月十三日にキョウのヒラ井加尾さん宛てに駆け落ちの手紙を送った。
男装の旅装等を整え待っているようにお願いしてしまった。
こりゃ、もう引き返せないだろう。
今年はカワ島猪三郎さんや地組頭の山田さん等に当座の資金を借りた。
どうも兄の権平に脱藩を悟られてしまったらしい。
自分の刀を取り上げられたり、資金を借りられないように親戚中に裏から手を回されたりした。
気持ちは分かるが余計なことをするものである。
乙女姉さんに頼って刀を取り戻したり、兄に家宝の名刀を無心したが断られたり、大変苦労した。
なんでそんなに刀にこだわっているのかって。
もちろん身を守り戦うのに必須だというのもあるんだが、それ以上に資金である。
あれは売ればちょっとした金になるのだ。
簡単に脱藩というが、逃げ回りながら生活するには金が要る。
だからこそ、兄も渋いことをいうし、やるのだ。
サツマ藩藩父、シマ津久光公の率兵上洛の知らせがあった。
サツマ藩の勤王義挙に参加するため、完全に自分は脱藩の決意を固めた。
タケチ半平太率いるトサ勤王党は、あくまで藩内の決起を促すため残った。
いざとなると、意外と煮え切らないヤツである。
三月二十四日、自分はサタ村惣之丞とともに脱藩を果たした。
最初自分は、サタ村さんとチョウ州下セキの豪商シラ石正一郎宅を訪ねた。
一足先に脱藩していたヨシ村寅太郎とは入れ違ってしまった。
その後サタ村さんと別れて、サツマ藩の動静を探るべく九州にいた。
その時この報を受けて、仰天してしまった。
実際には勤王義挙ではなく幕政改革を進めるための率兵上洛であった。
四月二十三日にキョウのテラ田屋騒動が起きた。
久光公によりサツマ藩の尊攘派は粛清されてしまった。
結構な血なまぐささであったらしい。
話が違う、違い過ぎる。
やはり、仲の悪かった斉彬公とは違うらしい。
兄のやることなすこと気にくわないのだろう。
自分には気持ちがわかるような気がした。
自分の脱藩の翌日には、兄の収二郎が加尾さんに手紙で忠告したようだ。
脱藩した良魔の手はずに乗るな、と。
加尾さんは結構な手間をかけ健気に男装の旅装等を整え待ってくれていたらしい。
いい子だ、いい子過ぎる。
なんで、そんなことを知っているかって。
例の夢のせいに決まっているだろう。
ホノカというドラゴンに全力で叱られましたよ、ええ。
ミツバチのウズメさんにこれ以上かわいそうなことをするな。
前世でも、わりにミツバチのウズメさんはそんな扱いだったそうだ。
おかげでキョウでの予定が狂ってしまった。
もちろんテラ田屋のお登勢さんに会いにいったりはできない。
大変だろうけど手伝うこともできない。
落ち着いてから、挨拶に行くのが関の山だろう。
七月にオオサカに潜伏し、資金に苦労して刀の縁頭を売り飛ばした。
刀の柄に手拭いを巻きつけて、しばらくしのぐしかなかった。
八月にはエドに到着して、オケ町チバ道場に寄宿した。
結局、エドのオケ町チバ道場が一番い慣れた場所である。
まあ、こっちにはアラクネのミユキといわれた佐那子さんがいるんだけどな。
婚約したことになっているので、非常に気まずい。
脱藩した今、重太郎さんに頼んで、いないことにしてもらうほかない。
ああそうそう、四月八日にタケチさんのトサ勤王党がヨシ田東洋を暗殺した。
脱藩した自分にとってはあっちはあっちで頑張ってるんだなぐらいの感覚である。
わかっていただきたいのだが、気持ちが自由なのである。
藩を離れて浮き草暮らしの不安はあるのだがそれより自由になった喜びが大きい。
そう思っていたんだがね。
どうも地元では自分がヨシ田東洋を暗殺したと疑われているらしい。
モチ月亀弥太の兄の手紙で知った。
タイミングがたまたま一致しているからな、厄介な。
そもそも何のために脱藩したんだっけな。
サタ元とサタ村で、お互いに騙されたと思ってそうだ。
堕天使同士、恨みっこなしでいこうぜ。
この言葉遊びは、出来すぎでおそろしいな。
トサの在エド藩士やチョウ州藩士に会って静かに過ごした。
有名なク坂玄瑞さんやタカ杉晋作さんとかな。
ただこのままだといろいろ、じり貧である。
何らかの抜本的な手を考えなければならない。
そうそう、やっと佐クマ象山さんのマツヨ藩での蟄居がとかれたそうだ。
あの先生は、フクイ藩藩医のち御書院番だったハシ元左内さんの師でもある。
ちなみにハシ元左内さんは、安政の大獄にて斬首されている。
フクイ藩といえば、藩父で幕府の政事総裁職のマツ平春嶽公だ。
この方も、身分を問わず登用して英明で知られた方である。
トサ藩容堂公とも、一バシ慶喜公派で一緒だった。
最も自分には何のつながりもなく、しいていえば象山さんぐらい。
最後の弟子として、話をしに行ってみるか。
当座の資金ぐらいは融通してくれるやもしれん。
だめかなあ。
もっと必死に砲術や算術の訓練をすればよかったかな。
そういえば、フクイ藩には利リス公正という主計係の天才がいるらしい。
春嶽公が幕府の政事総裁職で、側用人を勤めているんだったか。
今更悔いても後の祭りである。
頑張ればよかったといっても、あの時頑張らなかったのは自分だ。
向き不向きがあると自分で思っていたではないか。
「ブックマーク」や「評価」をしていただけると嬉しいです
少しでも面白い、続きが早く読みたい!と思いましたら、
広告↓にある☆☆☆☆☆を★★★★★をつける評価があります
ブクマ、評価は作者の励みになります!
ぜひともお願いします!




