雪中の悪夢
屈強な男が一人、暗く雪深い森の中を走る。
引きつった口元から、白い吐息は途切れることが無い。
足元を照らす光は無く、木の根や積雪に足を取られて転倒する危険もある。それなのに彼は、何かに追い立てられているかのように走り続ける。
彼は何者で、なぜここでこんなことをしているのか。
それを知るには少し、半年ほど時間を遡る必要がある。
1939年の8月、ソ連とドイツの間で一つの条約が締結された。
独ソ不可侵条約。
公表された内容は「相互不可侵と中立義務」だが、それ以外に秘密議定書として双方の縄張りの線引きが為されている。同年9月における両国のポーランド侵攻はこれによって行われた。
同条約においてソ連の勢力圏とされた、バルト三国とフィンランド。これらの国々にはソ連からの圧力がかかり始める。
ソ連の主な要求は、独立の承認と軍の進駐。
バルト三国はこれらを受け入れたが、フィンランドだけはこれに応じなかった。
フィンランドはロシア帝国の一部だったためか、その国境からロシア第二の大都市レニングラードまでの距離が32キロメートルしかない。
国家の安全保障という点において、フィンランドに中立を許すというのは大きな問題だったのだ。
それ故か、最初の要求を拒否したフィンランドに対してソ連が突きつけたのは、さらに苛烈な要求だった。
より多くの領土の割譲、対ソ連用防衛線の撤去、鉄道の使用権。代償として与えられる土地は、未開の原生林。
フィンランドの首脳は、一定の交渉の末にこの要求も拒否した。交渉決裂が即開戦に結びつくとは考えていなかったからだ。
その危険を認識している者もいたが、彼らの意見が受け入れられる事はなかった。
1939年11月26日、この日「フィンランドからの砲撃によって」ソ連軍将兵に死傷者が出たとされている。
28日、ソ連は不可侵条約の破棄を一方的に通告する。その翌日には国交断絶。さらに翌日、国境沿いに展開したソ連軍砲兵の射撃によって、戦端が開かれる。
この時点で動員されたソ連側の戦力は、おおよそ兵士45万。
フィンランド側も、これを危惧して動員は進めていた。将兵の数はおよそ30万。ソ連側の半分とまではいかない人数だが、フィンランド側はほぼ限界まで動員をかけた数である一方、ソ連にはまだ予備兵力がある。
総人口からして、ソ連がおよそ1億に対してフィンランドは370万。文字通りに桁違いの差があったのだ。
用意できる物資にも、両国の差は表れている。ソ連側は数千の砲と戦車を準備していたのに対し、フィンランドは軍服すら全員に行き渡っていなかった。
翌12月1日、前日に占領された街テリヨキにて、ソ連へ亡命していたフィンランドの社会党員が傀儡政権を樹立。ソ連は、こちらこそフィンランドを代表する正統な政権であると宣言する。
ソ連の要求を受け入れたバルト三国は、後に国内の共産党勢力によってソ連に併合される。血が多く流れるか、少なく済むか。選択肢による違いはそれだけだったのかもしれない。
ソ連側には「この戦争は三日で終わる」と考えている者すらいたというこの侵攻は、途中までは順調にいったものの、いくつかの障害により妨げられることとなった。
一つ目はフィンランドの険しい地形。
フィンランドの、フィンランド人自身による呼び名はスオミ。「湖沼の国」という意味の言葉という説もあるこの名の通り、大量に存在する湖沼。森ばかりで整備された道路の少ない国土。これらがソ連軍の移動を阻んだ。
二つ目は、後退したフィンランド軍の置き土産。
敗走し前線を下げ続けたフィンランド軍。彼らは進軍してきたソ連兵士が触れるであろう全てのものに爆弾を仕掛けていた。
休息できる建物は焼き、水を補給できる井戸は埋め、徹底的な焦土戦術を実行した。
三つ目、フィンランド軍の歩兵による奇襲。
フィンランドの地形は険しく、そこで育ったフィンランドの人間は全員がスキーに熟達している。中でも狩猟をしているものは、「雪中で気配を隠して発砲し、標的を撃つ」ことにまで長けていた。
そんな彼らが、雪に紛れる白い迷彩に身を包み攻撃を仕掛けてくる。ソ連南部の生まれで、雪に慣れない兵士が少なからず含まれていたソ連側は、彼らを捕捉できなかった。
四つ目、ソ連側の準備不足・見通しの甘さ。
「この戦争は三日で終わる」と考える者がいたというほど、ソ連はこの戦争の趨勢に楽観的だった。戦力、国力差が歴然だったからだ。
短期間で決着がつくという見通しから、ソ連側は膨大な戦力を準備したものの「寒さ」と「地形の険しさ」への備えが不足していた。銃や車両は凍結により機能不全を起こし、フィンランドの寒さに耐えるには不十分な服装が兵の体力を奪った。
またこの頃のソ連は、大粛清により少なくない数の指揮官が死亡しており、兵力は多くともそれを運用する指揮官が不足している状態だった。
二つ目、三つ目の要因による被害は、この要因によって増幅されることとなる。戦闘どころか身動き、生存すら危うい状態。ソ連の兵士はいつどこから来るかも分からない襲撃に怯えながら、国土やその気候も含めた「フィンランド」という国そのものに命を奪われていったのだ。
この戦争でフィンランド側が使用した戦術に「モッティ戦術」と呼ばれるものがある。
森の中に切り開かれた細い道を、長い列になって進軍するソ連軍。その長蛇の列をぶつ切りにするように、森の中に伏せていたフィンランド軍がこれに攻撃を仕掛ける。
「全体としてははるかに多い軍勢を、奇襲によって小さな塊に分断・包囲して殲滅する」というのがこの「モッティ戦術」。
これを受けたソ連軍の中には、反撃のため、あるいは逃走のために森の中へ入っていったものがいる。冒頭の男も、その一人。
彼の頭には、何があるだろうか。
甘い認識で戦争準備をした上層部への呪詛?
異郷で、あるいはただ単に死ぬことへの恐怖?
彼は、同じ選択をした者の中では幸運だった。
背後から放たれた一発の銃弾によって、あらゆる苦しみから解放されたからだ。
彼よりもツキのなかった者はどうなったか。
フィンランド軍による追撃が無いということは、そこは土地に慣れたフィンランドの者でも危険を感じる場所だということだ。
そういった場所に足を踏み入れた者たちは、生命の限界まで森の中を彷徨い、最大限の苦しみを味わいながらゆっくりと斃れていった。
彼らの遺体は未だに森の中にあるという。
「ピュロスの勝利」という言葉がある。
戦いには勝ったが損害が大きく、得るものが少ない勝利を指す言葉だ。
冬戦争は、国力の限界により戦争の遂行が困難となったフィンランドと、当初の想定を遥かに超える損害を受けたソ連との間で利害が一致したことにより「フィンランドの領土割譲」という形で終結した。
これは、領土を得られたソ連の勝利だろうか。
フィンランドは領土を割譲することとなったが、独立は維持することができた。
一方ソ連は領土の獲得に成功したものの、「自国が大粛清の影響によりどれほど弱体化しているか」ということを全世界に示してしまった。
この弱体ぶりを見たヒトラーが、対ソ連の戦争計画を始めたと言われている。
ソ連が第二次世界大戦で払った犠牲は、およそ2660万人で最も多い。大戦全体での犠牲者数が6000万~8000万と言われているので、およそ3分の1から4分の1を占めている。
結果を見ればソ連にとって、新たな災厄を招くピュロスの勝利だっただろう。
冬戦争自体も悲惨で激しい戦争ではあるが、後に続く戦いに比べると「前哨戦」という言葉が相応しい。
熱く激しい、世界を巻き込む闘争の夏はこれから訪れるのだ。
何十年も前に、北欧に残された人類の「あしあと」。
それとはまた別の、もう少し近い「あしあと」。
2014年、クリミア。
ロシアの土地の帰属についての意識が分かる出来事。
1929年、2008年。
どちらも、様々な均衡が崩れるきっかけとなり得る出来事が起こった年。
生きるということは見通せない闇の中へ歩いていくことに等しい。一寸先は闇。しかし、後ろは振り返ることができる。自分自身も、それ以外の誰かのものも、「あしあと」を確かめることはできる。
これから私たちが歩くのは、いつか来た道?
それとも、違う道?
闇の中、歩きたいと思う道があるのなら。
誰かの残した「あしあと」が、その道を教えてくれるはず。
「あしあと」になってしまった誰かのためにも、振り返ってみてほしい。
そうするために、残されているはずだから。