第2節 Le matin:詩凪の現在
はあ、と溜め息が聞こえて、微睡んでいた頭が急に覚醒した。背筋が凍る。これはまずい。いい加減起きないと大変なことに――。
「詩凪! 起きなさい!」
ばさり、と音がして、身体の上に掛かっていた重みがなくなる。温まっていた身体が冷たい空気に晒されて、詩凪は布団の上に縮こまった。
「ひゃあぁ……さむいっ!」
悲鳴をあげながら、ベッドの傍らに仁王立ちするキキを睨みあげる。
「いきなり布団を剥ぐなんて、ひどい!」
四月に入って暖かくなってきたとはいえ、朝はまだまだ寒いのだ。布団の温もりは非常に恋しく、それが取り払われてしまったときの衝撃はひどく大きい。確かに目は覚めるけれど、もう少し穏やかな起こし方のほうが良い、と贅沢にも詩凪は思ってしまう。
だが、キキの方はというと、詩凪の抗議もなんのその。銀縁眼鏡の向こうで瞳を細めて、冷たく詩凪に言い放つ。
「さっさと起きないからよ」
「うー……」
ごもっともで、返す言葉がない。きっと布団を剥ぐまで何度も声を掛けてくれていたに違いないのだ。それで起きない詩凪が悪い。
「ほら、早く着替える」
「はーい……」
キキに急かされながら、ベッドを下りる。鏡台前のスツールの上を見てみると、そこには綺麗に折り畳まれたシャツと靴下が置かれていた。こうして準備をしていてくれる辺り、なんだかんだキキは詩凪に甘い。
「朝食できてるんだから、早めにね」
そう言い残して、キキは先に部屋を出ていった。詩凪はのそのそと着替え出す。寝間着のボタンを外して脱いでベッドの上に放り投げ、制服に着替える。
白いシャツを羽織り、その上にジャケットとスカート。暗紅色の生地が制服の基本色。ジャケットは濃淡で作ったストライプ。スカートは白い縁の入った紺のチェックと、学生向けにしては結構責めたデザイン。結構派手に思えて、入学当初、詩凪は気後れしていたのだが、おしゃれしたい年頃の女の子たちにはかなり人気が高いらしい。多額の寄付金を求めてくる私立高校であるのにも関わらず、学区内での競争率はわりと高かった。
寝乱れても真っ直ぐさを保つ髪にブラシを入れて、右耳の後ろの一束を三つ編みに。左耳の後ろの毛束にも三つ編みを作って、首もとに大きな紺のリボンをつけ、学校指定の紺の靴下を履いて、赤庭市の私立紫光川高校の生徒である詩凪が出来上がる。
机の上の鞄を開き、忘れ物がないのを確認して、ようやく食堂へと下りていった。
「おはようございます、お嬢様」
食堂の扉を開ければ、直ちに執事の間宮が挨拶をする。執事服の彼は、娘と一緒で隙がない。
「おはよう、間宮」
挨拶をして、彼の立つ詩凪の席を見てみれば、すでに朝食が配膳されていた。キキの詩凪起床報告から、計算して準備されているのだろう。味噌汁も白米も湯気が立っている。
ほかほかのご飯に嬉しくなり、顔をほころばせながら席に着く。そして、向かいに座り、すでに食事を始めていた凌時にも朝の挨拶をした。
「おはよう、凌時さん」
「やっと起きたか、ねぼすけ」
すっかり遠慮のなくなった凌時の言葉に、詩凪は鼻白んだ。彼がこの家に来てから三週間ほど。この間に〝詩凪は寝起きが悪い〟としっかり認知されてしまったらしい。恥ずかしさに顔から火が噴き出しそうだ。
とはいえ、今朝起きられなかったのには、理由はある。
「昨日はあんなに遅くなったのに、みんなどうして起きられるの?」
昨晩もまた、〈ルルー異録〉のページによる怪異現象があったので、詩凪たちは揃って真夜中に市街地へと出ていたのだ。就寝する頃にはもう日を跨いでいた。だからなかなか起きられなかったのだが……同じ条件だったはずなのに、凌時もキキもきちんと起きられたのは、いったいどういう魔法だろう?
「自分で起きようとしないからだろ」
ぐさり、と再び凌時の言葉が胸に突き刺さる。
「……それはあるかも」
「じゃあ、明日から起こしにいかないから。自分で頑張ってね」
お茶を運んできたのと一緒にキキが言い残していく。冗談と思いたいが、彼女は有言実行の人だ。本当に起こしに来ないだろう。
「あ、うん……頑張ります」
既に立ち去った相手に不要だと知りつつも返事をしてしまい、何とも言えない気まずさに居心地の悪さを感じた詩凪は身を縮ませた。
そんな様子を見て、凌時は笑う。
「どっちが主かわかんないな」
やはり返す言葉がなく、詩凪は口を尖らせて、ようやく箸を手に取った。
四角い塗り物のお盆の上に並んだ朝食。白いご飯に、味付海苔。鰆の焼き物に根菜の煮物、蕪の酢漬けに麩の味噌汁と、おまけのりんご二切れ。
詩凪に朝食に和洋のこだわりがなかったこともあって、これまでは料理担当であるキキの母菊恵のその日の気分で決められていた穂稀家の朝食だが、ここ最近凌時が希望したこともあって、和食が続いている。
贅沢さがある分、手軽さに欠ける食事を、時間を気にしながら詰め込んでいると、食器も片付けてのんびりお茶を飲んでいた凌時がふと顔を上げた。
「そうだ、お前、本の修理できるんだよな?」
鰆を摘まむのに夢中になっていた詩凪は、箸を止めて頷いた。
「俺の魔書、昨晩ちょっと壊れちまったみたいで。直してもらえると助かる」
「いいよ。帰ってからで良かったら」
魔書を使って戦う凌時の本が壊れているとあっては、詩凪たちにとっても問題だ。戦えない詩凪の代わりに戦ってもらっているというのだから、これくらいはお安い御用というもの。
「頼むわ。って言っても、今日俺はバイトあるから、夜になるんだけど」
「うん、分かった」
それから朝食を食べ終えて。詩凪の方はお茶をゆっくり飲んでいる間もなく、出掛ける時間となっていた。下膳を待たずに鞄を引っ付かんで立ち上がる。
凌時もまた、大学へ向かう時間なのか、立ち上がった。
「それじゃあ、行ってきます」
片付けをしてくれる間宮一家に声を掛け、凌時と連れ立って詩凪は家を出た。
穂稀邸は、青篠市の郊外にある一応高級住宅街の中にある。一方、詩凪の通う高校や凌時の通う大学があるのは、隣の市の赤庭市の中心部。直線距離でも十五キロの距離がある。
そんな彼女たちの通学方法は、盆地内をくの字に走る電車だ。
住宅街のある丘を下ったところにある駅から四両編成の電車に乗る。通勤通学時間であるためそこそこ混んではいたが、ボックス席が一つ空いていたため、詩凪と凌時はそこに向かい合って座った。
カタンカタン、と音をたてながら、電車は小さな道路を並走する。流れていく家や商店を眺めながら、詩凪は凌時に話し掛けた。
「凌時さん、大学はどう?」
「さあな。まだ分かんね。今週ずっとガイダンスばかりで、全然授業なんてやってないからな」
大学の講義は、一科目全十五回を約半年掛けて行われる。今週はその記念すべき一回目が行われるというのだが、どの講義に出ても、授業計画を配布され、成績の付け方を説明するだけで、ものの三十分で終わってしまうのだという。
「なんのためにこんな重い荷物持ってんだか、分かんないよなぁ」
そうぼやきながら、膝の上の鞄を示す。登山に持っていくような大容量のリュックサックは、パンパンに詰められている。聞けば、教科書は全てハードカバーなのだそう。それを毎日三、四冊は持ち歩いている。加えてノート類や筆記用具なども持ち歩いているのだから、大荷物だ。
高校生も教科書の他、参考書や問題集をたくさん持たされるが、まだ薄いものだし、最悪こっそりと自分の机の中に置いていけば良いので、詩凪の荷物はまだ軽い方だ。
「詩凪は?」
「私は、いつも通り。数学とか理科系科目が減ったみたいだから、そこはラッキーかな」
高校一年の終わり頃、詩凪は文系理系の選択を迫られた。文章を読むのが得意な上、世界中の魔書に触れているお陰で読むだけなら五か国くらいの言語が分かることもあって、選んだのは迷わず文系。数字いじりが苦手なのもある。
「文系のほうが大変だけどなー」
薬学部に通う凌時は、歴史や政経などの社会的科目が苦手だったらしい。大学はもう専門科目が基本となり、選択さえしなければ社会科学には縁がないので、彼もそういった点で詩凪と同じように清々しているようだ。
それから話は、文系・理系科目の何処が良いのだ、というお決まりの流れとなり。色々と受け答えている間に、どうして自分は文系科目が得意なのだろう、と思い始めた。というのも、魔術はどちらかと言えば、算術や科学に関わりがあるからだ。魔術は現代科学とは違った法則で成り立つので必ずしもイコールではないのだが、科学の知識があれば魔術の役に立つ。そう考える魔術師は結構多い。
その風潮であるにも関わらず、詩凪は数学が不得意だ。理科系科目はそれほどでもないが、計算式となると苦手意識が出てくる。
何故だろうか。
「父様も言語学専攻だったそうだし……やっぱり遺伝なのかな」
因みに、父方の叔母も語学専攻。今は翻訳家をやっている。その辺りからしてやはり、穂稀は文系気質なのだろう、と詩凪は結論づけた。
「……ずっと気になってたんだけどさ」
なんとなく気まずそうに視線を逸らしながら、凌時は尋ねる。
「詩凪って、親亡くしてから、保護者ってどうなってんの?」
ああ、と詩凪は思い出す。そういえば、凌時に仕事の話はしたのだが、穂稀の家の事情はあまり話していなかった。もちろん両親を失ったことは伝えてある。けれど詩凪は未成年――法的にも保護者が必要な年齢だ。それなのに、使用人がいるとはいえ、穂稀家の人間としては詩凪一人しか家にいないものだから、その辺り疑問に思っていたらしい。
けれど、詩凪に気を遣って訊けなかったのだ。どうしても両親の死に触れることになってしまうから。
やっぱり好い人だ、と心の中で思いつつ、詩凪は自身の状況を説明する。
「今は、叔母さん――お父さんの妹の百合子さんが、私の後見人。ていっても、叔母さんは仕事で海外にいるのがほとんどだから、間宮たちに面倒見てもらっているって感じなんだけど」
件の翻訳家の叔母だ。電話やメールでなく、直接本人と打ち合わせることを心情としているからか、海外のあちこち転々と飛び回っていて、穂稀の家に帰ってくることが稀だった。
「どんな人なんだ?」
「うーん……破天荒、ていうのかな。家のことにあまり興味なくて、思い立ったらすぐに行動って感じで」
両親が健在の時も、小姑として穂稀邸で暮らしていたのだが、何の前触れもなく急に家を出ていって、かと思えば連絡もなく帰って来て、と神出鬼没と呼ぶに相応しい叔母だった。
「帰ってくると、いつも変なお土産ばかり買ってきて」
父はもはや諦観の念を抱いていて好きにさせていたのだが、うるさかったのは実は母の方。帰ってくる度、あまり心配させないで、と目を潤ませて言うものだから、叔母は毎度ばつが悪そうな顔をして、お詫びの土産物を渡す――という光景がいつも繰り広げられていた。
詩凪にもいつも何か買ってきてくれている。それは、両親が亡くなってからも変わらない。むしろ、最近の方がますます奇抜なラインナップになりつつあって、扱いに困った間宮やキキがいつも困り顔をしている。せめてお菓子にしてくれれば良いのに、といつもキキが密かに溢している。
そんなエピソードを面白おかしく話している間、凌時はただ黙って詩凪の話を聴いていた。柾が浮かべるのと似たような穏やかな微笑をその顔に浮かべて。
いつもは粗暴なところばかりが見えているので、少しどきりとした。
「良かったな、良い叔母さんで」
柔らかい声で、そう言う。なんだか耳に心地よい声だった。思わずぼうっとしてしまう。
そういう優しい一面もあるんだな、とぼんやり思いながら、うん、とだけ詩凪は応えた。