第2節 つかの間の戯曲
「〈アトロポスの鋏〉、でしたか」
自室で机の前に座って携帯電話を見ていた柾は、突如かけられた声に顔を上げた。振り向いてみれば、いつ入ってきたのか、藍がセピア色の部屋の中に立っている。
「霧沢の本家レジェ家の持つ触媒――〈ルルー異録〉の町を世界から切り離した鋏、というのは」
「篠庭の外のことだというのに、ずいぶんと詳しいね」
「書物に地域性も何もありませんから。それに、霧沢家は古くから篠庭に属している」
だからよく知るのだ、と彼は言う。
相変わらず薄気味悪い、と柾は思う。昔からこの地に棲み、術士やら魔術師やらと関わってきた存在。彼はその遣いのようなものであるという。主は土着の神のようなものらしいが、この地を守護するわけでもなく、ただ居座ってちょっかいを出すだけなので、有り様としては妖怪や地縛霊と大差ないだろう。
「何故、今〈鋏〉の話を?」
「盗み聞きしていたの。相変わらず趣味が悪いね」
パタン、と手帳型のケースを閉じると、椅子を回転させて身体ごと藍のほうを向いた。やり残したこと――一枚だけ欠けたページの回収に向かうには、まだ少しばかり時間があった。それまでこの妖怪の話に付き合っても良いかという気分になったのである。
「昔、レジェ家はルルーの町を切り離した。彼らが代々受け継ぐ触媒、運命を断ち切る〈アトロポスの鋏〉によって」
町を切り離す直前、レジェは執筆者から〈ルルー異録〉を受け取った。〈異録〉の所有権はしばらくレジェにあり、彼の一族によって保管されていたのだと言う。
「ある時、〈異録〉とともに、レジェ家の一人娘がこの国に来た。彼女は紆余曲折あって、当時の霧沢当主と結婚、〈異録〉は奇本蒐集を行っていた穂稀の手に渡った」
「そちらはわりと円満だったという話です。なのに、どうして今になって〈グランギニョール〉は〈異録〉に執心を?」
「大した理由じゃないよ。単純に〈鋏〉が手に入らなかったからさ」
当時のレジェ家当主は、本来娘に受け継がせるはずの〈アトロポスの鋏〉を、分家から引き入れた養子に渡したという。理由は、唯一の子が女であったことにあるとも言われているし、娘が異国に留まったことにあるとも言われている。
「本当は、高祖母のほうから継承を断ったって話だけど」
「有り得ますね。彼女はここでの生活を気に入っていたようでしたから。生家のことをあまり好いているようではありませんでしたし」
柾は眉根を寄せる。伝聞調でなく、まるで本人から直接聴いたかのような発言だ。藍の得体の知れなさにますます拍車が掛かるというものである。
「でも、父さんは納得できなかった。レジェ家が霧沢を不当に扱った所為だと思った。だから、代わりのものを求めた」
それが〈ルルー異録〉。お隣さんが持っていて、しかももしかすると霧沢が所持していたかもしれない魔書。
柾の父は、〈鋏〉も〈異録〉も正当に保有できたかもしれないその二品が、どちらも自らの手元に置かれていないことが非常に気に入らなかった。不当だ、とも感じていたようだった。
「〝封印された魔書の解放〟……そんなの大義名分さ。本当はただ、力が欲しかっただけ」
だが、〈異録〉に限らず魔書から力を得ようとしていた点は事実なので、あながち外れているわけでもないが。
「おかしいですね」
部屋の真ん中で、畏まった体勢で立っていた藍は、ふふふ、と口元を歪めた。
「貴方は、関心がないようだ」
〈グランギニョール〉の頭目は柾なのに、と藍は指摘する。
「さて、どうだろうね」
柾は薄く笑って、鳴動した携帯電話を見た。なにとなしに眺めると、端末を握りしめて椅子から立ち上がる。
「……そろそろ時間だ。行かないと」
押し掛けてきた客人の前をすり抜け、自室の扉の前に立つ。ドアノブに手を掛けたところで、柾は僅かに振り向いて見せた。
「いよいよ最高潮だ。せいぜい楽しめよ」
□ □ □
「まさか君に見通されるなんてね。少し悔しいな」
柾はいつもと変わらず、なに食わぬ顔で穂稀の談話室に侵入した。その後ろには、〈グランギニョール〉のフランセットにノエ、それに柾の兄の榊までがいる。
腰を浮かせた凌時は警戒心を露にし、キキは詩凪を立たせ、自身の後ろに下がらせた。
「行動が早いな。隠れ家と離れているから、もう少し掛かると思ってたんだが」
皮肉げに凌時は柾に話し掛けた。襲撃を予想していたのか、用意されていた魔書を片手にし、すでに臨戦態勢を取っている。
「なんて言ったって、僕の家は隣だからね。その気になればいつでも来れる」
同じく皮肉げ柾が返す。
いつも言い争いをしていた二人だが、今回は普段と違って殺伐とした空気が流れていた。まさに一触即発、今にも火花が飛び散りそうである。
ここまで険悪な二人ははじめてだ。詩凪は身震いする。
しかし、そんな空気などものともせず、榊は柾の前に進み出て、凌時との間に割って入った。二人を止めるためではないのは、言うまでもないだろう。
「さて、詩凪。そのページを持って、こちらに来てもらおう」
まるで支配者のような榊の振る舞いに、柾と凌時から詩凪の意識が逸れた。
「……榊さんも、関係者だったんですね」
キキの背後から睨み上げたビジネススーツ姿の男性に、詩凪は怒りを覚える。いつ彼の詩凪への苦言は、なんのためのものだったのか。柾が〈グランギニョール〉なんてやっているのは、もしかすると榊の所為ではないのか。
以前は、詩凪が榊から柾を取り上げたような気がしていたが、もしかすると逆ではないのか。彼が柾に無理を強いたから、柾は詩凪を裏切って――。
「相変わらず子供じみた考えをしているようだな、詩凪」
蔑んだ視線とともに投げつけられた言葉に、我に返る。頭から水を浴びせられた気分だ。まだ柾が敵だと割り切れていない自分の甘さを自覚し、気を引き締める。
「〈グランギニョール〉は父のものだと柾から聞かなかったのか? こいつらはもともと霧沢家のための組織だ」
他人の家であるのにも関わらず、四角い眼鏡を光らせて尊大に振る舞う榊は、詩凪をせせら笑うと背後のノエとフランセットを示した。二人は何も言わず、能面のように無表情。
霧沢家当主の前だからだろうか。フランセットはともかく、ノエが便乗してこないのは珍しい。
「そして、その霧沢家のために、〈異録〉が必要なんだ。さあ、詩凪。そのページを持って、こちらにおいで」
おいで、と猫なで声で言われる。しかし、榊の言葉で自分の甘さを自覚した詩凪は、もう希望にすがることはしない。
詩凪は榊から視線を逸らし、柾を睨みながら一歩後ろに下がった。キキや凌時に任せて逃げるためではなく、行く気はない、という意思表示のために。
周囲にはどう見えたかは知らないが、少なくとも柾には通じたようで、彼は少し驚いた表情をしていた。しかし、すぐに笑みを取り戻して、
「抵抗すると、間宮がどうなるか分からないよ?」
両手を拘束していた間宮の首筋に、裁断鋏を突きつけた。
「やめて!」
叫ぶが、柾は涼しい顔をしている。
詩凪以外の人間に向ける――これまで一度たりと詩凪には向けられることのなかった、酷薄な表情。
「君に関しては例外だったけど、僕はあまり気の長い方ではないんだ。早くした方がいいよ」
向けられる言葉にも詩凪を気遣うものはなく、ただその手に持つ鋏のように、冷たい鋭さばかりがあるだけだった。
「お嬢様、私には構わず!」
「黙ってろ」
主を気遣う間宮の言葉を、柾は冷ややかに切って捨てる。
これが、霧沢柾なのだと、詩凪はようやく理解した。詩凪以外の他人に見せていた本来の〝柾〟の姿がこれなのだ。
がたがたと震え、足が動かない。冷静であるべきだと分かっているのに、こうして柾に悪意を向けられている事実を受け止めきれない。
――何故、今まで気づかなかったのだろう。隣で何度も見ていたはずなのに。
自分がずっと幻を見ていたような気分になる。
いつも詩凪に優しく、けれどたまにすがるような目を向けて。そんなとき、彼は詩凪のことをどう思っていたのだろう。
その悪意を想像してしまって、身体の震えが止まらない。
緊迫した空気の中で、ぽつりと柾が言葉を落とす。
「……やっぱり駄目か」
はあーあ、と大きなため息を吐いて、柾は間宮の首筋から鋏を離した。持ち手の輪に指をひっかけて、退屈そうにくるくると風車のように鋏を回す。
その場にいた誰もが呆気に取られた。榊も、〈グランギニョール〉の二人も、例外なく。
「……おい、コラ」
這うような低い声に振り返ってみれば、凌時が青筋を立てて柾を睨みあげていた。
詩凪はぽかんと口を開ける。こんな、一触即発だった状態の中で、二人のやりとりがとても――〝普通〟に見えてしまったから。
「言い出しっぺが止めんのかよ!」
凌時が喚けば、柾は鋏を振り回していた手を止め、さも当然のことのように言った。
「だって、詩凪が可哀想だし」
「ほんっと詩凪本位で短気だな。ちょっとは直せ」
吠える凌時と、あしらう柾。二人は顔を合わせる度に何かしら言い争って、騒ぎ立てていた。けれど、そこに殺伐とした雰囲気はなかった。言いたいことを言い合う、ある種の信頼関係が二人の間にはあった。だから、詩凪もキキも、二人の喧嘩を止めずに笑って見ていた。
ほんの少し前まで、当たり前だった日常の一幕。
さっきまで見られなかった光景が――もう見られないかもしれないと思った日常の一風景が、今また目の前にあった。
「……凌時さん?」
「お前、何を言っている?」
緊張感が霧散してしまうようなやり取りに、キキが、榊が戸惑いの声を上げる。
「まあ、こういうことだよ」
そう答えて柾は間宮を解放すると、今度は前方にいた榊を拘束した。腕を後ろ手に容赦なく捻りあげ、足を払って床に押し付ける。
「何をする!」
「見ての通りだよ」
つい今まで詩凪たちに向けていた冷ややかさを、今度は自分の兄に向けて、柾は言った。
「さっきも言ったけど、僕は詩凪のこと以外では、あまり気が長くない。痛い思いしたくなければ、大人しくしててよね」
それから柾は顔を上げて詩凪のほうを見た。
「さっき僕は一つだけ嘘を吐いた。僕の父の死因は分からないって言ったけど、本当は知っていたんだ。……いや、判っていたというべきかな」
柾は榊の身体を押さえつけていた膝に体重を移す。背骨を圧迫された痛みに榊が呻いた。
薄い茶色の瞳が、冷酷に輝く。
「本当は兄さんが全員殺した。そうだろう?」