第2節 不一致
「柾」
日曜日の朝。荷物を渡してくれた使用人に礼を言い家を出ようとしたところを、頭上から呼び止められて、柾は振り返った。
玄関のすぐ側にある真っ直ぐな階段。その上から手摺に手をかけた兄の榊がこちらを見下ろしていた。
「……何?」
「出掛けるのか」
「詩凪とね」
見れば分かるだろうことをあえて言ってくる。これは嫌みだ、と柾は知っていた。それとも僻みか。次の言葉は、容易に予想できた。
「いい気なものだな、学生は」
案の定の反応。しかし、予想はしていてもやはりカチンと来た。
「兄さんはそんな服着て、休みなのに仕事?」
木の板を軋ませて階段を下りてきた榊は、スーツ姿だった。ジャケットもベストもしっかり着込んだダークグレーのスーツ。榊のもともとの性格もあって威厳があるように見えるのだが、夏に着るには視覚的にも暑苦しい。
「会社経営は忙しいんだ」
学生と違ってな、と余計な一言を加える。この辺り、自分と兄はそっくりだと柾は思う。あまり嬉しい共通点ではない。
「働き方改革が騒がれている中での休日出勤なんて、時代の流れに沿ってないよ」
「お前に何が分かる」
知るか、と柾は内心で吐き捨てた。自分で手に入れたポジションだろうに。
霧沢家はもともと華族を起源とする一族だったが、戦後の不況からこの篠庭の豊かな自然を――より具体的には、水を利用して、製紙業を営んでいた。無論、大手製紙業とは違い、扱う品は文具だけ、生産拠点は青篠市の端にある工場一つだけという小規模会社だ。ただし、雑貨チェーン店に行けば一つ二つは製品が置いてあるので、なまじ捨てたものでもない。そんな会社。
榊は、一年前に死亡した父に代わって、社長の席に着いていた。周囲に唆されたのではなく、自分から手を挙げた。父が死んだ翌日に、だ。
齢二十七歳の若社長。もともと社員だったとはいえ、無理な世襲制が罷り通ったのは、拠点が都心から離れた田舎ならではか。
まあ、自らアピールしてくるだけあって、本当に苦労しているようなので、努力は認めてやらなくもない。会社もそこそこの業績を維持しているようだし。
だが、だからといって素直に尊敬するかどうかは、まったく別の話だ。
柾は言い返すのを止めて、兄に背を向けた。せっかく今日は楽しいお出掛けだというのに、不毛な会話に気を取られてどうするというのか。
「まあ、せいぜい頑張って。僕は学生のうちに、楽しく遊んでくるとするよ」
ひらひらと手を振って、玄関を開ける。外は晴天。風も程よく吹いて、家の中と違って心地好い。お出掛け日和だ、と内心喜ぶ。
「詩凪によろしくな」
背後から掛かるらしくない一言に思わず眉を潜めるが、何一つ反応を返すことなく、柾は家の敷地を出ていく。
もちろん、伝える気は毛頭ない。
□ □ □
〈月恋歌〉は、架空の世界を舞台とした恋愛幻想譚だ。
その昔、月には美しい女神がいた。黒い髪に紫の瞳、そして背に黒い翼をもった、夜を象徴する月の女神だ。
ある時、地上の若者が、月の女神に恋をした。夜毎月を見上げる度にその姿にのめり込み、ついには手に入れんと女神を地上に引きずり下ろした。
地上へと堕ちた女神は、空に戻ることがないようにと、若者に翼を引き裂かれたうえ、人間の娘の身体の中へと入れられる。空から月が消えた。夜から唯一の光を奪った男は、女神を手中に入れた喜びに狂った。
そんな若者を恐ろしく思ったのだろう、女神は彼のもとから逃げ出した。捕まらないように地の果てまで逃げ出して、そのうちに女神としての記憶と器となった人間の記憶と混ざってしまい、己が何者かを忘れてしまった。
そんな記憶を失った娘は、一人の少年に出会った。心優しい少年は、記憶を失った娘に同情し、共に過ごすようになる。
日数を重ねていくうちに、想い合うようになる二人。
しかし、そこに恋に狂った若者の、魔の手が迫ってきて――
――といった内容の、ベタベタな恋愛ものだ。
「はあぁ……すっごく面白かった」
公演終了後、劇場の入ったビルの外に出た詩凪は胸の前でパンフレットを抱きかかえ、視線を青い空の彼方に飛ばしながらうっとりとため息を吐いた。目元がうっすらと赤いのは、感動のあまりに涙したからだ。その姿の魅力的なこと。周囲の男どもが見とれているのが忌々しい。
今日の詩凪は、クリーム色のパフスリーブ・ブラウスに、茶色のグレンチェックの膝丈まであるスカートを履いていた。腰にはチョコレート色の肩紐付きのコルセットベルト。首元は細い赤リボンで飾っている。髪は、今日はいつもと違い、三つ編みをカチューシャのようにしてあった。
相変わらずのレトロ感は当然柾の趣味。柾が仕立てた服である。こういう服は浮いてしまう印象があるのだが、元々お嬢様育ちの詩凪の所作が見事にマッチするため悪目立ちしない。着こなす彼女と、自分のセンスに大いに満足しているわけだが、余計な男どもの目を引いたのは失敗だったかなと思っている。
が、そんな柾の内心などいざ知らず、詩凪は無防備に表情を緩ませた。まるで夢見るような眼差しが。
「クライマックスの、女神が空に帰るシーン。本当に感動した」
若者との攻防の末、女神としての真性を思い出したヒロインは、夜に月明かりを戻すため、再び天へと帰っていく。当然、恋仲の少年との別れである。
恋敵を倒してもなお、結ばれない二人の切なさもあるが、それ以上にその別れがまた劇的だった。
女神が空に戻るには、人間の器から出る必要があった。その手段はただ一つ。器となった肉体を壊すこと。娘は別れを告げた少年の目の前で、崖の上から飛び下りた。深淵に落ちていく娘の身体。少年の慟哭が響く中で、月が夜空に架かるのだ。
あまりに報われぬ展開と、クライマックスに流れた切ない音楽に、観客たちは涙したらしい。――柾はといえば、女優が崖から飛び下りたときの演出の迫力にただ感心していただけだった。三メートルはあろうかという舞台装置から、本当に飛び下りたのだ。床には小道具が設置されて着地前に姿が見えなくなったので、何かしらの仕掛けがあったのだろうが……あの迫力は凄かった。
「喜んでもらえて良かったよ」
そんな余計なことは押し隠し、柾は満足げに微笑んだ。もちろん、満足したのは詩凪に喜んでもらえたことにある。衣裳のほうも、まあなかなか良かったし、収穫は十分だ。
その一方で、凌時がついて来なかったのは結果的に良かった、とも思う。柾が、ではなく、凌時が。今回の演目はあまりに女性向け過ぎた。幼い頃から詩凪の少女趣味に付き合わされてきた柾には慣れたものだが、そうでない凌時にはきっと、あまりに酷だったことだろう。
いくら甘い物好きな男でも、恋の甘さは口に合わないはずだ。
「マサくん、ありがとう」
「うん。こんなことで良ければ、また付き合うよ」
絶対ね、と詩凪は屈託のない笑みを柾に向ける。全く、こういうところが敵わない。
さて今の時間は、と駅前広場のポールの上の時計を見る。時刻は三時半。夏至前で日も長いことだし、もう少し遊んでいけるだろう。
何処か近くの喫茶店にでも、と詩凪に持ちかけたそのとき。
「霧沢くん?」
ふと呼び掛けられて、振り向いた。同じビルから出てきたらしい一人の女性が、少し離れたところから柾の顔を覗き込んでいる。柾と同じくらいの年頃の、いかにも学生といった雰囲気の女だ。
「奇遇だね、こんなところで会うなんて」
「……どちら様?」
胡乱な視線を向ける柾に怯んだようすもなく、彼女は親しげに話し掛けた。
「いやだな、佐重喜だよ。佐重喜三洋子。水曜の講義で同じ班じゃない」
「……ああ、佐重喜先輩」
佐重喜三洋子。確かにその名に覚えがある。選択科目で割り振られた班で、一緒に活動している先輩の一人だ。きびきびとした女性で、班の活動でもリーダーとして柾たち班員を先導してくれている。
ここは、柾の通う大学のある都市だ。大学も劇場もその中心街にあるので、最寄り駅も一緒。こうして同じ大学に通う先輩とすれ違うことも、決して珍しくはないのだが――。
柾たちのやり取りを隣で聞いていた詩凪が、首を傾げている。柾は基本的に他人に対してドライだが、同じ授業を受けている人の顔と名前を覚えないほどではないことを、彼女はよく知っていた。
今週の講義以来ですが、と柾は口を開いた。
「少し見ない間に、ずいぶんと顔と姿と服の趣味が変わりましたね?」
柾が見たことのない姿の三洋子が固まった。大きな目を見開いて、信じられないものを見たような顔で柾を見つめている。
詩凪が弾かれたように柾を見上げる。不思議そうだったその視線が、何を誤解したのか次第に責めるようなものに変わっていく。しかし、いくら非難されようと、本当に面識のない顔なのだからどうしようもない。
「もしかして……君のことだったのかな」
やがて、ふう、と息を吐いた三洋子は、絶望と諦観がないまぜになったような表情を浮かべて柾を見た。
「信じられない話だと思うけど、聴いてくれない?」
これは、と柾は無表情の下に苦いものを押し隠す。
間違いなく、厄介事を拾ってしまった。