なまえ
「待って、くれるのか……?」
「ああ。ただし今から三ヶ月後、二倍の賃貸料を支払ってもらう。ひと月につき金貨三十枚、それを三ヶ月だから九十枚。その二倍で百八十枚だな」
「ひゃくっ!?」
「百八十枚……」
思わず叫んでしまった口を手で押さえる。銀貨ですら持たせてもらったことがないのに、その上の金貨だなんて。しかも何枚? わたし、十二までしかうまく数えられないよ。
とにかく、それが途方もない金額だということはわかった。ルーナと呼ばれた女の人はなんて答えるのだろう。それによってわたしの運命も決まる。わたしは、そっと二人のやりとりを見守った。
「今日が期限だった今月分については、なかったことにしてやるよ。どうする? 伸るか、反るかだ」
「…………。この、首飾り、は……」
「預かるだけだ。どうせお前のことだから、これも手放したかねぇんだろうが、お前が差し出せるものなんてその体かコレくらいなもんだろ? 専属が嫌ならコレを渡すしかないよなぁ?」
そう言って、縞スーツの男がルーナの首にかかっていた紐をたぐると、その先にはわたしの掌からはみだすくらいの、木の葉のような飾りがぶら下がっていた。
「さて、じゃあ三ヶ月後を楽しみにしてるぜ、ルーナ。追加で金を借りたいときには、いつでも来ていいぞ」
「…………」
「おい、兄貴に感謝しろオラァ!」
長細い方の手下が、ルーナの頭を床に押さえつけた。わたしも一緒になって頭を下げる。騒がしい三人が帰った後、開け放たれたままのドアの前で二人、無言で座り込んでいることしかできなかった。
どれくらいそうしていたのか、ルーナがフラフラしながら立ち上がった。そして、わたしに優しく笑いかけてくれた。
「怖がらせて、悪かった。どこへでも好きなところへ行くといい。さすがに、父親のところへは戻ってほしくないけど……」
そう言われても、わたしには他に行くところなんてなかった。戻れば父さんになんて言われるかわからなかったし、引き取ってくれるような親戚なんて、わたしにはいない。
「ここにいたら、迷惑ですか?」
「…………」
「わたし、一生懸命働きます。何でもお手伝いします。ごはんが少なくても文句なんて言いません、黙ってろって言われたら黙ってます、寝るところがないなら外で寝ます。だから……!」
わたしの言葉を、ルーナは手で遮った。
「あなたは、ここにいるのは嫌だろうだと、思っていた。私はあなたと父親を引き離した張本人だし、あなたは私を怖がっていた。ここにいて、本当にいいの?」
「はい。わたしに、お手伝いさせてください」
この人がわたしをどうしたかったのかは、わからない。でも、他のどこかへ行くよりきっと、ここにいたほうがいい。返ってこない答えに胸が締めつけられる思いをしながら、わたしは待った。
「そう、か……。なら、ここにいると良い」
「あ、ありがとうございます!」
もう出尽くしたと思っていたのに、涙がポロポロこぼれてきてしまった。ルーナはそんなわたしの肩を抱いて、ベッドまで連れて行ってくれた。見た目は怖いし、しゃべり方も女の人らしくはないけれど、今まで出会った誰よりも優しい。
二人で寝るとベッドはぎゅうぎゅうで狭かったけど、とても温かかった。わたしに布を掛けて、ルーナは自分の腕を枕にしながら言った。
「私は、ここではルーナと呼ばれている。あなたの名は?」
「なまえ……。なまえは、わかりません。きっと、わたしにもあったはずなのだけど、家では呼ばれたことがないから」
父さんはわたしのことを呼ぶときは、「おい!」とか「お前」って言うから。母さんが死んでしまって、わたしのことをなまえで呼ぶひとはいなくなってしまった。もう、何も思い出せない。
「……私にも名前がなかった」
「えっ?」
わたしは思わずルーナの顔を見上げていた。空色の瞳が、まるで雨を抱え込んでいるみたいに潤んでいた。
「私には、拾われる前の記憶がない。それほど幼いときに捨てられたのだ。私を育ててくれたひとが、私に名をくれた」
「それが、ルーナ?」
「いや、違う。そちらはさっきの男が……、レインが贈ってくれた名だ。私が最初に貰った名は、『空を渡る白き船』と言う」
わたしは慌ててポカンと開いてしまった口を閉じた。
それは、本当に名前なんだろうか。船が空を渡るなんて、信じられない。それなら、あの怖い人がつけた、ルーナの方がよっぽどいい。だって、月の妖精の名前だもの。
「ルーナって、呼んでもいい?」
「もちろんだとも。それと、私から名を贈らせてもらえないか? 呼び名がないと不便だろう」
「嬉しい! うんと素敵な名前をつけて!」
考え込むように顎に手を当てて目を伏せるルーナを、わたしはわくわくする気持ちで見守った。しばらくして、彼女は少し笑った顔でわたしを見た。
「そうだな。うん。『歓びを告げる曙の光』というのはどうだろうか」
「え……」
わたしは、ずっとそのなまえで呼び続けられる自分を想像した。ちょっと……あまり好きになれそうになかった。でも、せっかくルーナが考えてくれたんだもの、好きにならなくちゃ……。でも、「ありがとう」を言う前に、ルーナがわたしに謝った。
「すまない。別の名にしよう」
「えっ、いいよ、ルーナ。わたし、嬉しいよ!」
「いいや。ここではどうやら、私の名前は一般的ではないようだし、暮らしやすさを考えるなら、ここに馴染んだ名が良いだろう。……そうだな、アウロラはどうだろう。朝の光を運んでくれる妖精の名だ」
「アウロラ……」
わたしは、ルーナが考えてくれたなまえを口にしてみた。アウロラ……。うん、素敵だ。
「ありがとう、ルーナ! わたし、どっちのなまえも大事にするね」
「……こちらこそ、そう言ってくれて、ありがとう。さあ、もう寝なさい。明日からは、忙しくなる」
「はい、ルーナ。おやすみなさい」
「おやすみ、アウロラ」
わたしはそっと目を閉じた。とても疲れた一日だった。そして、色んなことがありすぎた一日だった。父さんは今頃、どうしているだろうか。わたしがいなくなって、どんな気持ちだろう。せいせいしているだろうか。それとも、少しは不便を感じているだろうか。寂しく思ってくれているだろうか。
わたしは、少し泣いた。