取引
(し、死んでる……!)
わたしは両手で口に蓋をして悲鳴を押し殺した。
びっくりして、涙が勝手に出てくる。
突き出た足は枝みたいに細くて、まるで作り物みたいに真っ白だった。やっぱりあの化け物は、人間を食べるんだ。わたしのことも食べるつもりなんだ!
逃げなくちゃいけない……わたしはテーブルの上にあった小さな燭台を手に取った。カップ状の小さなもので、ちびた蝋燭が一本しかない。それを持って扉に向かおうとしたら、あの雄牛の頭の骨が暗がりに浮かび上がった。
「きゃあああああっ!?」
今度こそ悲鳴を上げて、わたしは床に尻餅をついてしまった。無言で見下ろしてくる化け物。わたし、食べられちゃう!
でも、化け物は襲いかかってこなかった。それどころか、ひとことも発しないままじっと黙っている。恐る恐る近づいてみると、それはお面で、黒いマントと一緒に扉に引っ掛けてあるだけだったのだ。
「なぁんだ……」
思わずそう呟いていた。わたしはてっきり、あの骨の頭が本物で、そういう生き物だと思っていたのだ。人間の子どもを食べる化け物なのだと。
そのとき、小さなうめき声が聞こえた。床に倒れている人は生きているらしい。わたしは毛布をめくって確かめてみた。そこにいたのは、顔も体も真っ白で、すごく痩せた大人だった。よく見ればおっぱいが膨らんでいる。女の人なのだ。
長い黒髪はボサボサで、体の表面がまるで失敗した漆喰塗りみたいにひび割れてボロボロだ。病気なのかもしれない。この部屋にはわたしとこの女の人だけ。もしかして、あのとき、雄牛の仮面の下にあったのはこの人の顔だったんだろうか。
なら、この人がわたしがお父さんに殴られているところを助けてくれた人なんだ。起きたらお礼と、麦粥を全部食べてしまったことを謝らないと。お腹も膨れたし、喉の乾きも収まったし、わたしはその人の隣で眠ることにした。これからどうなるのか、まったくわからないけど、朝になったら何とかなる気がして。
でも、そんな朝が来る前に、扉をぶち破る大きな音がした。ランタンの灯りがむちゃくちゃに部屋を照らす。
「おらぁ! いるのはわかってんだぞ、まじない屋ぁ!」
「起きろコラ! 兄貴がいらっしゃってるんだぞ!」
怖い……!
大きな大人の男の人が怒鳴ってる。扉を無理やり開けて、三人も入ってきた。腕が丸太みたいに太い強そうな小さい人と、ひょろひょろで声が高いハゲの人と、黙ってるままの目つきがギラギラした人。
わたしは声も出せないまま震えていた。お父さんが「ああいう連中には近づくんじゃないぞ」と言っていた、怖い大人そのものだった。食べられちゃうんじゃないかと思ったときより、もっと怖い。本物の暴力を振るう人たちだもの。
ギラギラした目つきの、高そうな縦縞スーツに白い杖をついた男の人が、床に寝ていた女の人の前に進み出て低い声で言った。
「期限は今日までだったはずだぜ。何故来なかった?」
「…………」
女の人は黙って、寝ていた体を起こして床に座った。わたしは部屋の隅っこで、それを見ていた。これからどうなってしまうんだろう。まさか、この女の人、殺されてしまうんじゃ……。
「わざわざ取り立てに来てやったんだ、感謝しろよ、まったく」
「……金はない」
「あぁん?」
「払いに行く途中、失くした。……無理やり払えないこともないが、それをすると来月店を開けられなくなる」
「知るか。場所代が払えねぇなら今日で廃業だろ。おい、お前ら、ここにあるもの全部ぶち壊しとけ」
「へい、兄貴」
「おうよ!」
「待て、やめてくれ」
部下の二人が進み出て、棚に手をかけたり壺を取り上げたりした。女の人がそれを止めようとして突き飛ばされている。
(嫌だ……嫌だ、いやだ! やめてよ……!)
怖くて仕方がなくて、わたしは泣き出してしまった。ここから先、どうなるかわたしは知っているから。物を壊したら、次に同じ目にあうのは、わたしたち……。わたしは腕を口に押し当てて、声が出ないように蓋をした。泣いていると、もっとひどくぶたれるから。
「何だ、コイツは」
「……拾った」
「あン?」
縦縞スーツの背の高い男の人がわたしに詰め寄ってきた。月の光みたいな色の髪の毛が、ランタンの火に照らされて燃えているように見える。ギラギラした目がわたしを鋭く睨みつけている。
まるで、視線だけでわたしを殺せるんじゃないかと思うほど鋭い。声を上げたら、死んでしまうんじゃないかと思って、わたしはもっと強く口を押さえた。
わたしの喉がゴクリと鳴る。
震えが止まらない。我慢しても勝手にしゃくり上げて、音が出てしまう。
「なるほど。コイツのせいで俺に納める金を無くしたってか。よし、事情はわかった。コイツを売って金に変えてきてやる、それで支払えるだろ」
「……!」
「なんてことを……! そんなこと、させるわけがない!」
「させるわけがない、だ? お前が店を続けていける方法を考えてやってんだろうが! 俺は別に、お前がここを辞めて俺の専属薬師になるってんならそれでいいんだぜ? 金は無え、専属は嫌だ、ガキは渡さねえって、舐めてんのかテメエ」
縞スーツの男は、痩せっぽちの女の人の胸ぐらをぐっと掴んでつま先立ちにさせた。
「いいか、ガキを飼うなんて贅沢はなぁ、金があるやつがやるもんなんだよ! テメエみてぇな自分のケツも自分で拭けねぇようなヤツが、自分よりカワイソウなガキを助けて善人気取りか!? 自分の立場をよく考えろ!!」
「うぐっ! ……げほっ、げほ!」
わたしは突き飛ばされた女の人に駆け寄った。この人が父さんに投げつけたのは、あれは大切なお金だったんだ。わたしが殴られないように、するために……わたしのせいでこんなことになってしまった。父さんは頼んでもお金を返してくれたりしないだろう。もう使ってしまっているかもしれない。
もう何度もぬぐいすぎて目尻が痛い。それでもわたしは目元を拳でこすって言った。
「お願いします。もう、やめてください。わたしがお金の代わりになるなら、わたしを、連れて行ってください」
「ダメだ! うっ……!」
「いいんです。だって、わたしは最初から、父さんに売られてここにいるんだもの」
激しく咳き込む女の人の背中を撫でながら、わたしは縞スーツの人を見た。鋭い目がわたしを見ている。きっとひどい目にあわされるんだっていう予感はあった。
親がいない子がどうなるのか、聞かされたことがある。わたしには父さんがいたから、連れて行かれなかった。けど、何度か脅されたことがある。孤児院へ行ったら、ごはんも貰えず鞭で打たれて、死ぬのに任せて置いておかれるんだって。
わたしはそうならないだけ幸運で、だから一生懸命働かなくちゃいけないんだって。ひもじい中で殴られながら働くのなら、きっと父さんのところにいたって、この人のところにいたって同じだ。
「……三ヶ月だ」
「え?」
「三ヶ月だけ待ってやってもいい。その代わり、ルーナ、お前の一番大事にしているものを寄越せ」
冷たい声が頭の上から降ってきた。でも、その内容は、驚くほど優しいものだった。