出会い
白い壁が夕陽とランプの色に染まっている。わたしはいつものように歩いて家に戻っている途中だった。抱えている麦酒の樽は臭くて重い。お腹が空いてヘトヘトのわたしは、家まであとちょっとという所で転んでしまった。
「あっ」
わたしの腕の中から飛び出た樽は、重い音を立てて石畳にぶつかり、麦酒をすべて吐き出した。広がる黄金の波を、わたしは膝の痛みも忘れて見入っていた。
こぼれた麦酒は元には戻らない。わたしの胸は重くなった。また、お父さんに殴られる……。膝なんか、かまうもんか。それよりもっと酷いことが待ってるんだから。前に殴られたときは瞼が腫れてしばらく開かなかった。わたしの頭はタンコブだらけ。体はいつもアザだらけ。炭を投げつけられて火傷したこともあった。
近所のひとたちだって、いつも助けてくれるわけじゃない。ううん、わたしが悪いのに、助けてくれるわけがない。わたしがグズでのろまで、なにひとつ役に立たないのがいけないんだから。
「あっ、お前! なにやってんだこの! くそ、麦酒が台無しじゃねぇか!」
「ごめ……なさ……お父さん……」
細い路地の、同じような幾つもの建物のひとつがわたしの家。怒鳴り声に顔を上げると、扉の側にお父さんが立っていた。こわばる口で、謝る。わたしには謝ることしかできないから。でも、それで許されるわけではない。でも、謝らなきゃ、もっとひどくぶたれるから。
「この、役立たずの穀潰しが! 食わせてもらってる恩を仇で返そうってか!」
「違います、わざとじゃないです! 転んじゃって……」
「うるせぇ、口ごたえするんじゃねぇ!」
「あっ」
わたしは道に倒れ込んだ。
目の横が、かあっと熱い。殴られたんだ。
体中がズキズキと痛む。お父さんはきっとわたしを滅茶苦茶に蹴るんだろう。さっと影が差して、わたしはぎゅっと体を縮めて小さくなった。けど、痛みは襲ってこなかった。
『聞クニ耐エナイ、醜イ声ダ……』
「ひぃっ! な、なんだお前は!」
ひび割れた声に驚いて、見上げたわたしの目に映ったのは、ボロボロに擦り切れた真っ黒なマントだった。その人の向こう側に、お父さんが尻餅をついて道に座り込んでいる。麦酒にまみれた道に。
お父さんはその人を見上げて、怖がっていた。震えていた。口を大きく開けて、目を見開いて。それがあんまりにもおかしくて、わたしはつい笑ってしまいそうになった。
『娘ヲ置イテ失セロ、今ナラ命マデハ取ルマイ』
「なっ、なに、なにをぅ!? てめぇ、何様のつもりだっ!」
『……デハ、死ヌカ』
「っ、くそ! そんなにソイツが欲しけりゃ売ってやるよぉ! 金だ、金をよこせ!」
「お、お父さん……?」
お父さんが何を言っているのか、よくわからなかった。
お金をよこせって、売ってやるって、どういうこと? わたしはお店で売ってるパンみたいに、お金で買えてしまうものだったの? お父さんはそのお金で、麦酒を買うの? そのとき、わたしはもういないのに、誰がお父さんに麦酒を運んでくれるの?
『イクラ欲シイ……』
「へへっ、話が早ぇや。銀貨三十枚……いや待て、もっとだ……! こいつはそのうちひと晩で一枚は稼げるようになる……」
『……下衆メ。己ノ娘デ花代ヲ稼グツモリカ? イイダロウ、好キナダケ持ッテイケ! ダガ、貴様ニソレヲ使ウ機会ガクレバイイガナァ……!』
まるで呪いみたいな言葉と一緒に、黒いマントの人がキラキラした金貨の雨を降らせた。お父さんは変な声を上げながらそれを拾い集めていた。そして、前掛けに金貨を抱え込みながらわたしに向かってこう言った。
「ようやく役に立ったじゃねぇか! 今日からはこのダンナ様がお前のご主人様だ、絶対に逆らうんじゃねぇぞ。逃げて帰ってきたってどこにも居場所なんかないんだからな! さぁさぁダンナ、これでこの娘はダンナのもんですぜ、煮るなり焼くなり好きにしてくださいや!」
「そんな、お父さん! やだよ!」
「うるせぇ、お前は黙ってろ!」
黒いマントの人が初めてわたしを振り返った。その不気味な顔にわたしは息が詰まった。フードに包まれた顔のところには雄牛の頭の骨しかなかったから。
「わたし、わたし、食べ……」
食べないでって言いたかったけど、言葉がうまく出てこなかった。その人が伸ばしてきた黒い革の手袋が、ふっと見えなくなって、音も聞こえなくなってしまった。
◇◆◇
気がつくと毛布に包まれていた。起き上がってみると、上等のベッドにわたしは寝かされていたのだとわかった。小さな蝋燭の火がテーブルの上に灯されていた。嗅ぎなれない匂いがする。ツーンと鼻に来る、お薬の匂いだ。
わたしは喉がカラカラで、お腹もとても空いていた。誰の家かわからないけど、水だけでも飲ませてもらえないかと思って、わたしはベッドを下りた。
シンと寝静まった部屋は見渡す限りここひとつだけのようだった。わたしの家より小さいんだ。わたしの家は、お父さんの部屋と台所は別れているから。
わたしは水瓶から柄杓で水を掬って飲んだ。なんだかこれも薬臭かったけど、美味しい水だった。本当はこれで終わりにするつもりだったのだけど、水瓶の横のお鍋の中に、とてもいい匂いがする麦粥が入っていたから……ちょっとだけ、ほんの少し、食べてもわからないだけ……そう思って、置いてあった匙で掬ってしまった。
でも、口に入れてしまったら、止まらなくなっちゃった……。
だって、お腹がペコペコで、朝から何も食べてなかったんだもの! いけないことだとわかっていたけど、どうせあの化け物に食べられちゃうのなら、お腹がいっぱいで死にたかった。
もう食べられないくらい食べてから、わたしはようやく手を止めた。お鍋の底を舐めるくらいまで綺麗に食べてた。そして、わたしは初めて床の上の塊に気がついたの。
毛布の塊と、そこから突き出た、真っ白な足に……。