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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

禁術のオーリシファ

作者: Rion

 ■監視者


 古城の地下牢。

 四人の騎士を従属させている少女。

 少女は、監視者。呪術を使い、罪を犯した騎士たちを緊縛し、監視する役目を負う者。

 監視者は、痛みと苦しみを以て支配する。彼らと繋がる呪いの人形で。


  四人の騎士たちは、どんな苦痛を与えられても必ずこう言う。

「願いは何だ。俺がお前の望みをすべて叶えてやる」

 少女も、必ずこう答える。

「どんな時も私の傍にいろ」

 彼らは指示に従う。苦痛を与え続けられるだけと判っていながら。


 少女自身にもまた、呪術が施されている。

 騎士たちにとって少女は、少し触れるだけで至福の感覚を得られる、麻薬のような存在。

 少女が牢獄に近付くと、騎士たちは引き寄せられるように歩み寄り、僅かでも触れたくて手を伸ばす。

 そんな騎士たちを、少女は弄ぶ。

 それが彼らの日常。


 不定期に、伝令が呼び出し命令を携えて来る。

 少女は、王へ騎士たちの様子を報告に行く。

 騎士たちは国を脅かす者。解放しても、死なせてもならない。それさえ守れば、あとは少女の好きにしていい。

 王は必ずそう言う。

 少女には、彼らを死なせるつもりはなかった。解放する気も。

 だから素直に頷きさえすれば良かった。いつもの通り。

 騎士たちは、少女の存在意義そのものだ。彼らがいなければ、監視者としての自分も必要ない。

 だから、彼らは少女の傍にいなければならなかった。従属者として。

 四人の騎士たちと繋がる呪いの人形を取り出し、そっとつねる。

 今頃騎士たちは痛がっていることだろう。そう思い、ほくそ笑む。


 少女は、自分が何者かなどと考えたことはない。

 生まれたときから監視者なのだ。

 少女が外を歩くとき、周りの者は必ず目を伏せ、少女を見ないようにする。

 誰も少女のことは見ない。話しかけることもない。

 ただ目を伏せ、少女が行き過ぎるのを待つ。

 監視者なのだから当然だ。何の疑問もなく、そう思う。

 生まれたときから、何も変わらない。

 報告を終えると、真っ直ぐに古城へ戻る。騎士たちのいる地下牢へ。


 騎士たちに名前はなかった。四人の騎士。これだけで充分だ。

 呼び掛けるときは目の前に立ち、「お前」とだけ言えばいい。それで用は足りる。

 古びたソファーに座っている者。

 鎖に身体を貫かれている者。

 真っ赤に塗られた壁に囲まれている者。

 冷たいコンクリートに立ち続ける者。

 透明なガラスケース……これだけは空いていた。

 四人の騎士は、それぞれどこか体に欠損があった。

 少女がつけた傷だ。呪いの人形を通じて。

 傷だらけの騎士たちは美しかった。

 少女によって苦痛を与えられるさまは、さらに美しかった。

 彼らが少女に向ける、陶酔しきったような表情は、少女を満足させた。

 騎士たちは苦しむことを楽しんでいるのだ。

 監視者によって与えられる苦痛は、愉悦。

 苦痛を愉悦にできるのは、監視者のみ。

 だから、少女は稀有なる存在なのだ。



 ■日常プラス1


 その日も同じはずだった、王への報告。

「騎士たちの様子はどうだ」

「変わりません」

「そうか。死なせさえしなければ好きにしていい」

「御意」

 一礼。真っ直ぐ地下牢へ戻る。以上。

 だが、いつもと違ったことが、一つだけ起きた。足を滑らせたのだ。幾度も通った階段で。

 懐に入れた呪いの人形が、少女の身体の下敷きになるのを感じる。

 騎士たちは呻いていることだろう。

 階段を転がり落ちながら、少女はほくそ笑んだ。

 一番下まで落ちたとき、異変に気付いた。伏せた懐が、冷たい床を感じる。

 呪いの人形がない。

 周囲に目を向けた。警備兵たちは監視者を見ない。だから誰も手助けすることはしない……はずだった。

 ほんの数歩離れたところに、呪いの人形は転がっていた。

 そこへ足が近付き、拾い上げた。

 少女はすかさず目を向けた。逸らされるべき目は、少女を真っ直ぐに見下ろしていた。

 均衡が崩れた。

 警備兵たちは、明らかに動揺した。どうすべきか判断に迷っていた。

 呪いの人形を拾い上げた男は膝をつき、少女に手を差し出した。「大丈夫か」と。

 真っ白い大きな手。傷一つない指。痣一つない顔。苦痛の欠片もない輝く瞳。

 たった一つ空いているガラスケースに入った、目の前の男の姿を思い浮かべた。

 それも悪くない。苦痛という愉悦に歪む、綺麗な男の姿を見るのは。

「怪我はないか?」

 怪我……監視者たる自分が?

「どこか痛みはないか」

 痛み……そんなものは知らない。

 黙って立ち上がった少女に、呪いの人形が手渡された。

「ずいぶんと変わった人形だな」

 騎士たちは今頃、どうしているだろう。監視者以外の者に触れられた、騎士たちは。

「お前の名は?」

 少女は男を見上げた。意味のない問いに。

 名前などない。監視者なのだから。

 なおも問いを発しようとする男に向かい、とうとう警備兵がそっと注意を促した。

「王子様。この者は監視者にて、どうかそれ以上は……」

 男の気が逸れた隙に、少女は歩き出した。いつもより少し速足で。地下牢へ向かって。

 王子、か……

 初めて向けられた眼差しを、何と言うべきなのだろう。

 苦痛もなく、愉悦もない。崇拝でもなく、陶酔でもない。ひたすらに真っ直ぐ少女を見つめていた、綺麗すぎる、王子の眼差しを。



 数日後、またも王の召喚があった。こんなにも短期間なのは、初めてのことだ。

 それでも行かねばならない。監視者の務めだから。

 数日前と同じ会話を交わし、地下牢へ戻る途中で、変化が起きた。

 王子がいたのだ。あの不可思議な眼差しを向けて。

「また会ったな」

 王子は言った。

 だから何だというのだろう。少女は、ただ王子を見た。

「この間は聞き損ねたからな。今日は教えてくれるだろう。名前を」

 微笑む王子を、ただ見た。監視者に名前などないのに。

「もしかして口が利けないのか」

 そういって王子は、後ろに回していた手を前に持ってきて、少女に差し出した。真新しい人形を。

 少女は傷一つない人形を見つめた。これをどうしろというのだろう。騎士たちと繋がっていない人形など、意味がないのに。

「受け取れ」

 王子は、少女の手に人形を押し付けてきた。少女の手に、人形が乗せられた。

 いつもは無関心を装っている警備兵たちが、興味を引かれたように、気配をこちらへ寄せている。

 少女はポトリと人形を落とすと、無言のまま地下牢へ向かった。

「おい。落としたぞ。持って行かないのか」

 王子の言葉が耳に入る。だが振り返らなかった。

 傷一つない綺麗な人形は、監視者としての存在証明にはならない。意味がない。

「明日もここへ来い」

 地下牢へ続く階段の上まで来ると、王子の言葉が追いかけてきた。

「待ってるぞ」

 報告以外で外へ出るなんて意味がない。

 少女は階段を駆け下りた。

 待ってる、とはどのような意味なのだろう。

 監視者を待つ騎士たちを見た。この者たちには判るのだろうか。

 待ってる、の意味が。



 ■王子


 少女の姿が見えなくなると、王子は彼女が消えたところを見つめ、踵を返した。

 見ているだけで目が切れてしまいそうなほどに美しい少女が地下牢の監視者だという噂は聞いたことがあった。

 耳にしてはいけない噂。口にしてはいけない噂。

 目にしてはいけない姿。否定してはいけない存在。

 事情が隠されているのは、誰にでも判る。

 だが、どのような事情であるかは誰も口にしない。教えてくれない。

 王子は他国の者だった。だから王にこう言った。監視者が怪我を負っている可能性がある、と。

 王は暫く思案し、数日経ったら確認することを約束した。

 かくして今日、監視者は呼び出され、王子は少女と再び相見えた。

 反応は予想以上に鈍いものだった。

 各国の王女の心を虜にしている王子が、いとも簡単にあしらわれたのだ。

 少なくとも王子自身はそう感じた。

 望めば、どの国の王女とも結婚できるほどの地位と財力と権力と美貌を兼ね備えている自分であるのに。

 少女は、王子に話しかけられたことを喜ぶどころか微動だにせず、王子ではなく、王子を通した空間を見つめていた。名前すら答えずに。

 これほどまでに無関心な態度を取られたのは、全く初めてのことだった。

 だからか。少女のことが気に掛かるのは。

 なぜ人形などを手渡そうとしたのか、明確な理由は己でも判らない。

 ただ、あの薄汚い、つぎはぎだらけのボロ人形が少女の内面そのままのような気がして、美しさをあの人形が壊しているような気がして、否定したかったのだとも言える。

 名前すら答えようとしない少女。

 苛立たしいが、不思議と怒りはなかった。ただ、もう一度会いたいと思うだけで。

 それにはどうしたら良いのか。そればかりを考えている。

 居場所は判っている。だが、そこを訪れることは容易ではない。

 少女の消えた階段を守る警備兵を、疎ましいと思う。

 自国ならば、事は単純だったであろう。人払いを命じれば良い。

 だがここは他国。しかも娘たる第一王女を妻にと願う国王の目の前で、監視者たる少女に関心を抱いてしまったとは、言えるはずもない。

 では一体どうして、あの少女と会いたいと思ってしまうのか。

 奇妙な人形を片時も手離さず、言葉も話さず、ただ空間だけを見つめる、空虚な美しさを持った少女。彼女と会ったとて、何が出来るわけでもない。

 会話など言わずもがな、見ても貰えないというのに。

 それでも心がざわめく。少女をもう一度見たいと。

 触れれば怪我をすると判っていながらも、清冽な刃の煌めきに心惹かれてしまうと同じように。

 ほんの少しでもいい。少女の事が知りたかった。僅かな噂でも。

 今の自分が知らない彼女のことを。少しだけでも。

 真実でも嘘でも。彼女にまつわる、どんな些細なことでもいい。

 自分で動くには目立ちすぎる。だから従者がいるのだ。

 片時も傍を離れない執事を見た。

 執事は王子の意を汲み取り、軽く頭を下げた。



 ■地下牢1


 目を覚ます。たった一人で。いつもと同じように。

 身支度をし、四人の騎士たちのところへ行く。いつものように。

 周囲を牢獄に囲まれた中央スペース。

 中心に据えられたテーブルと椅子。監視者のもの。

 雑然としたテーブルには、騎士たちを操り、縛るものが揃っている。

 さて今日は、どのような愉悦を与えようか。

 椅子に座らせていた、呪いの人形を手に取る。

 準備運動が必要だろう。

 人形の右手を上げさせると、騎士たちも同じ手が挙がる。

 手を離すと、騎士たちの手もストンと落ちる。

 足をつまむと、騎士たちの足も挙がる。

 首を捻ると、騎士たちの首も傾げる。

 振り回すと、騎士たちの身体も浮き上がり、振り回される。

 監視者は好きなように、思いのままに彼らを操ることができる。

 呪いの人形を放り出すと、騎士たちも放り出された。

 少女はゆっくりと一人の騎士の前へと近付いて行く。

 ソファーに座っていた騎士が立ち上がり、少女を真っ直ぐに見つめながら近づいて来る。その瞳に、大きな憧れの光を帯びて。

「お前の望みは何だ。言ってみろ」

 割れたガラス格子の隙間から、その手を少女に向かって差し伸べる。

「お前の望みを叶えてやる」

 その手が届く寸前、少女は半身を逸らす。

「何が欲しい?望みを言え」

 届きそうで届かない、騎士の大きな手を見つめ、少女は笑いを口元に浮かべた。

「私の傍にいると誓え」

 騎士の狂気に満ちた瞳が、喜悦の色に染まる。

 少女が身を翻す。長い髪の先が、ほんの僅か騎士の手に触れる。

 喜悦の色が快楽の色に変わる。

 騎士は崩れるようにひざまずき、傷付いた自分の頬に手を這わせて少女を見上げた。

 美しい。

 少女は思う。苦痛を抱く男が陶酔するさまは、この世の何とも代えがたい美だ。

 向かいの牢獄にいる騎士と目が合う。

 真っ赤に塗られた壁に、もたれるようにうずくまっていた騎士が立ち上がる。

 少女がゆっくりと目の前に立つ。

「お前の望みを言え」

 挑むような視線を投げかけ、高い位置から境界たるガラスを掴むように拳を握った。

「我が肉体を悪魔に捧げ、お前の願いを叶えるぞ」

 笑みを浮かべ、少女は挑み来る騎士の視線を受ける。

「私の願いは、お前が傍にいることだ」

 騎士が拳をガラスに叩きつけた。拳が切れ、血飛沫が騎士自身に降り掛かる。

 切れた拳を口元に押し付け、騎士ががっくりと膝をついた。

 少女が裾を翻しつつ背を向ける。

 騎士の視線が挙がる。

 僅かに振り返った少女を求めるように、騎士が血にまみれた手を伸ばした。

 美しい。

 少女は微笑む。自らの血に染まった狂気の瞳は、紅蓮の光を真っ直ぐに放つ矢のようだ。


 少女は、己自身がその血矢に射抜かれているとは気付かない。

 騎士たちが傷付き、その身を焦がすたび、監視者たる少女自身が、深淵の黒い闇に掴まれるのだとは……。


 空のガラスケースの前で足を止めた。

 誰が、いつ入ることになるのだろう。

 監視者たる少女にも知りようがない。

 だが少女は理解している。

 最後にここへ来るものは、

 誰よりも気高い忠誠心を掲げ、

 己の命を散らしながら少女の愛を乞い、

 与えられる深い苦痛を至高の美に変えて少女へ捧げ、

 呪いから逃れるよりも呪縛され続けることを願う。

 空のガラスケースの中を覗き込み、少女は笑った。

 姿が見えるようだ。彼は一番美しい人形になる。

 切り込みを入れるのもいい。

 新しく縫い合わせるのも。

 身の内に差し込まれた呪いの配列を、組み替えるのだ。

 苦悶し、嗚咽を漏らすだろう。

 そうして刻み込む。少女の慈悲と憐れみを。

 呪いの人形が、彼に知らしめるのだ。

 監視者たる少女の存在を。

 少女を求める彼の存在が、証明となる。

 少女が監視者たることの。

 少女はほくそ笑んだ。

 きっと彼は一番のお気に入りになる。

 その日が来るのを、ゆっくりと楽しむことにしよう。


 時は逃げない。やってくるだけだ。



 ■地下牢2


 目を覚ます。たった一人で。いつもと同じように。

 身支度をし、四人の騎士たちのところへ行く。いつものように。

 中心に据えられたテーブルと椅子。監視者のもの……へ目を向けかけて、いつもと違う変化を見つけた。

 地上へ続く石段。少女が立つと同じ位置、階段の最下段に、それは現れていた。

 真新しい人形。

 少女は、見覚えのある人形を凝視した。

 ここにあるはずのないもの……王子が押し付けようとした、誰とも何の繋がりも持たない人形。

 綺麗に包装された箱の上に、人形は座っていた。

 少女は真ん前まで歩き、上から凝視した。

 髪の毛一本も乱れていない。

 服も破れていない。

 手足も付いている。

 縫い合わされたところもない。

 首も横に倒れていない。

 綺麗に着飾られた……あの王子と同じ。

 少女はクルリと背を向けた。騎士たちが待っている。

 待っている……あの王子の言葉。

 石段を見上げた。誰もいない、石段の最上階。

 警備兵たちは、決して中を覗かない。

 監視者がいるから。騎士たちがいるから。

 騎士たちに与えられる苦痛を、警備兵たちは味わいたがらないのだ。

 少女はそう理解していた。だから覗き込んだりしない。

 待っている、とはどういう意味だったのだろう。

 明日も来い。待っているぞ。

 でも「明日」は過ぎた。昨日。

 だから、か。人形がここへ来たのは。

 少女は再び人形に向き直り、すぐに背を向けた。

 意味がない。意味がないものには、興味などない。

 持たない。

 監視者の椅子へ行き、呪いの人形を手に取る。

 騎士たちが意識を取り戻す。動き出す。監視者の相手をするために。

 監視者に相手をしてもらうために。

 彼らとの日常が始まる。それなのに――邪魔が入る。

 真新しい人形が、じっと少女を見つめている。まるで意思があるように。

 少女は、こちらを見ている人形を見返した。気を散らされた、仕返しをするように。

 気を取り直し、呪いの人形に目を向ける。

 なぜだろう。

 少女は、またもや真新しい人形に目を向け、テーブルの上から千枚通しを手に取った。

 呪いの人形に突き立てる。

 騎士たちの呻き声が一斉に挙がる。

 真新しい人形を凝視したまま、再度突き刺す。

 苦痛の呻きが響く。

 真新しい人形に傷はつかない。綺麗なまま。

 騎士たちは苦痛を味わう。

 幾度も繰り返す。幾度も苦痛が与えられる。

 何十度目か。

 少女はいつもと違う感触を手の甲に感じて、手元に目を向けた。

 深々と、太い針が手の甲を突き抜けている。

  流血。

 周囲で騎士たちが立ち上がる。各牢獄の境界まで進み、騎士たちが手を伸ばした。

「お前の願いを言え」

 呪いの人形と共に貫かれた己の手。とめどなく流れ出る赤い液体。床を染める赤い雫。

 騎士たちは各々の言葉で、声で、同じ意味を持つ問いを放つ。

「お前の望みは何だ?」

 少女は顔を上げた。ソファの置かれた牢獄にいる騎士と目が合う。

「お前の願いを叶えよう」

 少女が立ち上がる。騎士の目を真っ直ぐに見つめながら。

 貫かれた手と呪いの人形。

 騎士は貫かれた呪いの人形と同じく胸に手を当て、苦痛を堪えながら少女を見つめる。

 愛おしげに。

「お前の望みを言え」

 少女は騎士の目を見据えながら、口唇に笑みを這わせる。

「私と共に在れ」

 騎士が手を伸ばし、少女の手を貫いている針を引き抜いた。

 血飛沫が降り掛かる。

「お前の願いは叶うだろう」

 手にした千枚通しが、少女の手に渡る。

 互いの手が僅かに触れた瞬間、騎士が陶酔したように膝を崩す。

 新たに与えられた胸の傷に手を這わせ、少女を見上げる。

 美しい。

 少女は騎士の陶酔に満たされ、さらなる深淵の闇に掴まれる。知らぬ間に。

 他人の苦悶は自己の陶酔。

 虜にするもの。離れられないもの。常に傍にあるべきもの。

 真新しい人形以外は……

 手の甲に空いた穴と、とめどなく流れ出る血液を空虚に眺め、階段の下へ意識を向ける。

 あれは、何とも繋がりがない。無意味なものに過ぎないのだ。

 ここに居るべきではないもの。

 ここに在るべきではないもの。

 少女は綺麗な人形の前に立つ。

 膝を落とす。

 待っている。

 待っている? ……人形を横に薙ぎ払う。王子の言葉ごと。

 吹き飛んだ人形。階段に叩きつけられても、何の変化ももたらさない人形。

 髪の毛が乱れ、服に皺が寄り、打ちつけられた格好で横たわる。

 これで良い。

 少女は立ち上がり、満足げに階段を見上げた。

 待っているとは何だ。誰が待っているというのか。何を。

 待っているのは、騎士たちだけだ。

 自分を見守る騎士たちを振り返り、呪いの人形の左脚を捻じ曲げる。

 騎士たちが苦悶の声を挙げ、左脚を抱えて倒れ込む。

 これだ。

 少女は牢獄を見渡せる中央に立ち、周囲の騎士たちを見た。

 騎士たちこそが、意味のあるもの。監視者たる少女の存在証明。

 他に必要なものなどない。欲しいものなどない。

 少女を待っているのは、騎士たちだけだ。


 監視者を待っても良いのは、収監者のみ。



 ■日常プラス王子


 召喚命令。

 伝令は監視者を見ないよう注意深く目を伏せながら、階段に放置されたままの人形にチラリと関心を寄せた。

 少女は、伝令が踏まないよう避けた場所にある人形を、ないものとして踏みつけ、少しよろけながら蹴り飛ばした。

 再び最下段に落ちて行った人形を無視し、王の待つ広間へ向かった。

「騎士たちの様子はどうだ」

「変わりません」

「そうか。死なせさえしなければ好きにしていい」

「御意」

 一礼。それで終わりのはずだった。

「その手はどうした」

 初めての問い。王は、監視者の手の甲に視線を向けている。

 何と答えれば良いのか。怪我をした、か。刺した、か。それとも両方か。

 少女は自分の手を見た。流血は止まっている。血の塊が跡を残しているだけだ。

「今後は気を付けよ」

 少女の困惑を察したのか、王はそれだけ指示した。

「御意」

 一礼。広間を出て、地下牢へ戻る。そのわずかな道で。

 出会う。

「あの人形は気に入らなかったか」

 またもやあの王子。地下牢への入口を塞ぐように立っている。

「聞いたぞ。ずいぶんと手荒な扱いをしているようだな。お前くらいの年齢なら喜びそうだと思ったが、趣味ではなかったか」

 両隣では警備兵が脇見をしながら、何も起こっていない、起こっていたとしても気が付いていない風情で立っている。

「ずいぶんと待たせたではないか。この俺を」

 王子は段差に腰掛け、少女を真っ直ぐに見上げた。臆することもなく。

「待っている、と言っただろう? なのにお前は約束を違えた」

 少女は黙した。約束。違えた。……理解不能だ。

「なぜ来なかった? 俺は本当に待っていたのだぞ」

 言いながら両隣の兵士を見やる。兵士たちは、ちらと互いを見やり、おずおずと頷いた。

 王子は、ほら見ろというように少女の様子を窺う。

 今度は意味不明。なぜ来ると思ったのだろう。なぜ、待っていたのだろう。

 収監者でもないのに。監視者を待つべきものでもないのに。

「監視者、と呼べばいいのか?」

 王子が僅かに首を傾け、口の端に笑みを浮かべた。少女を見つめたまま。

 少女の困惑を嗅ぎ取ったのか。困惑を知り、自信を持ったとでもいうのだろうか。

「酷い怪我ではないか」

 血の跡を見て、王子が眉根を寄せた。

 少女は吸い寄せられるように見つめた。

 綺麗なものが崩れるさまは、かけがいのない美だ。

「きちんと手当をしろ。傷痕が残るぞ」

 王子が手を取ろうとする。瞬間、少女は手を引いた。

「何だ」

 王子が訳知り顔で笑みを浮かべた。

「男に触れられるのが怖いか」

 再び手を伸ばし、再び少女は手を引いた。

 王子が立ち上がる。今度は少女が見上げる番となった。

 王子が一歩踏み出し、少女が一歩下がる。さらに一歩、もう一歩。入口から遠ざかる。

「怖がるな。安心しろ。傷の手当てをしてやろうというだけだ」

 王子が笑う。にこやかに。すべてを理解したような顔で。

 少女は笑わない。傷の手当など不要。なぜ監視者を構うのか。

 少女は呪いの人形を取り出した。王子とは繋がっていない呪いの人形。

 王子を見据えながら、呪いの人形の右腕を引きちぎった。

 地下牢から、激痛に苦悶する声が響く。

 王子がさっと振り返る。

「何をした?」

 余裕と自信が、戸惑いと僅かな嫌悪の入り混じる、驚愕に満ちた表情に入れ替わる。

 王子を残し、地下牢への階段を駆け抜けた。

 いったい何だというのだろう。あの王子は。監視者を、何だと思っているのだろう。

 だが。

 最後に見た王子の表情を思い出し、少女は笑みを浮かべた。

 苦悶ではなかった。だがそれもまた良い。綺麗な男が見せる、掴みきれない状況に困惑するさまを観察できるというのは。

 右手をもぎ取られ、苦痛に喘ぐ騎士たちを見回した。

 彼らの腕を修繕してやることにしよう。

 握り締めていた左手を開く。引きちぎられた呪いの人形の腕。

 椅子に座り、針と糸を取り上げた。

 腕がなければ騎士たちは失血死する。死なせてはいけない。監視者の務めだから。

 針を刺すと騎士たちは呻き、糸を通すと苦悶の表情を浮かべる。

 一針縫い進むごとに苦痛が進み、騎士たちの出血は止まる。

 呪いの人形の腕が元通り付けられると、騎士たちは疲れ切ったように、それぞれの場所でくず折れた。

 呪いの人形を胸に抱き、少女は冷たいコンクリートに囲まれた床に倒れ伏す騎士の腕に触れた。

 目を開いた騎士が恍惚の表情で見上げる。

「何を望む?」

 答えは一つ。

「傍にいろ」

「願いは叶うだろう」

 騎士は目を閉じた。

 全員と同じやり取りをした。

 鎖に身体を貫かれている騎士は、貫いている鎖に身を預け、

 赤い部屋の騎士は、相変わらず挑戦的な眼差しでガラスの境界に倒れかかり、

 ソファーの騎士は、閉じた目から涙をひとすじ流した。

 騎士たち全員が、監視者の愛を乞うもの。

 監視者は彼らを必要とするもの。

 その均衡を崩す者が、現れたのだ。

 少女は階段下に転がる人形を取り上げる。

 空のままの牢獄…透明なガラスケースの前に立つ。

 無造作に、綺麗な人形を放り込んだ。



 ■興味


 あの少女は男を知らない。

  そういう世俗的な感覚だけで翻弄できるほど、単純ではないのだ、監視者は。

 透き通るような眼差しで、食い入るように自分を見つめ、少しの躊躇もなく真っ直ぐに、大事なはずの薄汚い人形の腕を引きちぎった。あの血まみれの手で。

 同時に響き渡った地底からの叫び声。

 動揺したのは自分。少女は眉一つ動かさなかった。

 自分が取り乱すことを見越していたのだ。監視者は。

 前と同じように隙を突かれた。ひと言も言葉を交わさぬ間に、地下牢へと戻って行った。

 少女への興味は増すばかり。

 少女は何者なのか、

 監視者とは何をする者なのか、

 地下牢で何が行われているのか。

 見つめるだけで人を殺めることができそうなほどに峻烈でありながら、この世の空虚な部分しか見えていないような眼差しに、決して口を開こうとしない、頑なな口唇。

 僅かに見せた困惑の欠片が、心に刺さっている。

 今はひたすらにその欠片を動かし、傷口に痛みを与えることで、少女の面影に触れている。

 その痛みが心地良いとは……

 相当な出血量であっただろう手の甲の負傷。傷の手当てはしただろうか。

 ふいに少女に触れたい衝動に駆られる。

 傷の手当てすらさせない。手に触れることさえできなかった、もどかしさの反動か。

 手の届く距離にありながら、簡単には手に入れられないものを欲しいと願う渇望感。

 それよりも、絶対手に入らないと本能が告げたときの焦燥感が勝っている。

 身体の奥が熱い。胸が絞られるように痛む。

 居たたまれない気持ちが、何かを破壊したいという衝動を掻き立てる。

 あの少女が、監視者が一瞬でも自分に意識を向けてくれたなら。

 たった一言でも言葉を発していてくれたならば、このような感情は抱かずに済んだことだろう。

 なぜ思うようにならないのか。

 たった一人の少女如きに、ここまで感情が乱されるとは。

 翻弄してやりたい。

 自分と同じように、少女にも自分のことで思い悩ませてやりたい。

 ほんの少しだけでも。

 そう願い、祈る。そうやって想いを馳せている。

 あの少女のもとへ。


 散歩に出る。そんな口実で、この数日間に幾度この場所へ来ただろう。

 今は物音一つ漏れ聞こえてこない地下牢への入口で、足を止めた。

 警備兵たちとも顔馴染みになった。

 だが、そんな彼らとて、決して王子を中に入れることは許さない。

 自分を呼ぶ声に、振り返った。

 この国の第一王女。妻にと国王から望まれている女性。

 決して美人とは言えないが、離れた場所から笑顔で手を振る王女が、どことなくあの少女と似ている気がしたのは、少女のことが頭から離れないからだろうか。

 王子は第三王子だった。王位継承第三位。それを引け目に感じたことはない。

 第三王子ではあるが、二人の兄とは違って容姿に恵まれ、体格も良く、努力の甲斐あって学問のみならず武道にも長け、ゆえに他国の王女たちからの人気はすべからく高い。不足はない。

 だが、この国で第一王女たる目の前の女性を妻にすれば、この国で王となる。すぐ上の兄を抜き、長兄の第一王子と対等になるのだ。

 人生を懸けるに値する、魅力的な条件だ。そのために第一王女を愛せよとなれば、大事にすることはできる。

 自分を見上げる第一王女に微笑を与えながら、その視線と気持ちは地下牢へと向いてしまう。

「ここへは入れませんわ。誰も」

 女の勘は鋭い。特に、自分が想いを寄せる相手には。

 王女は腕を取り、地下牢の入口に背を向けさせた。

「誰も?」

 優しく問い返す。

「少女が一人、入っていくのを見ましたが?」

 王女はそれ以上、口にすることは憚られるという様子で首を横に振った。

「あの少女は、どのような立場の者です?」

 何も知らないというような、あえて気軽な調子を装う。

「興味をお持ちになってはいけません」

 頑なな、強い口調。

「しかし……」

 王女が添えている手に力を込め、自分の指を軽く口唇に押し付けてくる。

「興味を持たないで。わたくしだけを見て下さらないと」

 弟をたしなめるかのような態度とは対照的な、男を求める眼差し。

 八歳年上の王女は、年の近い他の王子たちとの縁談には見向きもせず、国王を使い、自分をこの国へ呼び寄せた。

 長い間独り身を通して来た彼女が、引く手あまたの王子を夫として手に入れることは、この国の第一王女として譲りがたいプライドでもあるのだ。

 それを理解しているがゆえに、王子は強気に出る。「貴女の愛するこの国を我が国とすることを厭わぬ私に、知らされぬ事実があるとはいかがなものか」と。

 王子の言葉に、王女は揺らぎを覗かせた。しかし。

「口にしてはならぬ掟です」

 きっぱりと言い切る。詳しい事情を知らないとは言わなかった。

 つまりは、詳細を知る者。

「どことなく、貴女に似ている気がしたのです」

 王女の雰囲気が硬直した。

 蒼ざめた頬を覗き込むと王子は追及をやめ、優しく肩に手を添えた。ただ、それだけ。――愛はない。

 王女は嬉しそうに微笑み、王子は隣にいるのがあの少女だったらと空想しつつ、警備兵が素知らぬ顔で立っている地下牢の入口へ目を向ける。

 次に監視者が王に呼ばれるのはいつだろうか。

 その時はまた、ここへ散歩に来るのだろう。



 ■日常プラス人形


 目を覚ます。たった一人で。いつもと同じように。

 身支度をし、四人の騎士たちのところへ行く。いつものように。

 中心に据えられたテーブルと椅子。そして……透明なガラスケースに放り込まれた綺麗な人形と「待っている」という言葉。

 誰も見ないはずの監視者の目を真っ直ぐに見つめる瞳。

 少女の困惑を知り、満足げな感情を帯びた口元。

 少女を見上げ、監視者を見下ろした。

 あの透明なガラスケースに入った人形と同じく綺麗な顔で。

 この透明なガラスケースに入った人形と同じく、スラリと伸びた長い手足で。

 少女を見つめ、待ち、約束を違えたと責める。

 監視者を待ち伏せし、言葉を並べ、触れようとする。

 収監者でもないのに。

 騎士でもないのに。

 あの王子は少女を待ち、声を掛け、その目は愛を乞う。

 騎士たちと同じように。

 転がったまま監視者を見上げる綺麗な人形を凝視し、見下ろし、ガラスケースに背を向ける。

 騎士たちは、すでに目を覚ましている。

 透明なガラスケースの前に立つ監視者を、観察している。求めているのだ。苦痛という名の快楽を。

 少女が中央に向かって歩くと、騎士たちの視線もそれに倣う。

 呪術の結界に従って、出ることを赦されない、牢獄の境界ギリギリに立ちながら。

 鎖で身体を貫かれた騎士の前に立つと、彼はいつものように突き刺すような目つきで、鉄製のフェンスを力の限り揺らす。

 油を一度も差したことのないフェンスは耳障りな音で喚き、少女はいつもながら僅かに半歩下がる。

 目は真っ直ぐに。騎士から逸らすことなく。

「望みを……」

 この騎士の声は美しい。

 惜しいことに、言葉が極端に少ない。

 監視者を満足させるほどに長くは、声を発しない。

 だから少女は呪いの人形の額を傷付ける。

 この騎士が額に手を当て、天に向かって声を発することができるように。

 苦痛を発する騎士の声に耳を傾け、少女は目を閉じる。

 美しい。

 彼の声は、どの騎士よりも歌を奏でているように心へ響く。

 少女は歌を知らない。ゆえに歌わせることは考えない。

 ただ、天に声を響かせる。それのみ。

 それこそが、少女にとっての美しい旋律。

 あの王子は……

 あの王子はどのような声を発するだろう。

 待っているといい、待っていたというあの声は、どのように苦痛に喘ぐのか。

 どのように、監視者の与える快楽を受け止めるだろうか。

 騎士がフェンスを激しく揺すった。騒がしい音。

 監視者の気を惹くと、騎士は額に手を当て、じっと少女を見つめた。

 額から一筋の血が流れる。拭うこともせず、ただ流れるに任せたまま、騎士は見つめ続ける。

 ひたすらに。

「願いを……」

 心に届く美声。

 少女は目を閉じ、余韻を楽しむ。王子の声を……

 違う!

 目の前の騎士と目が合う。

 騎士が烈火にも似た鋭い視線を、監視者に注ぐ。

 額をかきむしり、流れ出る血を拭い、その手を壮絶なまでの勢いでフェンスに叩きつける。

 少女の頬に血飛沫が降る。

「その男が欲しいか」

 少女が目を見開く。

「連れて来ようか」

 騎士の美声が心へ突き刺さる。初めての長い言葉。

「その男をここへ」

 少女は言葉を失う。初めて。

「我が魂と引き換えに」

 監視者は震えた。少女は目を逸らした。騎士から。

 初めて。

 ポトリ、と椅子に腰を落とした。

 呪いの人形を見つめ、長いこと見つめ、手を振り上げると、思い切り投げつけた。

 投げ出された身体を起こし、ソファーの騎士が歩み寄る。

 割れたガラスの境界に横たわる、監視者の手を離れた呪いの人形。

「私の願いは、」

 騎士が問う前に、少女は自ら願いを口にする。

「お前が傍にいることだ」

 ソファーの騎士と目が合う。

 騎士は呪いの人形に目を落とし、監視者を見る。

 境界から手を伸ばす。

 割れたガラスが騎士の腕を切る。

 騎士の血が呪いの人形に注がれる。

 差し出された呪いの人形を、少女は受け取る。

 どうしてこうなってしまったのか。

 問われる前に、自ら答えを口にするとは。

 何に動揺しているのか。

 どうして気を散らされるのか。

 心が乱れるのは何故か。

 在るべきでないものが、在るから。

 来てはならぬものが、来たから。

 ここに置くべきではないのだ。あの綺麗な人形は。

 あれがすべての原因だ。

「お前の願いは叶う」

 騎士の言葉が背を押した。


 透明なガラスケースから人形を掴み出し、少女は地上への階段を駆け上った。



 ■人形


 テーブルの上に置かれた人形を、長いこと見つめた。

 監視者が外へ放り出し、迷った末に警備兵が届けてくれたのだという。

 戻ってきた人形。

 失意か失望か、それとも後悔のようなものなのか……。

 何であるのか判らない塊が胸の奥に深い渦を巻き、その真ん中に取り除きようのない重さを生じている。

 最初から相手にされず、一度たりとも受け入れられたことはないのに、それを充分判っているのに、完全なる拒絶を突き付けられたことで、こんなにも苛まれている。

「警備兵の話によりますと、このようなことは初めてだそうです。監視者が自ら上がって来て、何かをすることなど」

 執事の慰めなど、雀の涙ほどの癒しにもならない。欲しいのは、あの少女の涙だ。自分に会いたいと、恋しいと流す涙。それこそが手に入れたいもの。だが……

「あの娘は呪われている」

 言葉にすると余計に心が乱される。

「だから、こんなにも苦しいのだ……」

 想いを吐露すると、さらに胸の重力が増す。

 絶対手に入らない少女の涙に、手を伸ばしたくなる。

 執事が黙礼とともに退出し、一人取り残された。

 こんなはずではなかった。こんなにも囚われてしまうはずではなかった。

 あの時、あの少女が足を踏み外したりさえしなければ。階段から転げ落ちながら、悲鳴一つあげず泣き言一つ言わず、誰の助けも得られず、床に倒れ伏してなどいなければ、気に留めることなどなかった。

 痛いと訴え、泣きべその一つくらいかいてくれていれば、おっちょこちょいな少女を助けただけと、すぐに記憶から消し去ることができたはずなのに。

 我慢強い少女が大事そうに抱える薄汚い人形の代わりに、新しいものを与えてやろうなどという気にさえ、ならなかったはずだ。

 拳を叩きつけた。

 あの時、薄汚い人形を手渡した時、ほんの僅かに浮かんだ少女の微笑が、脳裏へ突き刺さった。決して抜くことのできない仕掛けが、施されていたのだ。

 だからこんなにも悩ましく、狂おしい……

 喚きたくなる。声を挙げて叫び出したくなる。あの地下牢の声と同じように。

 だが思い留まる。踏み止まった。かろうじて。

 王子なのだ、自分は。一国の王ともなろうという者。第一王女を妻とし、愛し、この国を治める。そう望まれる立場にある者。一人の少女に振り回されるなど、あってはならぬこと。

 王子は、王となる者は、愛を与える立場の者。愛を乞い、愛を与えられることを望むなど、応しくない。

 立ち上がった。決意を持って。

 戻ってきた人形を掴むと、腕を振り上げた。

 切り捨てろ。

 断ち切れ。

 苦しいなど、二度と口にするな。

 すべてを消し去れ。

 王となるに相応しい男になるのだ。

 だが……

 腕を、そこから先へ動かすことは、できなかった。

 あの少女は悪魔だ。

 言葉にならぬ声が、漏れる。

 悪魔へ与えたはずの人形に顔を埋める。

 監視者という正体も判らぬあの少女が確かに触れた人形だけが、唯一の繋がりを感じさせるもの。

 自ら作り出してしまった。すがりたくなるものを。

 誰にも聞かれぬよう、嗚咽を押し殺した。

 知らなかった。まったく知らなかったのだ。


 愛していると素直に言えぬことが、こんなにも辛いものとは……



 ■ある夜


 目を覚ます。たった一人で。朝ではなく、夜。いつもと違う。

 声が、聞こえた。いつもは聞こえないはずの声。

 騎士たちか。

 違う。収監者たちは夜、眠りにつく。監視者と同時に。

 監視者が眠れば、収監者たちも眠り、少女が起きれば、騎士たちも目覚める。

 繋がっているのだから、当然のこと。

 それなのに聞こえた。聞こえるはずのない声が。なぜだろう。

 少女は床に足をついた。ピタリと。冷たい床。寒さは感じない。

 気配を感じる。階段の上。出入口の近く。明かりはない。

 手すりに手を掛け、じっと見上げる。

 警備兵とは別の、足音。

 一、二、三段上がり、警備兵の槍に阻まれる。

 常ならぬ出来事。

「判っている。お前たちの手を煩わせるつもりは毛頭ない」

 聞き覚えのある声。あの王子。少女の足は二段だけ、上がった。

「どうしたものかと思ってな」

 少しの沈黙。

「下賜したものを突き返されたことなど、一度もない。ゆえに、どのようにしたものかと考えあぐねているのだ」

 下賜したもの。……あの人形。王子の声が、問う。

「黙って突き返されたままにしておくべきか?」

 ひと呼吸。

「放り出した監視者を罰するべきか、とな」

 罰する? 少女は暗がりで、かっと目を見開いた。

 監視者を罰する。違う。監視者とは、罰する側だ。王子は何も判っていない。

 壁に、黒々とした影が映り始める。

 少女には、それが月明かりによるものだとは判らない。ただ、影とだけ認識する。

 王子の影が手にしているのは、放り出したあの人形の影。

 またもや、ここへ持ち込むつもりなのだ。あの王子は。いったい何故、そのようなことをするのか。

 ひたひたと階段を上がる。裸足のまま。今度は、勢いよく。

 絶対に許さない。あの人形を入れることは。

 ここは、監視者と収監者たちの居るべきところ。

 あの人形が在るべき場所ではないのだから。

 少女が姿を見せると、王子の行く手を遮るクロス字に差し出された槍が、カタカタと音を立て震え始める。

 警備兵たちの怯え、恐怖が槍へと伝わっている。

「お前……」

 真っ黒い影でしかない王子の、驚きと切なさと……愛しげな響き。

 愛を乞うべき者ではないのに、どういうつもりなのだろう。

 一歩前へ出る。槍の震えが大きくなる。

「何故これを放り出した?」

 王子の影が、人形の影を突き出す。

「俺が贈ってやったものを、こんなにもぞんざいに扱うとは、ずいぶんと尊大ではないか。監視者とは、王族よりも強い権力を持つとでも言うのか? この国では」

 またもや責める言葉。じっと人形の影を睨む。

 少女に答えはない。

 答えが判らない。判るはずもない。判るのは、これだけ。すべきことだと知っているのは、これだけだ。

 人形の影を掴み、放り投げる。

 中へは、入れない。入れてはならない。

 絶対に。

「お前!」

 今度は怒り。強い怒り。

 それは王子だけのものではない。

 監視者とて同じ。それ以上だ。

 王子の黒い手が伸びる。少女を掴もうと。

「王子様!」

 懇願にも似た制止が、警備兵たちの槍に籠もる。

 王子の黒い手は空を切り、半歩引いた少女の前髪を、ふわりと揺らしたに過ぎない。

「これ以上は、おやめください。どうか!」

 監視者とは、目を合わせてはならないもの。

 口にしてはならないもの。

 耳にしてもならないもの。

 それでも、否定すべきではない存在。

 王子がクロス字の槍を掴んだ。両サイドから、警備兵の手が肩に掛かる。

「伝令以外の者が、この空間に足を踏み入れることはなりません。ましてや監視者に触れることなど、誰にも赦されていないのです。王様ですら」

 そうなのだ。

 監視者。そう呼ばれるようになってから、少女は誰からも面倒を見て貰ったことがない。

 常に一人。傍にいるのは収監者のみ。

 監視者とは、そういうもの。

「なぜ触れてはならぬ」

 少女は不思議な言葉を聞いた。

「触れることが赦されぬのならば、誰がこの者を愛してやる? 誰が、この者を抱き締めてやるというのだ? いったい誰が!」

 黒い影でしかないのに、王子の視線が感じられる。熱くて、痛い。

 痛い? 痛み。これが……。これまで、感じたことがないもの。

 別の影が現れ、背後から王子に手を回した。

「王子」

 慰めるような制止。優しく穏やかな声。

 少女が、聞いたことのない類のもの。

 それを乱暴に振り払い、王子は槍越しに身を乗り出した。

「お前はそれで良いのか。誰からも愛されず、誰からも触れられず、誰からも気に留められないまま過ごす日々で。寂しいときに寄り添ってくれる人もおらず、慰めが欲しいときに抱き締めてくれる人もなく、流す涙を拭いてくれる人がいないままに、監視者として生きるだけで。それで良いのか?」

 何なのだろう。この問いは。どうしたのだろう、この王子は。

 混乱、錯乱、困惑。意味不明の言葉の羅列。耳にしたことのないものばかり。

 それなのに、判ることもある。感じる。

 王子の怒りと、もどかしさ。切なさと、優しさ。狂おしいほどの…何か。

 何かとは、何だろう。

 熱くて、重いもの。動かしがたいもの?

 判らない。判らない!

 トンッと背中が壁につく。

 いつの間にかしていた、後ずさり。

 座り込む。騎士たちのように。

「どうなのだ?」

 さらなる王子の追及。おろおろする警備兵たち。

「王子。彼女は監視者なのです。呪いと赤子で紡がれた――」

 またもや聞き慣れない言葉。

 少女は静かなる声の主、王子を慰める者を見上げた。

「呪いと赤子……?」

 少女の心中と同じ言葉が、王子の口から発せられる。

「何なのだ、それは……?」

「戻りましょう。続きはお部屋で」

 しばし少女を眺めたのち、王子は掴んでいた槍を離した。

 警備兵の安堵。階段を下りて行く、王子。

 少女は立ち上がった。

 警備兵たちの槍が、再びカタカタと音を立てる。

 振り返る王子。

 目が合う。

 眼差しが苦しげで、痛みを帯びている。

 月明かりに照らされる王子は、かくも美しい。

 少女は、耳障りな音を立てる槍を掴んだ。

 王子が聞かされる、続き、とやらが知りたくて。

 王子の放った言葉の意味が、知りたくて。

 しばらく立ち止まり、少女を見つめていた王子が、ふわりと笑った。

 切なげに、哀しげに、寂しげに。

 そして、言った。

「ここでお前の名を呼ぶことができれば、少しは心を乱せたかもしれないのに――」

 目を伏せる。ため息とともに。

「おやすみ」

 執事に促され、歩み去る背中。

 おやすみ。――言葉の意味は知っている。言ったことはない。言われたのも、初めて。

 おやすみ。――さりげなくて、穏やかな響き。

 今度、騎士たちに言ってみようか。「おやすみ」と。



 ■問い


 朝が来る。

 身支度をし、四人の騎士たちのところへ行く。いつものように。

 周囲を牢獄に囲まれた中央スペース。

 中心に据えられたテーブルと椅子。監視者のもの。

 椅子に座らせていた呪いの人形を手に取る。

 汚れてボロボロになった呪いの人形。騎士たちと繋がるものを眺める。ぼんやりと。

 ずっと頭を支配している、王子の言葉。

 誰からも愛されず、触れられず、気にも留められず。寄り添ってくれる人も、抱き締めてくれる人も、涙を拭いてくれる人もいない。それで良いのか、という問い。

 つまりは、誰かに愛され、触れられ、気に留められ、寂しいときに寄り添ってくれる人がいて、慰めて欲しいときに抱き締めてくれ、流した涙を拭いてくれる人がいる、ということなのか。あの王子には。

 だが、監視者にはすべて不要なもの。

 監視者とは、見られることも、触れられることも、気に留められることもない存在。

 監視者とは、寂しさなんて感じない、慰めも要らない、涙など流さない。そういうもの。

 それを、あの王子は判っていない。

 だが、少女にも判らないことができた。

 監視者は呪いと赤子で紡がれた。その意味が。

 お前の名を呼べたら、少しは心を乱せたのか――。その意味するところが。

 あの王子は知ったのだろうか。呪いと赤子で紡がれた監視者のことを。

 呪いと赤子で紡がれた監視者の、名前を。

 牢獄の前に立つ。

 ソファーの騎士も立ち上がる。少女を見つめながら。

「お前の願いは何だ?」

「お前の――」

 声が、掠れる。割れたガラスのあちこちについた、血の跡が目に入る。この騎士が傷付き、流した血の渇き。

「――名前を教えろ」

「ル・リアン」

 少女は騎士を見つめた。あるのだ、名前が。ないと思っていた、騎士でも収監者でもない、名前が。

「ル・リアン……」

 少女の呟きに、騎士は喜悦の表情を浮かべた。王子の意味していたことは、これなのか。

 王子が少女の名を呼び、名を呼ばれた少女が喜悦の表情を浮かべる。この騎士と同じように。

 名を呼ばれて喜ぶ? 誰が? 自分が?

 手にした呪いの人形の首を、ぎゅっと握った。

 騎士が首に手を当て、もがく。少女をじっと見つめながら。

 少女は騎士を睨むように見ながら、さらに強く、力を込める。ル・リアンという名前を持つ、騎士を。

 少女に向かって手を伸ばし、騎士は膝から地についた。伸ばした手が境界の割れたガラスに触れ、騎士の腕から血が迸る。

「お前の願いを言え」

 苦しげな息の下、騎士が床から少女を見上げ、問う。

「お前が傍にいることだ。ル・リアン」

 騎士が腕を少女に向かって伸ばす。溢れ出る血が、騎士へと降り注ぐ。

 騎士は恍惚の光を帯びた瞳で、少女に微笑む。

「お前の願いは叶う」

 少女も微笑した。

 監視者は一人ではない。収監者たちが居る。騎士たちの苦痛と愉悦が、その証だ。

 傷付きながら自らの血を浴びる騎士は、とても美しい。

 騎士たちの与える満足感に身を委ねながら、少女は初めて問いを抱く。


 自分にもあるのだろうか。監視者とは別の、名前、が。



 ■禁忌


 監視者は、先の大戦おおいくさの最中に生み出された。赤子と呪いを紡ぐという呪術を使って。

 目的は、兵士に二つの選択肢を与えるため。

 居残り、監視者の罰という残虐行為を受けるか。前線に立ち、全力で戦うか。

 監視者の残虐性を目の当たりにした兵士たちは競うように前線へ出て行き、次々と勝利を収めた。

 つまり監視者とは、今あるこの国の姿の礎。


 執事のもたらした情報は、これが全てだった。

 礎ならば、なぜ存在を隠す?

 祖国への貢献者が、なぜ今も監視者を続けているのか。

 掛けた呪術を解術しないのは、なぜなのだろう。

 少し知ると、さらなる疑問が湧く。

 なぜこうなのだ。少女への興味は募るばかり。少しも満たされた気分になることがない。

 もっと知りたい。何でも良い。もっと、もっと。


「素敵なものばかり。悩ましいわ。王子、どれが良いかしら?」

 部屋いっぱいに並べられた、ドレスやら装飾品やらの煌びやかな品々を前に浮き立つ第一王女の声で、我に返った。

 はしゃぐ王女に笑顔を向けると、隅に置かれた小さなドレスに目が留まった。

 あの少女にぴったりだろう。そんなことを思ってしまう。

「お気に召しましたか。王子様」

 商人は目ざとい。一歩歩みを寄せると、客向けの笑顔で見上げた。

「お国にはいらっしゃらないと噂を耳にしました。こちらの王女様とお見合いをされていると。ですが、」

 商人は言葉を繋ぐ。

「あれは少しばかり、お小さいかと存じます」

 何かを伺うような面持ち。

「第一王女様には」

 苦笑いをするにも値しない。

 商人たちは得てして噂好きだ。国から国へと渡り歩き、噂を耳にし、口にする。そうやって、品物ばかりでなく情報をも流通させる。

 ふと目を上げた。

 第一王女様には……? さらりと流した商人の言葉に、含みがあったような。

 噂。情報。なるほど。この者たちならば、もしかしたら。

 王子の胸に微かな期待が芽生え、新たな噂を求める商人を見やった。

「ならば、なぜあれがここにある?」

「ご先約がございまして」

 そこで意味ありげに言葉を切る。

「第一王女様にお預けするように、と」

「預ける。何のために?」

「これ以上は……。詳細は控えるよう、申し受けております」

 目が合う。商人は嗅ぎつけたのだ。金の匂いを。王子が、商人の知る情報に金を払うだろうと。

「良かろう。今日、お前が一番売りたい品は何だ」

 商人の顔が輝いた。胸元から袋を取り出すと、大事そうな手つきで中身を取り出した。

「東洋の神に奉仕する者たちが磨き上げた石を使って作られた品でございます。実際、東洋では神に捧げるためのものであるとか。ゆえに、王族の皆さまだけにお売りすることが相応しいと決めておりましたものでございます」

 翡翠と瑠璃の色合いが見事で目を惹きつけられる、神秘的な雰囲気さえ漂う首飾り。

 商人がわざと声を潜めた。

「第一王女様は緑色を好まれます。それと、見目麗しい男性からの贈り物を」

 今度ばかりは、苦笑せざるを得なかった。

「お前の望みは叶えた。俺の望みは理解しているな」

「はい。知っていることであれば何なりと、お答え致します」

 王子は執事に向かって頷いた。

「あとでこの者が支払いをするゆえ、取りに来るが良い」

「ありがとうございます」

 首飾りを受け取る。


 第一王女は、王子が自分の好みを知っていたことに感激し、まるで生まれて初めて贈り物を受けたかのように喜んだ。

 その笑顔が少女のものであったなら。そう思ってしまう気持ちを、どうしても止められないでいる。


 **********


 話を終えた商人は、さらなる品物の購入を願い、王子は受諾した。

 商人が置いて行った、珍しい菓子と小さなドレス。あの少女のためのものだ。

 本来ならば、第一王女へ納品されるべきものの、一部。

 執事はそれらをどうするのかと、さきほどから王子の傍で待機している。

 王子はそれらを眺めながら、どうしたものかと思案していた。

 少女へ直接渡したい。それが本心だ。だが正攻法では上手くいかないと、すでに理解している。

 ならば、本来手にするはずであった第一王女へ渡すのが最良であろう。


 初めて部屋を訪れた王子を、第一王女は嬉々とした様子で出迎えた。

 王子が人払いを求めると、恥ずかしそうに俯いてみせ、承諾した。

 さきほどとは違うドレス。

 少しばかり開き過ぎと思われる胸元には、贈ったばかりの首飾り。それに触れながらもう一度礼を言い、首飾りをどれだけ気に入ったかについて、第一王女はひとしきり話している。

 その目は王子の視線が胸元に注がれることを求め、確認し、その口唇は王子の指先になぞられ、重ねられることを意識していた。

 第一王女のあからさまな欲望に応えることは簡単だ。

 自分を見上げる第一王女の腰に手を回し、優しく引き寄せる。身体が密着するように。

 王女は驚いたように目を見開き、それはいけませんというように少しだけ顔を逸らす。だがドレス越しとはいえ、密着した部分から伝わる熱は隠しようがない。頬に手を添えこちらを向けさせ、そのまま口唇を重ねる。王女の熱望する通り、あなたが欲しい、あなたを手に入れたいという男の願望を示すために、少しばかり激しく。奪うかの如く。そして耳元で囁く。

 あなたは綺麗だ、あなたを抱きたい、今すぐ、ここで。

 王女は拒否するかのように身をよじる。本気ではなく、軽く。その軽い拒絶に不安を覚えたように動きを止め、僅かに身体を離す。そして呟く。

 だめ、ですか?と。

 王子に抱かれることを望む王女は、それを否定する。ゆっくりと首を横に振って。

 今度は王女のほうから身を委ねる。積極的に。

 王子が、若い欲望を抑えきれなくなるように、いざなう。

 年上の王女は手に入れる。年下の王子の身体を――

「気に入って頂けて良かった」

 第一王女のあからさまな妄想に、王子は背を向けた。王女の仕掛けた罠には嵌らない。

「一つ、お預けしたいものがあるのです」

 人払いを願った真の目的は別にあると、暗に匂わせた。執事の置いた箱を目で示しながら。

 軽い失望とともに、第一王女は箱に目を向け蓋を開ける。中身を取り出し……硬直した。

「わたくしには小さすぎますわ」

 ひきつった笑顔。

「判っています」と王子は頷いた。

「あなたが届ける際、一緒にお渡し頂きたいのです」

 第一王女は唾を飲み込んだ。

「あなたの妹君、第五王女に」

 王子はじっと真っ直ぐに、硬直したままの第一王女を見つめた。


 そう。監視者たる少女は、この国で五番目に生を受けた王女だった。

 出生直後に呪術師の下へ送られたのだ。赤子と呪いを紡ぎ、監視者とするために。

 純粋無垢な赤子に、心体の痛みを一切排除するという禁忌の呪術を施した。

  残虐性を最大限引き出すために。

 戦いに及び腰な兵士に戦地以上の恐怖を与え、祖国に勝利をもたらす目的のためだけに。

 こうして第五王女は、残虐行為を至上の快楽とする嗜好を編み込まれ、四人の騎士を従える監視者となった。

 禁忌の呪術は、編んだ者にしか解けないという。まさに、監視者となった少女の最初の犠牲者は、禁忌の呪術を編み込んだ呪術師本人だった。

 ゆえに少女は抜け出せない。残虐な嗜好から。編み込まれた呪いから。縛り付けられた、悲運から。

 禁忌術が、禁忌たる所以の結末だった。

 卑劣な手段で勝利を手に入れた王国は、戦終了と同時に、今度は自らが監視者の残虐性に怯えることになった。

 解術されない呪術は、宿主の落命と同時に外界へさまよい出る。新たなる宿主を求めて。

 残虐な嗜好は、誰かを介して繰り返される。解かれるまで。

 永遠に。

 解術できず、落命させることもできない。少女は少女のまま、監視者として生き続ける。

 永遠に。

 祖国の礎として、王国の大罪として。赦されることなく、解放されることもない。

 永遠に。

 それこそ、禁忌術が禁忌たることの真髄なのだ。


「我が国に王女は四人しかおりませんわ。ご存じでしょう?」

 引きつった笑いで誤魔化そうとする第一王女に浮かぶ、それ以上は何も言わないで欲しいという懇願の眼差し。

 だが王子は、それを良しとはしなかった。

「では言い換えましょうか」

 第一王女と真正面から向き合う。

「監視者に、と」

「何て酷いことをおっしゃるの!」

 第一王女は懇願をやめ、怒りへと矛先を変えた。

「わたくしに他の女への贈り物を託すなんて! 無礼極まりないことよ!」

 手にしたドレスを王子に向かって投げつけた。癇癪ごと。癇癪の裏にある秘密ごと。

「出て行きなさい! それを持って! 今すぐに!」

 顔に掛かったドレスと箱を手にした。ドアに向かって歩き出すと、第一王女が背中に言葉をぶつけてきた。

「一度だけチャンスを与えるわ。反省して謝罪をする気になったなら、今夜十二時、この部屋にいらっしゃい。もちろん一人で」

 王女を抱きに来い、ということ。抱かずとも、同じ部屋で夜を明かすだけで、既成事実は王子を縛る。

「来なければ、この縁談は破談にするわ。あなたは本国へ戻り、二度と我が国へ立ち入ることは赦されない。いいこと?」

 二度と、あの少女に会うことは叶わないということ。見ることすらも。

 その言葉が思いのほか重い。ここへ来るべきかと、瞬間考えてしまうほどに。

 ドアが開き、執事がドレスと箱を受け取った。

 王子は振り返らない。

 第一王女が抱く自分への未練を、全身で感じ取ることができた。

 少女への想いを断ち切れない王子には、第一王女の心内が手に取るかのごとく、判る。



 ■十二時


 目を開ける。数日前と同じように。夜。たった一人で。

 眠ってはいない。眠れない。王子が来たあの夜から。ずっと同じ。

 起き上がり、階段の下へ行く。裸足で。ひたひたと。

 耳を澄ませる。声がしないかと。あの、王子の声が。

 階段に座り込み、足を抱える。冷たさは感じない。それなのに、手で触ると冷たい。

 騎士たちは大人しい。眠ってはいない。監視者が目覚めれば、騎士たちも目覚める。

 監視者が眠れなければ、騎士たちも眠れない。監視者と繋がっているのだから、当たり前のこと。

 目を開けた。

 目を開けた? いつの間にか眠っていた。階段で。

 背筋を伸ばす。

 鼻先を匂いが掠める。嗅いだことのない匂い。なんだろう。

 見上げる。階段の上を。そして、上がる。ぴたぴたと。

 出入口付近で、少女は奇妙なものを見た。

 眠り込んでいる二人の警備兵。その間に座り込んでいる、王子の背中。

「やっと来たか」

 振り返った王子の手にあるのが盃だとは、少女には判らない。

 昼間の出来事にふてくされた王子が酒を持ち込み、二人の警備兵を巻き込んで酒盛りを始め、泥酔した警備兵たちが眠り込んでしまったのだとは、思いも寄らない。

「お前も来い。ここへ座れ」

 王子の手招き。

 少女は動かない。ただじっと、初めて見る光景に目を奪われる。

 酔った王子が月明かりを受け、だらしなく座り込む姿は何となく……面白い。

「俺は見合いをしに、この国へ来たのだ」

 唐突に言い、出入口の壁に背を預け、片膝を立てる。

「お前の姉と、な」

 姉、とは何なのか、少女には判らない。

「お前の姉は、俺を愛している。だが俺は、お前の姉を愛せない。なぜだか判るか?」

 少女に判るはずがない。

 王子は膝に頬杖をつき、動かないままの少女を見やる。

「判るか? なぜなのか」

 再度の問い。

 なぜ王子は、監視者が答えを知っていると思うのだろう。

 お前の姉とやらを愛せない理由が、少女に判ると考えるのだろう。

 少女は無言のまま、理解できない問いを重ねる王子を見た。

「判らないとは言わせないぞ」

 王子がトンッと床に手をついた。

「俺の気持ちが判らない、とは……!」

 身を乗り出した王子の瞳は激しい何かを帯びている。狂おしいほどの……痛み?

 少女は惹き寄せられるように見つめた。

 痛みを帯びた王子の瞳は、美しい。

 なぜ痛みを帯びているのか、などは関係ない。

 ただひたすらに、痛みは美しさを生み出すもの。

「お前の目には今、何が映っている?」

 じっと少女の目を見据えながら、王子が立ち上がる。

「俺か? ちゃんと、この俺の姿が映っているのか? それとも、俺をすり抜けた暗い闇しか見えていないか? どうなんだ!?」

 王子が一歩足を踏み入れる。こちら側へ。

 少女は目を見開いた。

 伝令と騎士以外の者が、この場所に入るなど赦されないのに。決して、決して!

「王子!」

 悲鳴が聞こえ、少女は一人の女性が王子にすがりつくのを見た。

 女性は必死で、少女のいるこの場所を守ろうとしている。王子を、ここから引きずり出そうと。

「入ってはいけません、王子!」

 王子は、すがる女性を払いのけ、さらに一歩、少女へ歩みを寄せる。

 激しい瞳で。少女を見つめ、手を伸ばす。

「触れないで、王子! その子に触れないで! 触れてはいけません!」

 少女と王子の間に割り込み、女性は全力で王子を外へ押し出した。

 勢い余った王子と女性は、三段しかない階段の下へと転がり落ちた。

「王女。何をしに来たのですか。俺はあなたの元ヘは行かなかった。約束の時刻、ここに居た。それが俺の答えです。同時に王女。あなたの答えともなったはずです。俺との縁談を破談にし、国外へ追放するという」

 呻くように言い、天を見上げた。

 そんな王子の姿を、王女は哀しげに見つめている。

 二人をじっと眺める少女に、王女は突然牙を剥いた。階段を駆け上がると出入口に手を掛け、刺々しい言葉を投げつけたのだ。

「お前は何でそうなの? わたくしの大事な者を奪い取る! 何度も何度も! ここへ来る王子たちの心を奪って、わたくしのところから立ち去らせる!

 そうやってわたくしを傷付ける。わたくしに痛みを与える。いつも、いつも!」

 少女は、王子から王女と呼ばれる女性をじっと見た。

 王女に痛みを与えたことはない。一度も。

 監視者が痛みを与えるのは、収監者のみ。

 少女が痛みを与え、それを望むのは騎士たちだけなのだから。

「彼女を責めるのはやめて下さい。監視者として生きることを選んだのは、彼女自身じゃない。押しつけられただけだ。それは判っているはずです」

 反論できない真っ当な理屈。

 王女は怒りの表情を浮かべ、王子を睨むように見た。

「この子を監視者にしたのは、わたくしではないわ。でもわたくしは、この子から痛みを与え続けられている。愛する人を奪われ続けているの。わたくしが最初に愛した人は、今もずっとこの子といる。この地下牢に」

「どういう意味です?」

 少女の心の問いと、王子の問いが重なる。またもや。

「監視者に従う四人の騎士は、わたくしたち四人の王女それぞれのお気に入りだった者たちなのよ。彼らを、監視者は取り上げた。この子が連れ去ったの」

 王女の声が涙を帯びる。

「今回ばかりは我慢できないわ。あなたを愛しているの。これまでの誰よりも、ずっと。だから諦められない。手放したくない。奪われたくないの、あなたを!」

 泣き崩れる王女を、少女は眺めた。

 なぜ王女が泣いているのか判らない。

 四人の騎士たちを取り上げたとは、どういうことなのか理解できなかった。

 だって彼らは収監者。罪を犯し、牢獄へ入れられた者たち。

 それを少女が連れ去ったとは、何を言い出すのだろう。

 でも収監者について深く知ろうとはしない。

 監視者とはそういうもの。

「表へ出て来ないで」

 王女が言う。

「二度と、王子の前には姿を見せないで! わたくしの前にも!」

 王女の言葉が自分へ向けられていることは、理解できた。

 監視者は誰の目にも触れられないもの。

 もっともだ。

 少女は地下牢への階段に目を向けた。

「待て」

 呼び止める王子の声。引き留める王女の姿。

「行って!」

 促す王女。

「まだ話は終わっていない」

 またもや足を踏み入れる王子。それを少女はチラリと確認する。

「行きなさい、早く!」

 王女までもが、またもや足を踏み入れた。なんて二人だろう。

「待て!」

「行くのよ! 地下に! 戻りなさい!」

 転がっていた警備兵の槍で、ドンッと背中を押される。

 階段を降りかけ、宙に浮いていた足を踏み外す。一気に下まで転がり落ちた。

「何てことをするのですか、王女!」

「あなたが自制しないから。あの子に触れたら、取り返しがつかなくなるの。触れてはいけないのよ、監視者には」

「だからと言って、問答無用で突き落とすとは――」

 冷たい床を、背中が感じ取る。痛みはない。

 言い争う二人を見上げ……王子と目が合う。

 言い争い、苦悩、心配。色々な感情が混ざり合い、複雑な思いに心乱された、美しい顔。

 それもまた良い。

 微笑しかけた少女は、信じられないものを見た。

 王子が、階段を下りてくるではないか。一歩、また一歩と。

 足元がおぼつかないのは、深酒のせいだとは判らない。

 ただ、危なっかしい足元に目が吸い寄せられる。

「行ってはダメ! 降りてはいけません、王子!」

 王女が引き留める。王子は耳を貸さず……最後の一段を、踏み外した。

「王子!」

 王女の悲鳴。少女は……硬直した。

 すぐ目の前に現れた王子の顔。

 起き上がりかけた少女に、覆い被さるような格好の王子。

 かろうじて少女を下敷きにすることは免れたというのに、王子はそのまま動こうとしない。少女を見つめたまま。

 じっと見返す少女。……王子の瞳が、色を帯びる。

「ずっと、こうしたかった――」

 少女は戸惑う。意味が、判らない。王子が何を言っているのか。

 判るのは、こんなにも誰かと近付いたのは初めてだということ。

 それが不快ではない、ということ。

 そして、自分が目を丸くしているということ。

 王子の顔が、さらに近付く。

 触れるほどに。

 なぜだろう。鼓動が早まる。そして……

「目を閉じろ」

 囁き声で下される、王子の命令。

 命令――?

 ここは地下牢。地下牢の主は監視者。

 監視者は少女。命令を下すのは、監視者たる少女のはずなのに。

 王子の身体を跳ね除けようとしたとき、王女の悲鳴が迫る。バランスを崩した、足音と共に。

「王女!?」

 振り返る王子。落下してくる王女の身体。受け止めようと、反射的に王子が手を伸ばす。

 すべてが、ゆっくりと動いた。

 少女は立ち上がり、二人を見下ろした。

 王女は無事だが、下敷きになった王子の容体は、どうだろう。

「王子、大丈夫?」

 王女に支えられ、王子が起き上がる。

 左肩を押さえて呻く。怪我を負ったのか。

 少女は笑みを浮かべた。監視者のテーブルへと歩みを進める。

 痛みを堪えた王子は、やはり美しい。

 これまでとは違う満足感。

 王子の美貌は別格なのだ。

「王子。早くここを出ましょう」

 王女の焦り声。だが、王子のゆっくりした足音は、少女へと近付く。

 少女が振り返る。

 王子は騎士たちのいる牢獄を見回し、騎士たちはそれぞれに境界まで歩み寄る。

 何ということだろう。

 収監者でもないのに、許可も与えられていないのに、監視者の立つべきところに足を踏み入れた!

 赦されるはずもない行為!

 少女は呪いの人形に手を伸ばす。

 気付いた王子が少女に歩み寄り、少女は後ずさる。

 王女が王子を引き戻そうと叫ぶ。

 少女は、手にした呪いの人形の首を、思い切り握り締めた。騎士たちがのけぞり、一斉に苦痛の声を挙げる。

 王子が驚愕の表情を浮かべ、王女が耳を塞いで悲鳴を上げ、うずくまる。

 少女はほくそ笑む。さらに左脚を折る。騎士たちの呻き声。

 王子は息を飲み、眉間にしわを寄せながら牢獄を見回し、額に手を当てる。

 苦痛に呻く騎士たちの声が、王子にも伝わっているのだ。

 これこそ、この上ない愉悦。

 満足感に浸る少女に、王子の視線が真っ直ぐ注がれる。

 少女は笑みを引っ込めた。

 何なのだろう。この王子の瞳は。

 驚きだけではない。騎士たちとは違うもの。

 視界の端で、何かが動く。

 王女が気を失い倒れ込んだことに、少女の視線で王子が気付く。

 助けることにしたのか、ようやく監視者の場所から離れた。

 肩の痛みを堪えて王女を抱き上げ、振り返る王子。

 何かを問いたげな目つき。

 だが、何も言わずに階段を上がって行った。


 少女はポトリと座り込んだ。

 いつも通りの、静けさ。

 初めて聞いた、王子の呻きが耳に残る。

 驚愕、痛み、不可思議なものを見たという目つき。

 ただ一つ判らないのは、あの時のこと。あの言葉。

 ずっと、こうしたかった、とは何を意味するのか。目を閉じろ、とは……?

 今は静かになった鼓動。

 胸に手を当て、空のガラスケースに目を向ける。

 歩み寄り、透明な境界に手をつく。

 あの王子はここへ来る。きっと。

 少女は笑みを浮かべた。


 最後の牢獄へ入るのは、禁を犯したあの王子だ。



 ■愛を乞う者


 地下牢とあの少女。監視者と収監者たち。少女の手にした人形に反応し、響き渡った苦悶の声。

 少女を取り囲むように配置された牢獄の中には、誰の姿もなかった。

 だが、確かに聞こえたのだ。苦痛に喘ぐ、叫喚が。

 驚愕が過ぎ去ると新たな疑念が湧き、不満だけが残された。

 満たされない思い。与えられることのない、明確な答えを欲しいと切に願う。

 新たに判ったのは、第一王女が長い間独り身なのは、王女自身の願いではなかったということのみだ。

 王女が見向きもしなかったのではない。ここへ呼ばれた、他の王子たちが見向きできなかったのだ。恐らくは、今の自身と同じように。

 姿の見えない収監者。彼らはいったいどうなったのだろう。

 少女と同様に、呪術によって何かしらの影響を与えられたと推測するしかない。他に、考えようもない。

 第一王女は言った。収監者たちは四人の王女それぞれのお気に入りだったと。

 第一王女が最初に愛した男が地下牢にいる。残りの者は、残りの王女たちの愛した男たち。第一王女と見合いをした他の王子たちは、地下牢にいない。

 つまり、この国を出れば、監視者のことは忘れることができる、ということなのか。

 そうすべきなのかもしれない。いや、そうすべきなのだろう。

 痛みを理解できず、残虐な嗜好を悦とする少女の傍にいることはできない。

 禁忌術を編み込まれ、呪術で収監者を操る監視者に近付くことは危険だ。

 耳にしたあの叫び声。苦痛に喘ぐ喚き声。それらの一つに自分がなることなど、考えられようか。

 そう頭では理解している。理性は、そう判断する。当然の如く。

 それなのに心が苦しい。辛いと喚く。

 一瞬、あんなにも近くにいたのに、結局触れることは叶わなかった。

 少女に触れたいと、少女に望まれたいと、感情が叫ぶ。

 自分を罵る言葉でもいい。拒絶するものでも。何でも良いから、聞きたかった。

 少女自身の言葉を。少女の、声を。

 出るのは、溜息ばかり。浮かぶのは、他愛ない妄想ばかり。

 いったい自分はどうすれば良いのか。どう、すれば……

 やりきれない思いとともに目を向けた。自分の胸に顔を埋め、止むことなく泣き続け、離れようとしない第一王女に。

「王子様のお衣裳が汚れてしまいます」

 そう言い含め、離れるよう進言する侍女の言葉にも耳を貸さず、ただ泣き続けた。

 困ったように自分を見上げる侍女に頷いて見せ、しばらくこのままで良いと許可を与えてから、しばらく経つ。

 少女を階段から突き落とし、気を失うことで二人を引き離すことに成功した王女が恨めしくありながらも、一概に突き放すことができずにいる。

 送り届けた王女の部屋。とうに退出した侍女に、残された王子と王女。

 外には執事が待機しているが、このまま夜を明かせば、王女の望む既成事実が出来上がってしまう。

 判っていながらも、愛する者を失い続けたと、これ以上愛する者を失うのは厭だと嘆き続ける王女を一人、放置して立ち去ることができないでいる。

 意に添わない結果を招くだけの愚かなことだと、己を戒めつつも。


「王女」

 頃合いを見計らって、そっと肩に手を置く。

 王女がいやいやと首を振り、掴んだ手に力が籠もった。

「行かないで」――懇願。

「しかし……」――躊躇。

「このまま、ここに居て」

「ですが……」

 王女が顔を上げる。涙に濡れた目。悲しみ。その目に、ふいに小さな意が宿った。

「わたくしに、あの子のような残虐さはないわ。あの子との違いは、それだけよ」

 王女の決意に、王子は息を飲んだ。

 柔らかい口唇が押し当てられ、優しい手が柔らかく、羽根のように胸板を撫でる。

 この状況を受け入れてしまう前に、王女を止めなくてはならない。

 酔いの残る意識に、積もり積もった満たされない思い。理性を失いかけた身体をコントロールするのは、いつも以上の強い意思が必要だ。

 このままでは、流される。完全に。

 この流れを止めようと王女の手を握った。瞬間。

「目を閉じて」

 王女の言葉が、王子の拒絶を封じ込める。

「わたくしを、あの子だと想像すればいいだけ」

 甘言とともに素肌を探し当てる手のひら。押し当てられる、ふくよかな姿態。与えられる、本能への強い刺激。

 王子は深呼吸を一つ、した。

 今立っているのが最後の砦だ。これ以上踏み出せば落ちるだけ。引き返せない。絶対に。

 それなのに……

 委ねてもよいものか。

 抗うべきか。

 生じる迷い。判りきった答え。

 王子は自分を呪った。己の不甲斐なさを。なすすべもなく、揺らいでしまう自身を。

 これは、満たされぬものの代替でしかないというのに。


 だが、本能は理性を奪う。


 **********


 女の身体を感じる。目を開けずとも判る。相手が第一王女であることは。自分の犯した過ちは。

 後悔しているか。そう問えば、自然と答えは浮かぶ。後悔していると。激しく、悔いていると。心が引きちぎられるくらいに。

 どうすれば時を戻すことができるだろう。どうすれば、なかったことにできるのだろうか。

 だが、すぐに王子は悟った。無駄な足掻きだと。王女が目を覚まし、自分を見ていることを感じ取り、目を開いて、この言葉を聞いた瞬間。

「おはよう、あなた」

 幸福に満たされた、第一王女の顔。

 この微笑みが、あの少女であったらという切なる思いを抑え込み、王子は微笑み返した。無理やりに。

「後悔しているのでしょう?」

 女は残酷だ。秘め事のすぐ後で、男の真意を突き、動揺させることができる。他の女に勝ったという優越感と満足感に浸りながら。

 これは単純な確認作業。この期に及んで、答えは一つしかない。

 王女はそれを知り、求めている。後悔などしていない、という王子の言葉を。

 自分をあの少女だと思って抱けと命じながら、受け入れた王子に現実を突き付ける。

 あなたが抱いたのは少女ではないのよ、と。

 王女の言葉で、胸を掻きむしりたい衝動に駆られる。胸を引き裂き、湧き起る激しい後悔を掻き出してしまいたい。同じ後悔ならば、必死で引き留める王女を突き放して、あの少女を抱き締めてしまったほうが、よほど幸せな苦痛だったはずだ。

「後悔、しているのよね?」

 誘うように脚を絡ませ、上半身を指でなぞり、上目遣いで意を確認する王女。

 再び王子の欲望に火をつけ、否定の言葉を確実に消し去ろうとする王女の本能。

 第一王女は手に入れた。既成事実ではなく、確固たる事実を。それを与えたのは王子自身。だが。

 少しばかり反抗心が湧き起こった。

 第一王女は、すでに男を知っていた。それも、一人ではないと断言できるくらいに。

 ゆえに年上の女性に籠絡されたのだという、甘えと言い訳が浮かんだ。

 だから、ぶっきらぼうに言い放った。わざと。王女を怒らせる意図で。

「本心を聞きたいのですか。今、ここで」

 王女がクスリと笑う。余裕のある証拠。

 翻弄されているという証拠を突き付けられて、王子はカチンときた。

 上半身を起こすと、乱暴に王女を組み敷いた。両手を押さえ込み、驚いた表情の王女を上から覗き込み、何も言わずに見つめる。絡められた脚を利用し、今度はこちらが王女の本能を刺激しながら。

 一気に紅潮する頬。恍惚とし始める王女の眼差し。

 自分を求める言葉を合図に、こう告げた。

「俺が抱くのは貴女じゃない。俺が抱くのは、貴女の妹だ」

 王女の顔が一気に蒼ざめる。

「俺が愛しているのは――」

「やめて!」

 王女の目が怒りに燃えた。

「それ以上言ったら、あなたを処刑させるわ」

「何の罪で?」

「わたくしを穢した罪よ」

「穢した……」

 王子は呟き、笑う。笑いながら起き上がった。あまりに可笑しくて、笑いが止まらない。

 妹王女を愛したら罪。姉王女を抱いても罪。この国へ来たばかりに、目に見えないものに絡め取られ、身動きできなくなっている自分が可笑しくて堪らない。

 情けなさも憐れみも嘆きも、すべてを放り出して、笑うしかないではないか。

「処刑するがいい」

 簡単に身支度をし、王女を振り返る。止まらない笑いを堪え、冗談交じりに放った言葉は本心だった。

「俺に呪いをかけ、あの牢獄へ放り込め」

 王女の目がさらに怒り、そして――泣きそうになった。だが、もう惑わされまい。

 すがりつく王女を振り切り、部屋を後にした。

 女を抱いたあとの男の色気を纏う王子の勢いに侍女は息を飲み、執事は軽く目を伏せ、後に従う。

 もはや後戻りはできない。噂はすぐに広まり、国王の耳へと入る。今後のことは、国王が決断するだろう。

 王子にできることは、覚悟すること。

 それだけだ。



 ■決断


 数日が過ぎた。国王による召喚はまだない。第一王女を穢されたことに怒り心頭し、すぐにでも処断が下されると思っていたが、意外にも穏やかな日々に、冷静さを取り戻しつつある。

 あの日以来、剣術の鍛練に没頭しながら、様々な考えを巡らせている。

 剣を振るいながら、整理されていく感情。後悔、反省、そして……愛しさ。

 満たされない思いを、第一王女の身体に求めたことは罪深い。最低だ。自分を愛している女性を利用したのだから。いっときの感情に押し流されて。

 己の弱さを認めるべきだ。その覚悟があるから、自ら本国へ逃げ帰ることはせず、ここに留まっていた。責任を取れと命じられれば、いくらでも従うつもりだった。彼女の夫になるという選択肢以外で。

 その中で、改めて思い知らされる。あの少女への想いを。止められない愛しさを。ゆえに追放処分となり、二度とこの国へ足を踏み入れることができないとなったなら、申し出ようと決めていた。あの少女を連れて、この国を出たいと。たとえ、少女の残虐さの餌食になろうとも。


 執事が小走りに近付き、小声で告げた。「国王陛下がお出でになっております」と。

 国王を先頭とする一団が稽古場に姿を現し、見学している。いつの間に。

 剣を止め、頭を下げた。

「国王。お呼び出し頂ければ、出向きましたのに」

 王子の言葉に、いいのだ、というように片手を上げる。

「そなたの剣術の腕前が確かなのは、評判通りのようだ」

「恐れ入ります」

 相手をしていた騎士に剣を預け、国王の前へ歩み出た。

「二人で散歩がしたいが、どうかね?」

 とうとう来た。処断前の様子見。王子は同意した。

「いい汗をかいておるな」

 ええ、と答え、額の汗を拭う。外の風が爽やかで、穏やかに汗を引かせてくれる。

 付き人たちは皆、国王の意を汲み、かなり距離を置いて付き従う。

「この国はどうだ?」

 簡単そうでいて、答え方が難しい問い。表面的に捉えれば、無難に答えることで終わりにできる。

 国王と目が合い、王子は頷いた。

 今は、それを求められているのではない。

「秘密が多過ぎます、この国は。どの国にも隠したいことはありますが、御国の秘密は根が深過ぎて、とても手に負えません」

「後悔しているのだね、見合いの要請を受けたことを」

「そうとも言えますし、そうでないとも言えます」

「曖昧だな」

「申し訳ありません」

「第一王女とのことは聞いた。あれはあれで、必死なのだよ。判るであろう? 秘密を知っているのならば、なおさらな」

「それほど深くは知らないのです。真実に触れるまでには、ほど遠い場所にいます」

「苦しいか?」

「え?」

「苦しいであろうな。イルクオーレ王子」

 不覚にも、涙が込み上げる。気付かれぬよう自然を装い横を向き、目をしばたたかせた。

 気を落ち着かせなければ、声を出すことすらできそうにないほどの、急襲だ。

「私も苦しいよ、王子」

「国王――?」

 思わぬ告白に、今度は戸惑った。

「娘たちを幸せにしてやれぬのは、辛く、苦しい。国のためを思い、末の娘を生贄にした報いがこれだ。私は仕方ない。自分の決断が招いた結果だからね。だが、娘たちにまで犠牲を強いるのは、辛いよ。本当」

 二人の間に、花の香りが含まれた穏やかな風が漂う。やがて目に入ってくる、地下牢のある古城。

「救う方法はないのでしょうか」

 思い切って切り出す。少女のことを。それ以外に、再び口を開く方法を思いつかない。

「末の王女――監視者を、監視者から解放する手段は、本当にないのですか?」

 地下牢の入口でしばし歩みを止め、国王は命じる。

「伝令を呼べ」

 直ちに召喚された伝令に、今度は監視者を呼ぶよう命が下る。

 伝令とともに地上へ上がって来る監視者。目の前に現れた、少女。

 入口に国王がいることに少女は戸惑いを見せ、さらに同席している王子を見て目を丸くし、ゆっくりとその場に膝をつく。じっと王子を見つめながら。

「騎士たちの様子はどうだ」

 国王の問い。王子は息をひそめ、答えを待つ。

「変わりません」

 少女の答え。

「そうか」

 王子はじっと少女を見つめ続ける。国王が自分に目を向けたことさえ、気付かずに。

「死なせさえしなければ好きにしていい」

「御意」

 一礼。真っ直ぐ地下牢へ戻る。

 その姿を見届け、目を閉じ、息を吐き出す。

 初めて聞いた少女の声。まるで、心を震わせる鈴を思わせる、涼やかな音色のようだ。

 思いを馳せる王子に、国王が問いを投げる。

「そんなにも愛おしいか、あの娘が」

 指摘を受けて初めて、王子は気が付いた。頬を流れる、一筋の涙に。

 激しく動揺を見せる王子の肩に、国王が手を置いた。

「あの娘の傍にいるのは苦しいぞ」

 国王の一言に秘められた覚悟を感じ取ると、王子は微笑んだ。


 傍にいられぬ苦しみよりも、傍にいることで与えられる苦しみのほうが、どれだけ幸福なことだろう。


 **********


 勝利のため、国のために末の娘を禁忌術の生贄にすることを選択した国王。ただ一人にすべての犠牲を強いることは忍びない。他の王女たちにも、末の王女の犠牲を知って欲しかった。

 王女たちには、それぞれ護衛の騎士が付けられる。人生で初めて一番近くに仕える男性。忠誠を誓い、外界の敵から守ってくれる勇猛果敢な騎士。王女たちの初恋は、当然の如く彼らが対象となる。彼らを取り上げることで、国王は他の王女たちに犠牲を強いた。

 呪術を組み込まれた騎士たちは、あるじたる王女たちではなく、残虐性を帯びた少女をあるじと慕う。収監者として、監視者の愛を乞う者として。

 だがそこには、もう一つの禁忌術への伏線を組み込む目的もあった。術者たる呪術師が落命した場合に備えた、第二の解術式として。収監者たる騎士たちには、必ずこう問う術式が組み込まれている。お前の望みは何か、と。

 監視者たる少女が真実の答えを口にしたとき、禁忌術が解かれるように。

 その仕組みを知るのは収監者のみ。だが答えは、誰にも判らない。

 たった一つの真実の答えを、少女自身が見つけ出すまで何度でも、永遠に問いを繰り返す。それが収監者の役目。

 収監者の姿を誰も目にできない理由。それは、姉王女たちが初恋を諦めることができるようにという、せめてもの親心だった。


「この話を聞いたとて、あの娘の傍にいることを強制するものではない」

 そう前置きし、国王は真実を明かしてくれた。

 収監者たちは監視者を愛し、愛するがゆえに問いを繰り返す者。

 少女を解放するために。少女に普通の幸せを取り戻すために。

 王子は固い決意をもって、切に願った。

「我が身に収監者の術式を」

 しばしの間、王子を見つめ続けた国王は、やがて首肯して認め、入口に立つ警備兵たちに頷いてみせた。

「監視者の下へ行き、触れるがよい。術式が施されるであろう」

 警備兵たちは、もはや王子が中へ入ることを阻止しない。

 注がれる視線を感じ、目を上げた。

 第一王女。遠くから、王子を見つめている。国王とのやり取りを直接聞かずとも、察しているのだろう。涙を浮かべているのが判る。

「あの子は私が説得しよう。いや、説得するまでもなく受け入れてくれるはずだがね。末の王女が生まれたとき、あの子はすでに十歳だった。王女の中では、あの子が一番事情を知っている。末の王女を不憫に思っているには違いないのだ」

 だから今も、届け物をするのだ。密やかに。

「王女――」

 視線が合い続ける王子に怒ったような素振りで背を向け、第一王女は歩み去った。

 怒ってみせることが、王女からの手向けなのだと思うことは、身勝手な考えなのだろうか。王女を深く傷付けてしまったことは反省している。だが、自身の決断に後悔はない。監視者たる少女の従属者となることに。

「感謝します。国王」

 父たる王は頷き、王子の愛に希望を託した。

「再び会えることを祈っているよ。私の願いは唯一つ。末の娘を、この手に抱かせて欲しい。生きているうちに」

 王子は国王の意を胸に刻んだ。

「最後にお尋ねします。名前をお聞かせ頂きたいのです。監視者ではない、末の王女の」

 忘れてしまいそうなほどに、久しく口にしていない末娘の名前。

 国王と亡き王妃の他には知る人も、知りたいと望む人さえいなかった、末の王女の真名。


 輝く瞳を持つ若き王子を抱き締め、国王はむせび泣いた。



 ■愛を与える者


 足音が聞こえる。聞いたことのある、足音。

 テーブルの前で、少女は立ち上がった。降りてくるのは、やはりあの王子。その足取りが軽いのは、気のせいだろうか。

 あろうことか、堂々と監視者のスペースへ入って来る。微塵のためらいもなく。

「そんな顔をするな」

 そういうと王子は、椅子に座った。つい今しがたまで少女が座っていた、監視者の椅子に。

 あまりのことに、少女は呪いの人形を床に叩きつけた。周囲で騎士たちの喚き声が上がる。

 だが今回は、王子に動揺は見られない。少女を覗き込み、余裕の笑みさえ浮かべている。

「国王の許可は得た。今日から俺は、ここの住人だ」

 瞬間、少女は考え込み、王子の言っている意味の理解に努めた。

 住人とは意味不明だが、王子はやってきたのだ。とうとう。収監者として。

 少女は笑みを浮かべ、空のガラスケースに目を向けた。その視線を受け、王子も同じ方向へ目を向ける。

「俺の部屋はあそこか」

 王子が立ち上がり、ガラスケースに手を付いて覗き込んだ。

「ふむ。なかなか良いではないか。お前はここで、俺の苦痛を見物する。俺はお前が苦痛を見て喜ぶ姿を、ここから眺めるという訳だな」

 ガラスケースに背を預け、王子は腕組みをして少女を見つめた。少しばかり、長いとき。

「俺はお前を愛している」

 唐突の言葉と、優しい眼差し。少女は怪訝な表情を浮かべる。

「必ずお前から解術の言葉を引き出し、ここから連れ出してみせる」

 解術、とは何を意味するのか、少女には判らない。ただ黙って王子を見上げる。

 王子が、ゆっくりと少女に向かって歩み寄った。

 少女は、後ずさる。自然と。理由は判らない。

 王子が、ともすれば傲慢にさえ見える笑みを浮かべた。

「覚えておくが良い。お前は、俺のものだ」

 鎖に身体を貫かれた騎士がフェンスを激しく揺らし、監視者の注意を引く。

「望みを……」

 少女に届く鎖の騎士の美声。少女は僅かに目を見開いた。

 かつて、この騎士が言った通りになった。騎士たちは、少女の願いを叶える。

「私の願いは、お前が傍にいることだ」

「俺が一番近くにいてやろう。他の誰よりも一番近くに」

 鎖の騎士に対する答えなのに。王子は横やりを入れた。そんな権利はないのに。

 少女は、王子を見据えた。他の騎士はやらないことを、この王子はやろうとしている。なぜなら、王子にはまだ術式がないから。牢獄との境界が与えられていないから。だからできるのだ。

 そのことに気付き、少女は愕然とした。いったい王子は何をしようとしているのだろう。

 床に落ちている呪いの人形を見た。王子は収監者になるべく来た者。今はまだ、繋がっていない。でも、あの人形と王子を繋げる方法は、知っている。

 少女は足を止めた。王子を見上げる。

 王子も足を止めた。少女と距離を置いて。

「お前の膝下に伏す前に、一つだけ言いたいことがある」

 少女は眉を上げた。何だろう。

「お前の名を、俺は知っている。ようやく手に入れたのだ。お前の名を」

 名前。監視者という呼び名以外の、呼び名。騎士たちも持っている、名前。

「聞きたいか?」

 少女は迷った。頷くべきか、そうでないか。監視者に名前は必要ない。でも、あるのならば、知りたい。聞いてみたい。呼ばれて……みたい。

「どうだ?」

 再度の問い。しぶしぶながら、少女は頷く。自分の名という、興味に負けて。

「いいだろう。教えてやる。そこを動くな」

 少女は頷いた。今度は割と素直に。

 王子が目の前に迫る。この前と同じくらい、近い。王子の息が感じられるほどに。

「一度しか言わない。いや、言えなくなるのだろうがな。恐らくは。だから良く覚えておくんだぞ。いいな」

 鼓動が早くなる。この前と同じように。王子が近くに来ると、なぜこうなるのだろう。

「目を逸らすな。俺を見ろ。真っ直ぐに」

 言われて初めて、王子から目を逸らしてしまったことに気付いた。少女は真っ直ぐに王子を見上げた。

「俺はお前に問い続ける。お前の望みを。お前は答え続けるんだ。それが役目だろう?」

 少女は頷いた。確かに、その通りだ。王子は間違っていない。

「ただし、これまで騎士たちに与え続けてきたものとは違う答えを、俺に与えろ。お前が本当に心から望むことを、言葉にするんだ。いいな? 約束だ」

 勝手な約束。本当なら拒否しているところだ。でも王子の真剣な眼差し、真剣な言葉、真剣な思い、が感じられる。あまりにも真剣過ぎる。だから、拒否できないのだろうか。

「愛してる」

 王子は再び言った。

「忘れないでくれ。俺は、心の底からお前を愛している」

 なぜだろう。王子の瞳が、涙で潤んでいる気がする。なぜ、哀しむのだろう。涙を流す必要が、どこにあるというのだろうか。

「愛してる。オーリシファ……」

 少女は目を見開いた。オーリシファ。初めて聞く、響き。

 王子の手が背中に回り、抱き寄せられて、口唇が重ねられる。

 これは、なに? 監視者にこんなことをする者は初めてなのに、それなのに、厭じゃない――

 突如、王子が苦悶の声を上げ、床にくず折れた。少女に触れた者が味わう最初の苦痛だ。

 少女は王子を見守る。監視者として、見届ける。

 呪術が体内に組み込まれる際に生じる激しい痛みに、騎士たちも全員気を失った。

 だが王子は違った。顔を上げ、真っ直ぐに少女を見据えた。苦痛に悶え、術式に体内を駆け巡られながら、浮かべたのだ。狂気に満ちた、笑みを。

 凄惨なまでの美しさ――。

 少女は震えた。王子の、この狂おしいまでの美しさは、いったいどこから来るのだろう。

 呪いの人形を拾い上げ、ガラスケースに放り込む。

 王子の身体は吸い寄せられるように、牢獄へと収監された。

 新たなる収監者。美しき者。手を伸ばし、触れる。

 少女に触れられ、与えられた苦痛と同じだけの快感に襲われ、そして王子は思い知る。苦痛と愉悦が同列にある世界の存在を。

 狂おしいまでの愛しさの中で浮かび上がる、呪文のような科白。監視者たる少女を救うための、果てなき問いの始まりだ。

「お前の望みは何だ?」

 収監者たる王子が、初めて口にする言葉。騎士たちと変わらぬ、問い。

 少女は王子との約束を思い浮かべる。『騎士たちとは、別の答えを与えろ』

 なんだろう。傍にいること以外に、何を望むことがあるだろうか。

「答えろ」

 初めて、自ら望んで収監者となった王子。ガラスケースに手をつき、少女を見つめている。激しく、真っ直ぐに。愛しい想いを突き付ける。少女が呪いの人形に、針を突き刺すように。躊躇うことなく。

「俺が、お前の願いを叶えてやるぞ」

 監視者は愛を乞われ、愛を与えるもの。監視者にとっての愛とは、苦痛を愉悦に変えることができる力。それを求める騎士たちに与えること。そう思ってきた。

 だが、この王子に与える答えとしてはどうだろう。

 これまでとは、何かが違う気がし始める。

 少女は、ガラスケースの中から自分を見つめる王子を見つめた。

 初めて出会ったときから変わらぬ、少女を見つめる王子の深い眼差し。この煌めきは、苦痛を与えられながらも、壊れることがない。王子は何度も言った。お前を愛している、と。

 愛している――。愛しているとは、なんだろう――。

 自分は、どうなのだろう。どう、答えるべきなのだろう。

 少女は目を伏せた。こんなのは初めてのことだ。答えを考え、ためらってしまうなんて。

「お前の願いを言え」

 繰り返される、問い。

 自分を愛していると言い、名前を呼び、抱き寄せてくれた王子。初めて感じた、温もり。それがすでに、懐かしい。

 王子にまた、愛していると言って欲しいのか。――判らない。

 王子にまた、名前を呼んで欲しいのか。――判らない。

 少女は顔を上げた。今は、こう答える。

「お前が傍にいることだ」

 今や王子と繋がった呪いの人形に、太い針を突き立てる。深々と。

 王子が頭を抱え、苦闘の声を上げ、うずくまる。

 やはり傷付く王子は美しい。

 少女は微笑んだ。だが、なぜだろう。他の騎士たちと同じような満足感が、得られない気がするのは。

 顔を上げた王子が、勢いよくガラスの境界に手を置いた。激痛に耐える、激しい呼吸。衰えることのない、真っ直ぐで燃えるような眼差し。

 少女は、ガラスケースに手を触れた。王子の手と、重なるように。

 完璧で美しい、傷付いた収監者。それなのに、監視者に完全なる満足は与えない。王子は、騎士たちとは違うのだ。きっと。

 ガラス越しに、熱を感じる。王子の、ものか。それとも、自分のか。

「お前の願いは何だ」

 王子が身を乗り出す。近くに、覗き込むような視線がある。また、鼓動が早まる。

「お前の願いを聞かせろ」

 少女は王子の顔に触れた。ガラス越しに。

 王子が微笑む。狂気の、笑みで。

「願いを言え」

 同じ答えを言ったとて、王子からは決して完全なる満足感を得ることはできない。

 初めての渇望感。追い打ちをかけるように湧き起る、焦燥感。

 どうすればいい、どうすれば……?

 他の騎士たちを振り返る。

 騎士たちは境界に立ち、二人の様子を伺っている。彼らからの問いは、ない。

 王子を振り返る。王子は待っている。騎士たちとは違う答えを。

「言うが良い。俺がお前の望みを叶えてやる」

 王子の声が響く。愛してる、オーリシファ……

 少女は頭を悩ませた。

 王子の温もりが欲しいのか。王子の愛が欲しいのか。それとも――

 判らない、判らない! 今は、まだ。

 だが、いつか言うときが来るだろう。そう、予感する。

「私の願いは――」

 少女は王子に、こう答える自分を予感する。

「お前を・・・・・・」


 願いは、必ず叶う。

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