踊り場の対話
講師室を覗く。
いつもの後ろ姿は無く、リシアは失意とも安堵ともつかない溜息を吐いた。
書類を作成している初老の女性講師に会釈をして、静かな講師室の扉を閉める。
珍しいことだ。いつもならこの時間には講師室で待機していて、班の活動予定などを確認している。
既に一時限目の教室に向かったのだろうか。踵を返し、教室を巡る。
一階の教室に一通り目を通して、講師の姿が無いことを確認する。
二年生の教室か。
そう合点して、二階へと続く階段を上る。
二年生ともなると課外で一日中迷宮に潜っていることも多々ある。そんな彼らが講師に報告や相談を行う時間は早朝ぐらいしかない。話し合いをしている可能性も考慮して、手短に要件を伝えられるようにしておくべきだろう。
事の経過を簡単に脳内で整理する。踊り場の段へ左足をかけて、
「待って」
右手を誰かが掴んだ。数段下を振り向く。
迷宮科の制服を着た同年代の男子生徒が、下段に立っていた。
その顔を見て、思わずリシアは手を振りほどく。
「朝早くに来るかなと思ってたけど、正解だった。待ってたんだ」
そう言って、いつもと同じ笑みを浮かべる。
まるで何も無かったかのように。
体の奥底が冷えたのを感じさせないように、つとめて冷静な声音で返事をする。
「……待ってたって、何故」
「少し話がしたくてさ」
アルフォスは一段、上り詰める。気圧されてリシアは踊り場の隅へと後退りする。
リシアの前に立ち塞がったアルフォスは、周囲に人気が無いかを確認するように目配せをした。遠くから響く挨拶に、時間が無いと判断したのか、深々と頭を下げる。
「昨日は、ごめんね」
まるで意味のない、薄っぺらな謝罪の言葉だった。即座に上げられた頭と貼り付けたような笑顔を見て、一先ずは込み上げてきた言葉を呑み込む。
その一言で済むとでも思っているのだろうか。
昨日の出来事を思い出す。頭の傷が鈍く痛み出した。
「あの時は、頭が真っ白になってしまって……あんな事になるなんて、思ってもなかったんだ。でも、その様子だと大事じゃないみたいだね。それで、」
妙に高揚した、芝居掛かった声でアルフォスは続ける。
「次はどんな依頼を?」
リシアは言葉を失う。
正気か、などと言う次元ではない。
目の前にいるのは、自分と同じエラキス出身のドレイクなのだろうか。
種族も文化も違う浮蓮亭の人々と話す時でも、こんなに、理解不能だと思った事はない。
いや、此奴と彼らを比べることもおこがましい。
「何を言っているの」
「昨日たくさん用意してくれてたじゃないか。今後の計画とか。ちゃんと聞けなかったからさ、改めて説明して欲しいなって」
「理解できない。どうしてそんな事を、そんな顔で言えるの」
声が震えているのが、リシア自身にもよくわかった。それは怒りのせいなのか怯えに因るものなのか。あるいは、その両方なのだろう。
「だってそれは……」
アルフォスは頭をかく。彼の癖のようだった。
がりがりと音が響く。
「君も困ると思って」
その言葉の意味を、リシアは瞬時に理解する。
足元を見られているのだ。
「流石に二回も班員がいない状態になるのは、ね。講師からの印象も良くないだろうし、噂は尾鰭がついてすぐに広まるし……僕を追い出すのは班長の自由だけど、その後のことは考えてる?」
これは君のためなんだ。
そう言うアルフォスの顔には、あの軽薄そうな笑みはなかった。
心の底からの、嘘偽りない言葉。
そんな風に、装っているのだ。
その事に気付いて、リシアの頰が熱を持った。
「嘘」
思わず言葉がこぼれ落ちる。
「君のためだなんて、嘘も大概にして。あなたは保身しか考えていない。大事になるのが怖いだけでしょ」
震える声で、目の前の異常な人物を非難する。
だがこれまでの言動を見る限り、リシアが彼を理解出来ないように、彼もまたリシアの言葉は理解出来ないのだろう。
今だって、相変わらずへらへらとした笑顔のままだ。
それでも少女の口は止まらない。
「わ、わかるの。自分の都合で人を利用して、嘘をついて、振り回して」
まるで。
「私みたい」
消え入るような声でそう呟く。
熱で曇りそうな視界に佇むアルフォスが、僅かに眉をひそめた。
心外だ、とでも思っているのだろう。
リシア自身、こんな自分が嫌でたまらない。
だからこそ、ここで変わらなくてはならない。
「……昨日の事、全部講師に話す」
踊り場にリシアの声が響く。
アルフォスもリシアもただではすまないだろう。だがこれ以上、目を瞑るわけにはいかない。
「本当に、いいの?」
そう問いかけるアルフォスの声には、余裕がある。
どこまでも見くびられているのだと思い知らされて、リシアは溜息をついた。
「私が黙っていても、被害が増えるだけだから」
あなたが思っているような人間とは違う。
小通路で告げられた言葉と良く似た台詞を返す。アルフォスは明らかに気分を害したようで、小さく舌打ちをした。
男子生徒の横を通り抜ける。
先ほどの言葉を証明するために、リシアはアルフォスの前から立ち去った。




