独り
冷たい雫が頰に滴る。
はっ、と小さく息を吐いて、リシアは目覚めた。
そっと上体を起こすと、頭が萎縮したように痛み出した。呼吸を整えこめかみを押さえる。冷たいぬめりを感じて、一瞬何も考えられなくなってしまった。
ウィンドミル。
いつも傍らで仄かに明かりを灯してくれる剣を探し、周囲を見渡す。ほんの数歩先で見覚えのある蒼い燐光が灯っている。立ち上がり、よろめいて再び地に伏してしまう。
世界が回ってる。
吐き気を落ち着けるために息を整えながら、昏睡するまでに起きた事を思い出す。確かアルフォスと迷宮に潜って、少し苛立ってしまって……。
突き飛ばされたのだ。
後頭部がじんと痛む。リシアの言葉に腹を立てたのか、耳が痛かったのか。どちらにしろ、手を挙げるような人間には思えなかったのに。目を伏せて考え込むと再び意識が遠のきそうになって、リシアはゆっくりと起き上がる。
少し怖くなって身なりを確認する。後頭部がひどく痛む以外は何も変わりない。小さく息をついて、開いていたはずの野帳を手探りで探す。
見つからない。
鼓動が速くなる。よろめきながらウィンドミルを手に取り、炉の明かりを頼りに周囲を見回す。見覚えのある硬筆は見つけた。だが、肝心の野帳はない。
再びリシアはへたり込む。野帳は冒険者の全てだ。これまでの活動が記述されているそれを奪われるということは、冒険者としての道程を踏み躙られるに等しい。
いや、そんな精神的な問題ではない。リシアの野帳には地図が記されているのだ。
一年生が課題をこなすのにうってつけの、踏破済みの面白味もない通路。学業と迷宮探索に慣れて、弛みきった学生を吸い込んでは救助依頼の掲示板に学籍番号を晒す……三番通路の第六小洞はそんな「難所」の一つだ。
大地の変動か、或いは巨大な生物が掘り進めたのか。裂け目とも巣穴とも知れない曲がりくねった通路は、方向感覚を麻痺させる。方位磁針と地図で慎重に進まなければ、まともに歩けないのだ。
懐を探り、方位磁針を取り出す。一点を指しているのを確認して、ほんの少し安堵する。
とにかく出よう。
狭い通路の冷たい岩肌に手を添え、ゆっくりと進む。ウィンドミルの柄を握りしめると、ほのかな熱が伝わってきた。
湿っぽい空気に息が詰まりそうになる。湖の小迷宮程ではないが、ここも随分と湿気が多い。
街中の水路が関係あるのだろうか。
張り付いた苔を眺めながら、リシアはいつか聴いた講義の内容を思い出す。
地表を流れる水路はレス河の支流……なのだが、元はエラキスの駅付近の小迷宮に水が流れ込んだものなのだ。ごく浅い場所に所在していた迷宮が永い間に地表に露出し、近くの支流と繋がったのが現在の水路、らしい。またこの小迷宮は、エラキスの大迷宮を構成する通路の一つだったという説も提唱されているらしい。
どちらにしろ、エラキスの民の生活には欠かせない水路も元は迷宮の一部なのだ。つくづく人々と迷宮は切っても切り離せない関係にあるのだと思い知らされる。
しかし駅の一部が水路なら、なぜ他の通路には水が浸入していないのか。ふと疑問に思って立ち止まる。どこかに水門があるわけでもないだろうに。
落盤か。
一人で納得する。それなら他の通路への道が塞がれていてもおかしくはない。
ひたひたと足を進める。通路の先が二又に分かれていることに気付いて、リシアは立ち止まる。
さっき、ここを通っただろうか。
嫌な予感がして方位磁針を見る。覚えている限り、この小通路の出入口は東にある。あまり深場へ進んだわけでもないから、このまま東の方へ進めばいつかは出入口に辿り着けるはずだ。
ぴたりと止まった針は、決して狂っているわけではない事を示している。信じられる物はこれしかない。
リシアは生唾を飲んで東方面の通路へ足を踏み出し、
歌が聞こえた。
ウィンドミルを構え、周囲を見渡す。少し気を抜けば聞き取れなくなってしまいそうなほど微かな旋律が、確かに響いている。
どこから。
頭が真っ白になりそうなほど神経を研ぎ澄ませ、リシアは音の出所を探る。
……東へ向かう通路からだ。
もしかしたら、異国の冒険者がこの通路を探索しているのかも知れない。急に気力が湧いてきて、リシアは思わず呼びかける。
「誰か、誰かいますか!」
声は迷宮に溶けていく。こだまが無くなるころには、あの歌声も聞こえなくなっていた。
気付いたのだろうか。
はらはらとしてリシアは二又の右側へ進む。まさか、幻聴ということはあるまい。いくら頭を打って、こんな場所で独りぼっちだからって。
途端、恐怖が込み上げてきた。頭に支障を来しているのではないかという恐れではない。今この迷宮に、ニンゲンはリシア一人しか居ないのではないかという恐怖だ。
そんな筈はない。エラキスの大迷宮に他の冒険者が潜っていないということはまずあり得ない。
それなのに、胸が冷えていく。
以前一人で小迷宮を歩いていた時は、進む先にアキラがいると確信していた。けれども今日は傍らにも、向かう先にも、誰もいない。アルフォスも。マイカさえも。
誰か。
そう呟いた途端。冷たく濡れた誰かの手が、リシアの左手を捕まえた。




