糺す
「いらっしゃい」
簾の向こうから嗄れた声で出迎えられる。静かな店内を見回し、アキラは戸を閉めた。
客席には誰もいない。こんな状況は、初めてここに来た時以来ではないか。
静かに席に着くと、いつも通り簾が巻き上がって杯が出された。
「やっと注文をしてくれそうな奴が来た」
引き攣れるような笑い声が漏れる。
「今日はお客さんが……その」
「ちょっと入りが良くないな。夜干舎の二人も顔を見てないし、ハロも出かけてしまった。寂しいものだ」
そう言って、店主は溜息をつく。どうやら暇を持て余していたようだ。
「あまりにもやる事がないからさっき路地にいた子供達におやつでもあげようと思ったが……ケインがいないと中々話せないな。警戒されてしまう」
代わりに食ってくれ、と簾を巻き上げ、アキラの前に皿を出す。
白磁の平皿に並んだ焼き菓子を眺め、アキラは目を輝かせる。手紙のように閉じあわされたパイ皮の隙間から、黄色い餡が覗いている。
慣れ親しんだ、小麦と卵を用いた菓子だ。
「ここの菓子も覚えないとな」
勤勉な店主はそう言って、簾を下ろした。
「イタダキマス」
「茶も出そうか」
「お願いします」
アキラが頷くと同時に、簾の下から皿と揃いの白磁の杯が出てくる。杯に満たされた深紅の茶の香りを楽しむ。
発酵させた茶だ。卵と乳脂を使った菓子にはよく合うだろう。
渋味のある茶を一口すすり、焼き菓子を頬張る。卵と牛乳を炊いた餡と香ばしい皮、華やかな香りが渾然一体となる。
その中に、僅かな塩気が混じった。齧った断面を見ると、滑らかな餡の中から黄身の欠片のようなものが覗いていた。
「美味しいです」
「そうか、良かった」
「このしょっぱいのは、何でしょう」
「塩漬けした卵だ」
エラキスでは見たことの無い食材だ。野菜や肉と同じように、卵も塩に漬けると長持ちするのだろうか。
甘いパイとの相性の方は、甘味と塩気が意外に合っていて美味しい。互いの風味を引き立てている。
残りのパイを夢中で食べる。最後の一欠片を口に入れると、浮蓮亭の扉が静かに開いた。
「なんかご飯ある?……あ」
入店したハルピュイアはアキラの姿に気付き、目を細める。定位置である扉を開けた時に死角になる席に着くと、頬杖をついた。
右腕を吊っていた白い三角巾が無くなっている事にアキラは気付く。
「またお菓子の試食?僕にもちょーだいよ」
「鳥の卵を使っているが、大丈夫か」
「ニワトリ?」
「いや、水禽だ」
店主の返答にハロは足を組み、少し考え込むように視線を天井に向けた。
「アヒルなら大丈夫」
そう言って、皿からパイを一つ掻っ攫った。
「ニワトリは大丈夫じゃないの?」
「水掻きが無い鳥はダメなの」
パイの欠片を口に付けたハロの言葉を聞いて、アキラは足元に目を落とす。鋭い爪の脚は、白鳥のように湖面を揺蕩うのではなく地を駆けるのに適した形だろう。
つまり、より近いかどうかなのだ。
一人でアキラが納得していると、菓子を食べきったハロが足を組み直して、怪訝そうに呟いた。
「また一人でご飯?それとも午後のお茶?」
そう言って、鼻で笑う。
「オトモダチも居ないし、さみしそー」
「それはお前も同じだろう。ケインとライサンダーは今日はどうしたんだ」
店主の横槍に唇を尖らせ、しかし律儀にハロは答える。
「ケインは二日酔いで寝込んでる。ライサンダーはほら……あの仕事」
ハロは左手を振り、何かを書き記す様なそぶりを見せる。それを見て納得したのか、店主は簾の向こうで小さく声を漏らした。
「君のオトモダチも仕事っぽかったね。別の男トモダチとだけど。二人で仲良く迷宮に行ってさ」
続いたハロの言葉に、アキラは僅かに反応する。その姿が異様に見えたのか、ハロもまた居住まいを正した。
「なに?血相変えて」
「……その」
何かを問おうとして、口を噤んだ。
何でもないです、と呟いてもう一つのパイに取り掛かる。
それきり黙り込んだアキラを横目に、ハルピュイアはつまらなさそうに鼻を鳴らした。
店主には遠慮されたが、パイの分も合わせて代金を支払ってアキラは店を出た。
路地を出て、異国通りへ足を踏み出す前に立ち止まる。家に帰って何をしよう。明日の予定を確認して、少し勉強をして、伯母への手紙を書いて、寝る前に野帳を読み直して……。
水路に行ってみようか。
思いついた途端、足が動く。
怪物が彷徨く街で、夜も訪れつつある時間に渦中の暗渠へ向かう。危険だ。そんな事はわかっている。それ以上に、興味が湧いている。
麦星通りの水路に向かうのなら、まずは駅まで出た方が早い。自然に早足になる。
微かに明星がちらつく中、アキラは城砦のような駅の裏に至った。駅から出て異国通りの根城へ帰る冒険者達で賑わう中を、麦星通りを目指して一心不乱に歩き続ける。
少し不注意だった。誰かの肩に擦り、アキラは歩みを止める。
「すみません……」
相手の方に向き直り、頭を下げようとして、暫し動きを止めた。
「あ、アキラ……だったよね?もしかして、今帰りなの?」
人の良さそうな男子生徒は嬉しそうに顔を綻ばせ、アキラに一歩近づいた。
たまたま出会ったのが知り合いだった事に少し驚き、同時に何か胸がざわつく様な違和感を覚えて、アキラは男子生徒の質問に答える。
「……いいえ、少し麦星通りに用があって。そちらは迷宮帰りかな。リシアも一緒?」
先程、中庭でリシアと共に去って行ったのは彼だったはずだ。もしかしたら一緒に迷宮で課題をこなしていたのかもしれない。
アルフォスの顔を見る。それまでとまったく同じ表情で、
「いや、今日は迷宮には行っていないよ。リシアとも、校門で別れてそれきりだし」
そう答えた。
嘘だ。
ハロの言っていた事と食い違っている。
「ちょっと集会所で時間を潰しててさ。そろそろ帰ろうと思ってたんだ。あ、でももし良かったら」
「何故、そんな嘘を吐くの」
静かにアキラは問う。
一瞬、アルフォスは目を見開く。視線が泳ぎ、誤魔化す様に目を細めて笑顔を作る。
「リシアはどこ」
続けざまの質問に、アルフォスは耐えられなくなったように顔を背ける。その横顔は相変わらずの、困り眉の笑顔だ。
「……参ったな」
その笑顔が、声音が、どことなく第六班の班長に似ていた。
だが彼のそれよりもずっと、気味が悪い。
「嘘、かあ。顔に出てる?」
その言葉を聞いた瞬間。
アキラは男子生徒の襟首に手を伸ばした。




