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悩み

いつもよりも静かな放課後だった。


運動部の掛け声が遠く響く以外は、木々のそよぐ音ばかりが耳をかすめる。普段ならば微かに流れている合唱部の歌声も、つい先程の独唱以来聞こえてこない。


今日はこれで練習が終わりなのだろうか。長椅子に腰掛けるリシアの脳裏に、掲示板の貼り紙が浮かび上がる。


生徒は早めに帰るようにという学苑からの達しなのかもしれない。あるいは、合唱部の顧問が独断で生徒を帰しているのだろう。


そんな事を考えていると、足音が近づいてきた。待ち人の姿を思い、リシアは足音の方を向く。


そこにいたのはジャージ姿ではなく、普通科の制服を品良く着こなした女生徒だった。楽譜を開き、目で追いながら歩いてきた女生徒はリシアの姿を見とめて、立ち止まる。


あ、と小さく声が漏れて、女生徒は会釈をした。


「ご、御機嫌よう」

「御機嫌よう。えっと……」


彼女には見覚えがある。リシアが迷宮科に入学する以前、劇場や会合で何度も見た事がある顔だ。


「リュー、よね。オーピメント家の」

「あ……ええ。久し振り、リシア」


以前よりも随分と痩せたように見える女生徒……リューは、口元に笑みを浮かべた。


「最初気付かなかった。髪が」

「切ったの。今は邪魔だから」

「そう」


どこかぎこちない様子で二人は会話を交わす。リューは周囲を気にしながら、一言一言を区切るように呟く。


「あの、迷宮科は大変そうだけど、大丈夫?」

「んー、大きな怪我は今のところないよ」


愛想笑いを浮かべて返事をする。思い返してみれば、何度か危険な目には会っているのに打ち身切り傷程度で済んでいるのは奇跡のようなものなのかもしれない。


「そうなの。気を付けてね……これから迷宮に?」

「いいえ、集会所のような所が異国通りにあって、そこに行くの」

「異国通り?この時間から?」


はらはらとした様子のリューに、リシアは付け加える。


「ああその、変な所には行かないから」

「そう。最近怪物もうろついているから、用心してね」


リューはそう言って、強張った顔つきでリシアを見つめた。その様子に不穏なものを感じ、リシアは頷く。


「わかった。気を付ける」


もしかして、と続ける。


「怪物を見たの?」

「……」


リシアの問いに、リューは無言で頷いた。


「そうだったんだ……迎えとかは?」

「まだ日は落ちてないし、川沿いには近づかないようにするから、一人でも大丈夫」


不安気な目を細めて、リューは笑った。その仕草がまた、リシアを不安にさせる。


「リシア」


遠くから名を呼ぶ声を聞いて、リシアの不安は何処かへ追いやられる。周りを見渡すと、普通科校舎へ続く道を赤ジャージの少女がこちらへ向かって歩いて来ていた。


「お友達?」

「ええ。それじゃあ、気を付けて帰ってね。リュー」


ひらりと手を振ってリシアはアキラの元へと向かう。背を向けたリシアに、再び声がかかる。


「待って」


振り向くと、先程と同じ場所にリューは立っていた。リューは少し俯き加減で、言葉をこぼす。


「私、その」

「?」

「……今度、ジオードの劇場で歌うの。あなたと同じ場所で」


風にそよぐ木々の音も、運動部の掛け声も、一瞬無くなった。


たっぷり一拍置いて、リシアは口を開く。


「……ということは、エラキスに選ばれたって事?」


なおも俯くリューに向かい直って、満面の笑顔を作る。


「おめでとう!大晶洞はすごい所だよ。あんなに音が響くところ、世界中どこにも……少なくとも、エラキスには無いよ!」

「そうなの。楽しみ」


淡々とリューは告げる。その真意がわからず、リシアはリューと遠くで待つアキラの顔を交互に見る。


「……じゃあ」


再び礼をして、アキラの方に向かう。


背後から声がかかってくることは無かった。






小走りで去って行く猫毛の少女の後ろ姿を見つめ、リューは高鳴る心音に耳を澄ませる。


なぜあんな事を言ってしまったのだろう。彼女には、もう関係がない事なのに。


すっかり視界から消えてしまった彼女の姿を思い、側にあった長椅子に腰掛ける。決して悪感情があった訳ではない。ただ伝えたかっただけなのだ。あなたと同じ場所に至った、と。そして……認めてもらいたかったのだろうか。


今、この立場にいるのは「彼女がいないから」だ。彼女が歌を離れたから、リューに白羽の矢が立てられたに過ぎない。それは自分自身がよくわかっている。だからこそ、彼女に勝る何かを、リューは大晶洞で歌う日までに見つけなければならない。


だというのに、何をしているのだろう。


楽譜を握りしめる。


「昨日の怪物が怖くて……明るいうちに帰ります。大丈夫です。自主練習をしますから」


そう言って、部活動を早めに切り上げて来たのだ。第一発見者であるリューがそう言えば、周囲は気遣って心配そうに送り出してくれた。それは顧問も同様だった。


長椅子から立ち上がる。早く帰ろう。口うるさい顧問がいない分、練習が捗る。そう思って早退したのではなかったか。


違う。


逃げただけだ。顧問の言葉の端々に見える、彼女の影から。


「あの」


不意に、木陰から人影が現れた。びくりと肩を震わせる。


人影の正体は、迷宮科の制服に白い前掛けを身に付けた少女だった。どこか現実感のない、儚げな美少女ははにかむように笑う。


「ごめんなさい。驚かせてしまって」


マイカ・グロッシュラー。よく彼女と一緒にいた令嬢だ。少女はリューの様子を伺うように小首を傾げる。


「なんだか、思いつめた顔をしていて……気になってつい」

「そんな。いつも通りです」

「そうでしょうか」


長い睫毛に縁取られた瞳が、微かに下を向く。視線の先に楽譜があることに気付いて、リューは咄嗟に楽譜を背後に隠した。


「歌の事で、悩んでいるんですね」

「……」


黙り込んでいるリューの側を、マイカは静かに歩む。優雅な仕草で長椅子に腰掛け、傍らに立つリューを見上げて微笑んだ。


「もし良かったら、聴かせてください。歌も、悩みも」


総毛立つ程に、美しい微笑みだった。


「あなたの歌、噂は耳にします。一度聴いてみたかったんです」


見え透いたお世辞にも聞こえる言葉を、心の底から嬉しく思っていることに気付く。


聖女の囁きに導かれるままに、リューは楽譜を開いた。

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