掲示
無造作に折りたたまれた手帳の切れ端を広げる。二つ隣の教室と、男子生徒の名前が書かれた紙切れを眺めて、リシアは一人ため息をついた。珍しく誰もいない昼休みの教室は、不安になる程静かだった。
いつも相談に乗ってくれる講師も、今日はいない。
いや、相談したとしても彼が返す言葉は想像がつく。むしろ、「なぜ迷っているのか」と苦言を呈されるだろう。
紙を折りたたみ、席を立つ。悩むまでもないはずだ。
紙切れに記された教室を覗く。数人で談笑している男子生徒の中に、アルフォスの姿は見えない。
「あの」
軽く扉を叩く。男子生徒の一人がリシアに気付き、怪訝な顔をした。窓際から離れ、リシアの方へとやって来る。
「なに」
「アルフォスを知らない?」
「あー、あいつ?多分中庭にいるよ。掲示板を見るのが日課だから」
対応する男子生徒の肩越しに、こちらを見て何事か呟き、にやつく男子生徒が二人見えた。不愉快な気分になる。ありがとう、と手短に礼を告げて、リシアは中庭に向かった。
日照時間が長くなってきた太陽が、木々を通して芝生に木漏れ日を落とす。涼しい木陰の下で、幾人もの生徒が屯していた。
いつもよりも賑やかな中庭の様子に気付き、リシアは聞き耳を立てて忍び寄る。
「……怪物ねえ」
凛とした聞き覚えのある声が、胡散臭げに呟いた。注視すると、人だかりの中には見慣れた顔が幾人か見える。
人々の話題は、掲示板の注意書きの内容の事のようだ。赤く記された文字を目で追う。
つい昨晩、水路に正体不明の怪物が出没した。
発見者は学苑の生徒。
怪物の足取りは未だ掴めていないため、水路には不必要に近づいてはならない。
……概ね、そういった内容だった。
「二組の子が見たんですって」
「そうなんだ。怖い思いしたんだね」
「あなたも気を付けてよ。家、川沿いじゃない」
「戸締り気をつけるから大丈夫」
先史遺物とも渡り合える彼女に、はたして怪物が敵うのだろうか。そんな疑問が脳裏をよぎったが、即座に足は広場から離れようとする。
だが一足遅く、少女が何気なく向けた夜色の瞳がリシアの姿を捉えた。
「リシア」
少女に名を呼ばれ、リシアは愛想笑いを返す。アキラの傍からセレスの顔が覗き、軽く手を振られた。
「あら。奇遇」
微笑を浮かべて歩み寄るセレスを無視するわけにも行かず、リシアは立ち竦む。
「掲示板を見た?すごいのが貼られてる」
「怪物の事ですか」
「そう!迷宮から這い出てきたのかしら。あなた達は巨大な生き物を討伐したりもするらしいけど、もしかしてこれを退治するのも授業であったりするの?」
目を輝かせて質問するセレスに、リシアは慌てて答える。
「いえ!大型の生物には近付くなと習っているので」
「あら、そうなの?でも確かに、そっちの方が賢明ね」
迷宮科では無鉄砲なことばかりさせていると思っていたのかもしれない。むしろ、五体満足で帰還する事に重きを置いた講義の方が多いのだ。
「もしかして、この怪物も先史遺物……」
何気なくこぼしたアキラの言葉を、リシアは慌てて遮るように彼女の名を呼んだ。
「アキラ!あの……」
言葉に詰まる。言いたい事がたくさんあるからだ。先史遺物の事は秘密にしていて欲しいし、アルフォスの事も伝えたい。出来れば、ここではないどこかで。
「今日、浮蓮亭に行かない?」
何とか言葉を絞り出す。リシアの誘いを聞いて、アキラは少し目を丸くした。
「うん、いいよ」
どこか嬉しそうな声音だった。その声を聞いて、リシアの胸が無駄に速打つ。浮蓮亭で話す事は決して楽しい話題ではない。
「それじゃ、放課後ね」
「う、うん……」
アキラはそう告げて、セレスと共に普通科の校舎へと去っていった。すらりとした後ろ姿を複雑な思いで見送る。
ふと、左肩に何かが触れた。
「!」
「ああ、ごめん。見かけてつい」
背後に立っていたのは、中庭にやって来た目的の男子生徒だった。肩に乗った右手に目をやると、男子生徒は即座に手を下ろした。
「もしかして、俺を探しに?」
「好青年」という言葉がよく似合う顔を指差し、アルフォスは問う。
「返事かな」
「あ……その事について、なんだけど」
アキラの姿が脳裏をよぎる。先程の後ろ姿だった。思い浮かべたその背中が何故だか寂しげで、リシアは一瞬口をつぐむ。
アルフォスの前に、アキラと話をつけるべきだ。
「あの、明日返事をする。ごめんなさい。待たせてしまって」
そう告げて、正面に立つアルフォスの顔を伺う。アルフォスは何でもないような顔をして頷いた。
「うん。待つって行ったのは俺の方だし」
優柔不断なリシアの態度に対してこの返答だ。安堵と共に「申し訳ない」という思いが込み上げる。
「さっき話してたのはセレスタイン様だよね。もしかして、仲が良かったり?」
突然話が変わった。戸惑いつつ、リシアは首を横に降る。
「仲が良いというか……共通の友人がいるの。一緒にいた、背が高い子」
自身の発言にリシアは照れる。誰かを「友人」と明言するのは久し振りで、何だか気恥ずかしい。
「ああ、あの凄く綺麗な子!」
アルフォスが色めき立つ。
「今度紹介してほしいな。セレスタイン様と一緒に」
「紹介?」
思わず怪訝な声を出してしまう。リシアが訝しく思った事に気付いたのか、アルフォスは取り繕うように笑った。
「あ、いや……ごめん」
セレスと縁を結びたいというのはわかる。だがアキラを紹介してほしいというのは……そういう事なのだろう。リシアの潔癖な部分が警鐘を鳴らす一方で、男子生徒とはそういうものなのだと知ったかぶった風に澄まし顔をする。
だが、アキラやセレスを目の前で愛想笑いを浮かべているアルフォスと引き合わせようとは微塵も思わなかった。




