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渡り来るもの

日が沈み、星が瞬く夜が訪れる。


夜分の空に蒼い飛沫が瞬いた。


昨晩と同じ幻想的な光景をリシアは眺める。心ここに在らずといった風に東屋で頬杖をつく姿は、普段とは違いまさに令嬢然としている。


視線の先には、無我夢中で光の素を採取している父がいた。目の細かい網を何重にも重ねた採集用具を池に潜らせ、中を覗き込んでは満面の笑みを浮かべる。かれこれ一時間は、同じ事を繰り返している。


子爵らしからぬ振る舞いを見て、リシアは自分も採取に加勢しようかと考える。しかし腰を上げようとするたびに、昼間の出来事が脳裏を過って再び座り込んでしまうのだ。


東屋の卓に、そっと磁器が配される。少し驚いて、ついていた肘を浮かせる。


「お身体が冷えてしまいます」


そう言って、執事は磁器に温かな茶を注いだ。執事の心遣いに、リシアははにかむように微笑んだ。


「ありがとう」


磁器を手に取り、一口茶を含む。少し苦味の強い薬草茶だった。


「旦那様も、もう少しお身体を大事にしてほしいのですが」


裾を捲り上げて池に片脚を突っ込んでいる主人を見つめ、執事はぼやく。


「ジオードに行く気はあるのでしょうか。風邪でもひいたら……」

「這ってでも行くでしょうね」


中腰になり、池の水に尻を濡らしながら両手で水面を波立たせている父親を見つめ、娘はこぼした。


「お父様、楽しそう」

「昔からああいう物には目がないお方ですから」


執事は懐かしむように灰色の目を細める。スフェーン子爵とは娘であるリシア以上の長い付き合いなのだ。あのように周りが見えなくなっているスフェーン子爵に振り回されることも、これまでに数多くあったのだろう。


「旦那様も合間合間にあのように楽しまれているのですから、御嬢様も」


そう言って、執事は口を閉ざした。息をためて言葉を選んでいるようだ。


「……学業の合間に、御自身の好きな事をなさってください」


リシアは沈黙する。


父と一緒に土いじりをしたり、ウインドミルの手入れをする事を指しているのではないのだろう。


互いに黙り込む二人の視線に気付いたのか、スフェーン子爵は無邪気な様子で手を振る。手をふりかえす代わりに、リシアは大声で父をたしなめる。


「お父様!体を冷やしちゃう」

「そうだね。もしかしたら冷気や熱気や昼夜の温度差に反応しているのかもしれない」


全く噛み合っていない会話を交わして、父は再び池を浚う。リシアが呆れていると、執事は珍しく愉快そうな笑みを浮かべた。


「御嬢様、旦那様は私が引き揚げてまいります。もう夜更けです。そろそろ寝室にお戻りを」

「わかった。お父様をよろしくね。おやすみ爺や」

「お休みなさいませ」


執事と就寝前の挨拶を交わして、リシアは東屋から自室に向かう。まだまだ夜風が肌寒い季節だが、薬草茶のお陰か、体がぽかぽかと暖かい。


一陣の風がリシアの前髪を軽く乱す。その風音に混じって、微かな旋律がどこからか聞こえてきた。


立ち止まって周囲を見渡す。旋律の主らしき人物は見当たらない。父と執事が口ずさんだものとも思えなかった。


漣のような歌声だった。風と共に耳をくすぐった旋律は、既に淡く忘却しつつある。


異国の歌だろうか。


駅の方角の空を見上げる。遥か彼方から渡りきた人々がひしめき合う不夜城は、夜空を灯火で焼いていた。





治安が悪い異国通りを避けて、普通科の制服を纏った少女は川縁の煉瓦道を行く。街灯の仄かな明かりが水面に影を落とし、揺らいでいる。その光景が言いようもなく不気味で、少女は足を早めた。


建ち並ぶ住宅に明かりは灯っているのに、人々の話し声や生活音はまったく聞こえてこない。まるで住民の消えた世界に迷い込んだようだ。


女学生が彷徨くとは思えない時間に出歩いているのは、「声の伸びが気に入らない」という理由で顧問に捕まっていたからだ。発表会はまだまだ先だというのに、顧問は随分と熱気のこもった指導を行なっている。同じ部活の同輩も、苦言を呈していた。


もっと高く。もっと情緒的に。もっと響かせて。


次から次へと、顧問は女学生に求めた。中には女学生の個性を殺すような要望もあった。


基本が大事なのだと顧問は言っていたが、恐らく真意は違う。


女学生に「代わり」になる事を求めているのだ。


本来なら指導しているはずだった、あの少女の代わりになる事を。


面白くない気分だ。足下の石ころを蹴り飛ばす。石ころは煉瓦道を弾みながら転がり、濁った川に落ちた。


同心円状の波紋が広がり、他方の漣とぶつかり、掻き消された。


ふと違和感に感じて、女学生は下流を見つめる。


下流から押し寄せる微かな漣と、か細い旋律。


それらを伴い遡上する、水面下に潜む巨大な影に気付いて、女学生は息を飲んだ。


影は女学生に近付くにつれ浮上し、水面を大きく盛り上げる。


水中から出現した「怪物」の姿を目の当たりにして、女学生は静寂を裂くような叫び声をあげた。

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