誘い
アルフォスと名乗る男子生徒は、手帳に自身の名と組を書いてリシアに手渡した。
「その、やっぱり色々考えることあるよね。今すぐ返答が欲しいってわけじゃないから」
気遣うようなことを言って、アルフォスは屈託のない笑みを浮かべた。放心状態のリシアは、ため息のような言葉を呟くことしかできない。
「はあ……」
「それじゃ。いい返事を待ってる」
そう告げて、突如現れた男子生徒は風のように去っていった。走り書きが記された紙片を手に、リシアは立ち尽くす。
喜ぶべきだ。
わかってはいるが、何故だか手放しに喜べない。紙片に目を通し、考え込む。
即座に了承しても良かった。というより、そうするべきだった。廃班の危機にある第四十二班にとって、彼は願ってもない救世主である。それなのに躊躇してしまったのは、「彼女」の存在が胸中にあったからだ。
アキラに、何と伝えよう。
アルフォスとアキラ、両者と共に迷宮に潜る事は出来ない。彼女が普通科の女生徒で、連れ立って二人で迷宮探索をしていた事が明るみに出たら、どんな問題になるのかがわからないからだ。危ない橋は渡るべきではない。
そうなると、アキラとはもう、連まない方が良いのだろうか。
そう考え至って、リシアの胸の奥がちくりと痛んだ。三度の冒険で、リシアにとって彼女はただの「同行者」以上の存在になっている。そんなアキラと今更縁を切るのは、まるで用済みになったから去るようで酷く薄情に思える。
……実際、今のリシアにとってアキラは用済みなのだろう。正規の班員が加入したら、そちらと課題をこなした方が安全だし学業上の問題も無い。しかし。
思考が堂々巡りに陥っていることに気付いて、リシアは髪を両手で乱す。一向に気は晴れない。
何も言わずに去るわけには行かない。もしもの場合に告げる別れの言葉を考えている自分自身に嫌気がさした。
別れを告げるなんて、まるで、かつての親友のようだ。
放課後の中庭は、赤く照らされた木々の枝がそよぐばかりだった。
周囲を見渡し、アキラは少し寂しげなため息をつく。何の約束もしていないのだから、彼女がいないのは当然だ。ただ、これまでほぼ毎日、放課後は彼女と行動していたから何だか落ち着かない。
昼休みの事を思い出す。リシアにも迷宮科の学生として、いや、それ以前の個人の時間があるのだ。もしかしたら今頃あの男子生徒と過ごしているのかもしれない。
あまり陽が当たらない長椅子を見つけ、腰を下ろす。待っていてもリシアが来るとは思えないが、ほんの少し期待をして時間を潰すことにした。
鞄から手帳を取り出す。これまでの冒険でリシアや夜干舎の人々が教えてくれたこと、自身が気付いた事を書き留めておこうと思い、昨日新しい手帳を買ったのだ。
既に各通路の地図や植生が書き込んである頁をめくり、動植物の特徴や利用方法などをリシアから教えてもらった範囲で記入する。意外に、民間療法で用いられている薬草や皮革製品に加工される動物が多い。エラキスの迷宮が見つかってそれ程長い時は経っていないが、迷宮産の動植物はすっかり定着し、利用されている。
逆に迷宮発見以前に用いられていた薬草などはどうなったのだろうか。薄荷などは迷宮産の方が鎮静効果が高いというから、現在地上産の薄荷は出回る事が少ないのではないか。あるいは、一般的には危機を侵さずとも手に入る薄荷の方が安価で手に入るから市場では住み分けできているのかもしれない。
第三通路の地図を書き込んだ頁を開く。こっそり持って帰ってきた、乾燥したホラハッカが挟まれていた。その柄をつまみ匂いを嗅ぐ。以前よりは薄くなったが、まだあの清涼な香りは残っている。
薄荷の香りを楽しんでいると、微かな物音が聞こえた。
即座に立ち上がり、周囲を見渡す。長椅子のすぐ側を見て一瞬目を見開く。
「おっと。そんなに殺気立たなくても」
男子生徒が両手を挙げ、降参の姿勢を取る。見覚えのある笑顔に、アキラは思わず目を細め、男子生徒を睨みつける。
「なんですか。気持ち悪い近付き方して」
「こんなに早く気付かれるとは思わなかったよ。やっぱり、見込みありだ」
軽く言ってのけるシラーを、アキラは気味の悪い生物を見るように一瞥する。
同時に、二の腕が粟立つ。すぐ近くで物音がするまで、シラーの接近に全く気がつかなかったからだ。
「今日は、いつも一緒の子はいないのかい?」
おそらくリシアの事だろう。アキラが何と答えようかと考えあぐねている間に、シラーは囁く。
「仲違いでもしたのかな」
「そんな事、ないです」
思わず大きな声を出してしまう。そのことに一番驚いているアキラの顔を見つめ、シラーは苦笑する。
「悪かった。確かに、連日迷宮に潜るわけはないからね。今日はお休みってところかな」
休息は大事だからね。
シラーはそう言って笑う。以前の嗤い顔とは違って、絵に描いたような好青年の微笑みだった。その顔をアキラは訝しげに見る。
「お互い暇というわけだ。良ければ、どこかに食事にでも」
続く言葉に、一瞬脳内が疑問符で埋まる。何かを答える前に、シラーの言葉が次々と投げかけられる。
「学生通りでも良いけど、麦星通りの垂穂軒なんかは静かで学生にも行きやすいお店だよ。主菜だけ注文も出来るしパンが食べ放題だし。ちょっと量が多めだけど、裏道の銀鶏亭も美味しくて良い店だね」
パンが食べ放題、量が多め……魅力的な言葉の数々に、アキラの堪え性のない胃袋が音を立てそうになる。背筋を伸ばし、真面目な顔で考える。
麦星通りは少し強気な値段設定の店が並ぶ場所だ。アキラの食費では貴族式の前菜から甘味まで提供される献立を食べるのは少しきつい。だがパンが食べ放題ならば、主菜だけでも満足できるはずだ。一方、裏道の店は財布に優しい値段の場所が多い。さらに量が多めだと言うから、やはりそこでもお腹いっぱいになれるだろう。
そこまで考えて、アキラは我に帰る。
悩むまでもないはずだ。こんな胡散臭い男と食事になんて行けない。
シラーを制するように、そっと右手を挙げる。
「すみません。お断りします」
「そう?ものすごく悩んでたみたいだけど」
葛藤は見抜かれていた。
「知らない店が嫌なら、君の行きつけの店はどうかな。例えば、集会所代わりの酒場とか」
どうも濁す様な言い方だが、浮蓮亭の事を指しているのだろう。
先程よりも素早く、アキラは返答をした。
「駄目です」
誤解されるかもしれないからだ。
断言したアキラを見つめ、シラーはわざとらしく口元に手を当て考え込む。
「そうか……なら、しょうがないね。次はいい返事を聞けたら嬉しいんだけど」
また気が向いたら誘う、という事だろうか。なんだか身勝手なシラーの振る舞いにアキラは嫌悪感を持つ。その身勝手な誘いに一瞬でも心動かされた事実が悔しい。
「それじゃあ、また今度。リシアにもよろしく」
ひらひらと手を振り、第六班の班長は去っていく。こうやって、先日の女子生徒と親密になったのだろうか。まるで通り魔だ。シラーの後ろ姿を見つめ、今だ油断ならない心地でアキラは手帳を仕舞う。リシアの事は気になるが、今日は早々に帰宅した方が良さそうだ。
鞄を開くその手がふと、止まる。
なぜ、行きつけの酒場の事を出された時に、あんな事を思ったのだろうか。
誰に「誤解される」事を、アキラは恐れたのだろうか。
微かな疑問は、しかしすぐに溶けて消えてしまった。鞄を背負い、足早に中庭を去る。
空は赤から夜の青へと移り変わりつつあった。




