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スフェーン邸の朝

目映く陶酔するような時間が終わり、リシアは火照った体を冷やすため、冷水を一口含んだ。水が隅々まで染み渡っていくような気がして、ほうと溜息をついた。控え室に据え置かれた布張りの椅子に腰掛け、ひと心地つく。


瞬く間の、夢の様なひと時だった。帝立劇場のあの舞台で、リシアは一人で歌い切ったのだ。幕が上がる間際の静けさも、いつもよりも高らかに響く己の歌声も、息をついた後の割れる様な拍手と歓声も、すべて……現実だ。


手の甲に、ぽたりと温かな雫が落ちた。緊張の糸が切れてしまった様だ。せっかくの化粧が落ちてしまうのも気にせず、リシアは目元を拭う。酷い顔になってしまっているだろう。これから会もあるというのに。


手巾で顔を拭く。少しはましになったかもしれない。


重厚な扉を、誰かが軽く叩いた。


「リシア」


顔を上げる。思わず口元が綻び、リシアは泣き笑いの様な表情になる。


親友の声だ。


「入ってもいい?」

「うん!」


扉に駆け寄り、把手をひく。廊下には季節の花々を用いた花束を抱え、それに隠れる様に顔を覗かせた幼馴染が立っていた。


「……おめでとう!すっごく綺麗だったよ」

「ありがとう、マイカ……」


差し出された花束を受け取り、再び涙ぐむ。顔を花束に埋めそうになって、すんでのところで堪えた。


「私の方こそ。招待してくれてありがとう」

「だって、親友だから。マイカに一番聞いて欲しかったの」


大群晶の煌めきの下で歌う。


これ以上無い名誉だ。


その晴れ姿を、家族と無二の親友に見てもらえた。


心の底から、幸せだ。


「本当に、素晴らしい歌だった。だって私、思わず涙が出ちゃったから」


気品のある仕草で薄っすらと紅い目をこすり、マイカは笑う。


「最後の舞台に相応しい歌だったね」


声が、出なくなった。


「リシア。もう声楽はやめるんでしょう?」


胸元で祈るように手を組み、マイカは囁く。


「あなたの夢はここで終わり。でも、とても良い幕引きだったよね」


そんな事はない。


ここで終わるなんて、そんなはずはない。


歌は、すべてを失っても出来るはずだ。


「でも、もう楽譜も無いじゃない」


楽譜は……あの時、燃やしてしまったのだ。


あの時。


歌をやめると決めた時。


「リシア。聞く人も立つ舞台も無いのに、歌い続ける意味はあるの?」


マイカが囁く。笑う。


花束が落ちて、






「御嬢様」


薄布を通した柔らかな光が、頰を照らす。

忘れていた呼吸を思い出し、リシアは短く息を吐いた。


「御嬢様。お目覚めでしょうか」


扉の向こうで、執事が心配そうに声をかけた。ゆっくりと起き上がり、しばらく茫然とする。


限りなく現実に即した、夢だ。


再度そのことを認識して、眠気覚ましのために頰を両手で叩く。


思いのほか力を入れてしまったのか、頰に熱い痛みが走る。


「いたっ」

「大丈夫ですか!」

「うん、大丈夫、大丈夫……」


声を荒げる執事をなだめて、寝台から降りる。


「すぐ準備するから」






いつも通り身支度を整え、階下の食堂に向かう。


食事が並んだ卓には、父の姿は無い。


「お父様は?」

「旦那様は昨晩から顕微鏡を覗いておられます」

「……」


例の光る水だ。


スフェーン邸の噴水を光の飛沫に変えた何者かの正体を探るのに、父は躍起になっているのだ。昨晩の騒ぎの後、水を採取して部屋に閉じこもり……それっきりだ。


朝食を忘れるとは、相当の事態である。


「呼びに行きましょ。食事を抜いたら、お父様倒れちゃう」

「それはいけませんね」


執事は主人の部屋へ向かう。並んで、リシアも廊下を進む。


「お父様」


突き当たりの豪奢な扉の外から父を呼ぶと、中から唸りとも呻きとも知れない声が聞こえてきた。


「入るね」


扉を静かに開ける。植物とカビの臭いが篭った部屋に入り、片隅で本を読んでいるスフェーン卿の姿を見つける。


「珪藻に似ているけど……甲殻類かな、肉をあげてみよう」

「お父様、朝食」

「ああリシア。やっぱりあれは新種だよ、そうに違いない。博物誌にも大百科にも碩学院の機関誌にも載っていないんだから。いやあ、これを是非とも碩学の皆さんにも見てもらいたいものだね!ほらこっち来てくれ。今は光らないけどとても特徴的な姿をしている。星みたいだ」

「お父様、朝食」


もう一度、はっきりと告げる。


スフェーン卿は顕微鏡の反射鏡を弄る手を止め、バツの悪そうな笑顔を浮かべた。


「……おはよう」

「おはよう」

「おはようございます」


三人は遅ればせながら挨拶を交わす。執事が遮光の薄布を開け放ち始めると、主人は観念した様に部屋から出た。


「一晩中起きてたんでしょ。朝食をとったら、少し横になってね」

「その前に草稿を」

「体調を崩したら、報告書も論文も書けないし碩学院にも行けなくなるよ」


娘にたしなめられて、父は頭を掻いた。


「それもそうだね……」


子供じみた困り顔を見て、リシアは溜息をつく。何かに熱中すると周りが見えなくなり、自分の身も構わなくなるのだ。


……リシアも気をつけなければならない短所である。


食堂に入り、父を席に着かせる。後から慌ただしく戻ってきた執事が、茶瓶に被せた布の覆いを取り、磁器に薄荷茶を注いだ。


「お待たせいたしました」

「いやいや、こちらこそ……ありがとうウルツ」


リシアは配された磁器を手に取り、清涼な香りの茶を一口含む。僅かに甘みを感じる。


食前の祈りを捧げ、食事を始める。リシアが薄切りパンに苺の砂糖煮をたっぷりと塗る間、スフェーン卿は執事と今後の予定について話をしていた。


「……そういうわけだから、近日中、碩学院に寄稿ついでに実物を持っていこうと思ってね。ウルツも久し振りに古巣のみんなに会いたくないかい」

「大変魅力的な提案ですが」


早々に空いた皿を下げながら、執事はちらりとリシアを見る。


「御嬢様を御一人にするわけには」

「あ……そうか。リシアは学業もあるからね」


父は申し訳なさそうな顔をする。しかしすぐに笑顔になって、


「今回は僕一人で行くよ。勝手知ったるジオードだからね」

「大丈夫?」

「大丈夫大丈夫。リシアもウルツも、お土産は何がいいかな」


かつてはジオードに留学していたこともあったのだ。道も伝も問題は無い。執事の方も、主人がとつぜん思い立つ一人旅には慣れているようだ。


「リシアをよろしく頼むね」


スフェーン卿がそう告げると、執事は深々と礼をした。


「そうと決まれば観察執筆だ。朝食の後、横になって休むから三十分後くらいに起こしてほしいな」


一晩の疲れを半時間の仮眠で癒すつもりなのだろうか。もう何を言っても無駄だと考えて、リシアはパンを小さく齧った。

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