ひととき(2)
「くしゅっ」
重い空気を打ち破ったのは、リシアの小さなくしゃみだった。一同の視線を浴び、リシアは赤面する。
「か……風邪ひいたみたいで」
「それはいかん」
これ幸いとばかりに、店主はリシアの体を労わるような言葉をかける。
「何か温まるのでも食べるか」
「お願いします。あ、軽く食べられるもので」
「いつもと同じだな」
「あ、私もリシアと同じものを下さい」
二人の注文を受け、早速店主は調理に取り掛かる。何をしているかもわからない作業音に耳を傾けながら、リシアは炉を包みなおした。しばらくは家で保管することになりそうだ。手放せる目処はたっていないが。
「そういえば、あの光る水は?水筒に汲んでいたよね」
リシアの隣の席に腰掛け、アキラは昨日の事を思い出したのか告げた。
溜息を一つついて、リシアは返答する。
「それがね。あの水、今朝見たら全然光らなくなってたの」
水筒の中の水は、ただの湖水に成り果てていた。
少し淀んだ臭いのするそれを、リシアは心底残念に思いながらも、庭の池に流してきたのだ。
「あの場所じゃないと光らないのかも」
「そうだったんだ……」
「なんだい、光る水って」
女学生二人の会話に、呪術師は興味を示す。
リシアとアキラは遺物を追って訪れた、あの不思議な蒼い湖について話す。二人の現実味の無い話を、ケインは耳を前後に動かしながら聞いていた。
「あの迷宮の奥に、そんな場所があったのかあ」
一通り説明を終えた後、興味深そうな顔でケインは腕を組んだ。左隣で水を飲んでいるライサンダーの方を向く。
「聞いたことあるかい?そんな場所が見つかったって話」
「いいえ。舟を使った探索は今日から始まったようですが……昨日の時点では聞いたこともないです」
「君らの足で行けたということはそんなに深場でも無さそうだし。見つかってないというのは不思議だね」
ケインとライサンダーの言葉を聞きつつ、リシアは迷宮に思いを馳せる。
まだあの空間が見つかってないということは、遺物の亡骸は今も、蒼い光の中で崩折れているのだろうか。
「迷宮が行き止まりになったとか。新しく壁が出来て」
真顔でアキラが告げたとんでもない想像を、ハロが一笑に付した。
「樹海ならあり得るかもしれないけどさ」
「あり得るんだ……」
「壁画やら文字も、結局私達は見つけられていないし、想像以上に広い迷宮のようだね。瀝青出版が困ってるわけだ」
薫製肉の細切れをつまみながら、ケインは溜息をついた。
「壁画やら文字」という言葉を聞いて、リシアは鞄を探る。水を被ってくたびれた野帳を取り出し、最後の頁を開いて卓に置いた。
「文字って、これかも。昨日行ったところに彫られていたんです」
ケインは身を乗り出し、野帳を見つめる。しばらく真上や横から位置を変えて眺めた後、「読めん!」と叫んで豪快に笑った。
「さっぱりだ!」
「こういうのはライサンダーが得意でしょ」
真横から野帳を掠め取り、ハロはライサンダーに寄越す。
「元々フェアリーに関連があるかもって噂だったんだし」
「そうだったんだ」
ライサンダーは受け取った野帳を大きな手に乗せ、つぶさに見つめる。暫く帳面を見た後、不意に口を開いた。
「ドヴェルグの古語に似ていますね」
「ドヴェルグ?」
「フェアリーの一種族だよ」
「この一節は、叙事詩によく使われる言葉です。えっと……」
暫し、ライサンダーは考え込む。母国語とも公用語ともしれない言葉をいくつか呟き、一番野帳の文に近い意味合いを持つのであろう言葉を述べた。
「直訳すると、いつの時代かの人が戯れに歌ったが墓石よりも長く残っている、となります」
「なんか物々しいね」
「昔々あるところに、みたいな感じですか」
アキラの発言に、ライサンダーは頷く。
「そうですね、それと同じように使う一文です」
ほー、と簾の向こうから感心したような溜息が聞こえてきた。
「他の部族の古語が読めるのなら、公用語も他人行儀な敬語以外を喋れるんじゃないのか」
「これでもマシになってるんだぞ。前は時候の挨拶をしないと会話が始まらなかった」
「融通がきかないんだよ」
散々な言い様の同業者を横目に、フェアリーは弁解をする。
「ジオード語は、勉強中なんです。会話の作法も違いますから覚えるのは大変です」
そう言って、先程持っていた包みを卓の上に出し、紙を解いた。辞書と、簡単な日常会話の用例集が現れた。
「読み書きは問題ない、と思うのですが……やはり会話は慣れが必要ですね」
そうライサンダーは言うが、日常会話にも支障は無いように思える。発音も流暢だし、普段のリシアよりよっぽど丁寧な言葉遣いだ。
感心するリシアに、眉をひそめながらハロが囁く。
「あんな事言ってるけど、ガリア語にノルディンとゲルマニアとジブラルタルの公用語も話せるんだから、此処の言葉なんてすぐ覚えるでしょ」
かなり語学に堪能なフェアリーのようだ。店主の言う通り、喋ろうと思えばジオード語でごく普通に砕けた会話も出来るのかもしれない。




