微々たるもの
鍵盤琴の音色に乗って、歌声が聞こえてきた。
放課後の部活動なのだろう。神を讃える歌の調べは「迷宮学概論」を読むリシアの耳にも届き、ほんの少し表情を曇らせた。
部活動をしている生徒はほぼ全員が普通科だ。普通科の課程に加え、独自の講義と課外活動を抱える迷宮科の生徒には、部活動に励む暇は無い。
だが、憧れはある。
もし部活動が出来たら。
迷宮科の生徒ではなかったなら。
……意味のない夢想だ。
暗澹とした気持ちのリシアをよそに、鼻がむずむずとひくつく。
顔を右の二の腕で覆い、小さくくしゃみをする。
昨日一日で、随分と水をかぶって体が冷えてしまった。「暗澹とした気持ち」も実は熱っぽいだけなのかもしれない。
そう思い込むことにしたリシアに、待ち人が声をかける。
「リシア」
中庭にやって来た赤ジャージの少女は、いつもより不機嫌に見えた。
教科書を閉じ、鞄にしまう。
「遅かったね」
「うん……待たせてごめん」
いつもより低い声音で、アキラは遅刻を詫びた。
あまり詮索はしない方が良いと考え、リシアは歩き出す。
「それじゃあ、行きましょうか」
「うん」
それきり無言になるアキラを気にかけながら、学苑を出て役所へ向かう。
いつも通り、冒険者らしき姿ばかりで学生のいない麦星通りを進み、厳しい構えの役所に立ち入る。あまりこちらの役所に縁はないのか、アキラは周囲を見渡す。
「ここに依頼の窓口とか、あったんだ」
「そうみたい……私もついこの間場所を知ったんだけど」
窓口を見つけ、髪をきっちりと纏めたドレイクの受付嬢に挨拶をする。受付嬢は口元だけで笑顔を作り、机に肘を立てて両手の指を絡めた。
「こんにちは。ご用件は」
抑揚のない声と事務的な笑顔に気圧されながらも、リシアは申請書と胴乱を提出する。
「アキラも。採集した植物」
「うん」
麻袋を受け取り、胴乱の隣に置く。
受付嬢は卓上の申請書を一瞥した。
「かしこまりました。少々お待ちください」
先ほどの一瞥で依頼の概要を理解したのか、受付嬢は申請書と提出物を持ち、受付の奥へと消える。
手持ち無沙汰になり、二人は掲示板に向かう。
未踏破の第五通路の調査依頼だけが、貼り付けられていた。
揃って溜息をついてしまう。
「最前線は流石に難しいよね」
アキラの言葉に思わず相槌を打ち、リシアは我に帰る。どちらが迷宮科なんだか。
「お待たせいたしました」
よく通る声が響く。受付嬢が金属の浅い盆を持って、窓口に立った。
やけに早い。そう思いつつ、リシアは窓口に歩み寄る。
盆には赤紙幣が二枚と領収書が一枚、乗っていた。
「……」
「お疲れ様でした。今後ともよろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします……」
紙幣と領収書を受け取り、赤紙幣一枚をアキラに渡す。アキラは報酬をしげしげと眺めて、
「ありがとうございます」
素直に受付嬢に礼を述べた。リシアもはっとして、頭を下げる。
「今後ともよろしくお願いします」
再び事務的な挨拶をする受付嬢に笑顔を返して、二人は役所を出る。
通りへ至る階段の途中で立ち止まり、掌の紙幣を眺めて、リシアは溜息をついた。
「……こんなものなのかな」
思わずこぼしてしまう。前回のキノコ採集やそのまた以前の蟲素材を売却した時の収入と比べると、随分と見劣りしてしまう。時給か種類に応じた金額かはわからないが、労働に見合わないような気がした。
あんなに大変な目に遭ったのに。
そう考えて、我に帰る。昨日起きた事を役所は知る由も無い。
「今回も、ちゃんと帰ってこれて良かったね」
同行者が呟いた。
彼女の言う通りだ。あれだけの目に遭って、生きて報酬を得ることが出来た。
今は、それで充分だ。
それに、あの危機の報酬は別の物で得ることが出来る。
腰帯の小物入れにそっと触れ、リシアは息をつく。
「そうだね。浮蓮亭に行って、店主や夜干舎に元気な姿を見せよう」
「うん。ああ、その前に……」
次の予定を立てつつ、階段を下りきったところで、アキラが足を止めた。一点を見つめる赤ジャージにつられてリシアも立ち止まる。
「どうしたの」
「……ライサンダーさん!」
アキラは声を張り、右手を大きく振る。麦星通りを歩いていた外套の異種族がこちらを振り向いた。
「こんにちは」
夜干舎のフェアリーは立ち止まり、軽く会釈をする。アキラは彼に駆け寄り、リシアもその後を遅れてついて行く。
「こんにちは。これから浮蓮亭へ?」
「はい。お二方もそうでしょうか」
穏やかなフェアリーの言葉に、リシアは頷く。語学の教科書のような受け答えだ。
アキラが視線を下に向け、何かに気付く。
「お菓子ですか?」
「いいえ、別の買い物です」
小脇に抱えた包みを、外套の下に潜り込ませる。書籍のように見えた。
「今日は迷宮に潜っていないので、菓子は食べていないですね」
「そうなんですか。てっきり、あそこのお店の焼き菓子を買ったのかと」
「あ、あそこも美味しそうですよね」
リシアを置いて、二人は麦星通りの焼き菓子店の話で盛り上がる。いつの間に、こんなに打ち解けたのだろうか。
不意に、アキラが上着の懐に手を差し入れる。何かを握りしめ、暫し黙り込む。
「どうかしましたか」
フェアリーが聞く。その顔を見上げて、アキラは一息に告げた。
「私が奢ります。リシアとライサンダーさんに」
「えっ、何を?」
「そこのお菓子」
アキラは懐から丸まった赤紙幣を取り出し、広げた。
「そんな、さっきの報酬を今使わなくても」
「あ、これは違うお金で、ちょっと色々あって……」
声がだんだん小さくなっていき、アキラは考え込む。
「……さっさと使いたいお金なんです」
「それは、出所が怪しいお金なのですか」
至極真面目な口調で、フェアリーは少女に聞いた。まさか、と思いつつリシアはアキラを見つめる。
「いえ、そういうのではないです。ただ」
赤ジャージの少女は、不満気に下唇を噛んだ。
「押し付けられたお金はさっさと使うに限ります」
そう言って菓子店を指差す。
「昨日のお礼です。ライサンダーさんにも、リシアにも」
「え、私にも?」
「リシアが居なかったら迷宮から帰れなかったかもしれないし、ライサンダーさんも薬をいただいたから」
「……ありがとう」
「ありがとうございます」
どこか有無を言わせない雰囲気のアキラに、リシアは礼を言う。ライサンダーもまた、断るのは失礼にあたると思ったのか、頭を下げた。
礼をするべきなのはこちらの方なのに。
リシアはそう思いつつ、今はアキラに有り難く奢られることにした。




