露悪
新品の鋤を渡すと、年老いた用務員は小首を傾げた。アキラは意味もなく頭をかき、珍しく挙動不審な様子で謝罪の言葉を呟く。
「あの、貸してもらった鋤なんですけど……その……本当に申し訳ありません」
「無くしちゃったのかね?」
「いえ、その。壊してしまって」
「花壇の修理でかい?」
「そうなんです。穴が」
「穴」
「いや、折れたんです。ぽっきりと」
うろたえながら嘘をつく。柄が焦げ、刃に穴が開いてしまった鋤を渡せば、用務員はアキラが危険な事をしでかしたのではないかと思うだろう。実際危険な目にはあったのだが。
用務員はなおも首を傾げ、受け取った鋤を見つめる。しかし不意に破顔して、
「まあ寿命だったのだろうね。備品のお使いという事で、今度代金を渡すよ」
「だ、大丈夫です。私の不注意で壊した物ですから」
「気にしなくてもいいんだよ。それより、大丈夫かい。その怪我」
用務員は自身の日に焼けた頰と額を指差す。それを真似るように、アキラも頰と額に触れた。目立たないように小さく切った綿紗が貼り付けられている。
「平気です。ちょっと転んだだけ……」
「気をつけるんだよ。ドレイクでも傷痕が残ることはあるんだから。女の子は顔に傷があったら大変だからね」
「はい。気を付けます」
消え入りそうな声でそう言う。相当反省したように見えたのか、用務員は困り顔になってアキラを励ました。
「まあ、そのぐらいの傷なら綺麗に治るだろうさ……それじゃあ、この鋤はいただこう」
「本当にすみません」
「大丈夫だよ。明日にでも学苑長に話しておくから、その内代金を支払おうね」
深々と頭を下げ何度目かの礼を述べる。用務員は快活に笑い、右手を振る。
「ほら、もう終業から随分と経っている。気を付けて帰りなさいよ」
「ありがとうございます。さよ……ご、ごきげんよう」
「さようならで大丈夫だよ」
慣れない挨拶をして、用務員室を立ち去る。
用務員の言う通り、終業の鐘が鳴ったのは大分前だ。リシアを待たせてしまっているかもしれない。
昨日……危機の後、当初の予定通り一旦帰宅して、翌日に報告をしようという話になったのだ。そのまま駅まで出てリシアと別れ、水を吸った麻袋と植物を持って帰宅した。昨夜はよく眠れた。
麻袋を無造作に携え、用務員室がある構内の一画の林を走る。
近道をしようと考え、林と普通科棟を区切る塀に向かう。速度を上げて助走をつけ、アキラの身長よりもずっと高い塀を軽々と乗り越える。塀の天辺に手を添え、弾みをつけて反対側に着地した。
しゃがんだまま軽く両手を叩く。中庭に向かおうとして前を向き、木陰で立ちすくんでいる男女二人組と目があった。
普通科の制服を着た女子生徒と、彼女の右手の甲に口付けをしている見覚えのある男子生徒だった。
突然の出来事に、三者とも身動きが取れなくなる。妙な空気と時間が流れた。
先に動き出したのは女子生徒だった。顔を赤く染め、裾を翻し走り去って行く。その様を男子生徒は虚をつかれたような顔で見つめ、突如吹き出した。
「いや、驚いたよ」
端整な顔立ちの男子生徒……シラーはひとしきり笑った後、アキラの方を向いた。
「女子が塀を飛び越えて来るなんて」
シラーは歩み寄り、着地時の体勢のままののアキラに手を差し出した。
「立てるかな」
そうシラーが言い終えないうちにアキラは差し出された手を無視して立ち上がり、膝を叩いた。軽く頭を下げ、シラーの側を走り抜けようとする。
「待ってくれ」
背後の声に、アキラは思わず立ち止まる。ゆっくりと振り向き、平素の無表情で「何でしょうか」と呟いた。
「無事なようで良かったよ。遺物から上手く逃げられたのかな。それとも」
倒したのかな。
シラーの碧眼が、探るようにアキラを見つめた。後退りも出来ずに、アキラはその場に立ち尽くす。
「心残りだったんだ。僕らは学苑に報告するために、迷宮を去ってしまったから。あの根掘りでよく倒せたね」
「倒したのは」
口をつぐむ。
この男に不用意な事は言えない。そう考え、アキラは目をそらした。
その様子を、シラーは愉快そうな笑みを浮かべて見つめている。
「なんだか、警戒されているね」
「……」
「何か機嫌を損ねるようなことでもしたのかな。申し訳ない」
右手を胸にあて、シラーは身をかがめる。慇懃無礼な辞儀を目にして、アキラは思わず声を荒げる。
「やめてください」
男子生徒は眉尻を下げ、困ったような顔をした。
「随分と嫌われてしまっているみたいだ」
「あなたの事は信用できない」
「信用?つい昨日出会ったばかりなのに……そう断言するだけの理由があるのかな」
「昨日、先史遺物に襲われた時に」
言葉を切り、アキラは目線を下に落とす。惑うような素振りだった。
「……背負っていた人を、降ろそうとした。見捨てようとしましたね」
鋼の怪物と相対し、鋤を射抜かれたあの時。シラーは男子生徒を支えていた腕を離そうとした。それをアキラに目撃され、再び男子生徒を背負い直されたのだ。
アキラは黙り込むシラーを見つめる。
男子生徒は穏やかに微笑んだ。
「なんだ。そんなことか」
シラーの言葉に、アキラは絶句する。
「単純な選択だよ。手負いで歩くことも出来ない生徒と、未熟だが動ける生徒二人。優先すべきはどちらか」
あるいは、と第六班の班長は続ける。
「身勝手な班員と、彼を助け不意を突かれた班長。共倒れになるのは避けたいよね」
班長は嗤う。先程までとは違う、冷たく不快な笑顔だ。
「『自分の班の人間を見捨てるなんて。迷宮では助け合うべきだ』……その思想を否定したりはしないよ。ただ、本当に窮地に陥った時にその信条を貫ける人間は少ない。自分一人だけが助かればそれでいい。そうやって生き延びて、無様に後ろ指を指される人間のなんと多いことか」
班長の言葉は止まらない。
「その点僕は、『多数』のために判断を下したつもりだよ。君らは無事に迷宮を抜け、第六班は班長を失って混乱する事もない。フリーデルを犠牲にして、僕以外のその他大勢も無事でいられる道を選んだ。感謝される事はあっても……こんなに嫌われるなんて」
僕を否定するのかい。
シラーが問いかけた。
言い訳だと、アキラは目の前の男子生徒を罵倒しそうになる。結局それは、自分が助かりたいがための行動だ。その行為を正当化するために、シラーは「その他大勢」を盾にしている。
だがそれを言ったところで、この男は全てを肯定するだろう。
アキラの返答など、端からまともに聞くつもりはないのだ。
「信用が無いのは、しょうがない事だね。結局、君の事を見捨てたような形だし」
シラーは懐から赤紙幣を一枚取り出す。それをくるくると丸め、アキラに差し出す。
「何のつもりですか」
冷たくアキラは言い放つ。
「不愉快な思いをさせたお詫びだよ。食事にでも誘いたいけど、君はそういうのは好かないようだし。それに、新しい鋤を買わないといけないんじゃないかな。足しにしてくれ」
怒りで言葉も出ないアキラに、シラーはそっと身を寄せる。
「……君は迷宮に潜って日が浅いようだけど、彼処ではこんな事はごく当たり前なんだ。リシアが君を見捨てないだなんて、言い切れるのかな」
息が詰まるような気がして、アキラはシラーを払い除けた。少しよろめいて、シラーは元の穏やかな笑顔を浮かべながら踵を返した。
「それじゃあ、普通科のアキラさん。また出会えたら」
颯爽と去っていくシラーの姿が見えなくなるまで、アキラはその場に立ち尽くす。頭が煮え立つようだ。
シラーの言葉に賛同するつもりはない。しかし……もしアキラが危機に瀕して選択を迫られたら。彼の言葉を正しいと思う事もあるのだろうか。
そして同じ状況に陥った時、リシアはどうするのだろうか。
恐ろしい想像を振り払い、アキラは待ち人の元へ走り出す。
上着の懐に違和感を感じ、手探る。嫌な予感に唇を噛みながら、紙片のようなそれを引っ張り出した。
掌には、丸まった赤紙幣があった。




