停止
水を乱射し始めた先史遺物から距離を取るべく走る。
浅場なのか、水深は膝下程度だ。それでも十分に水はアキラの動きを阻害し、煌めきは視界を惑わす。
耳の間際で風を切る音が響き、首筋がびりびりと総毛立った。数歩先に水の矢は着弾し、蒼い同心円を残す。波紋は広がり打ち消し合い、迷宮を仄かに照らし出す。
攻撃の手が休まる気配は無い。水の矢に「弾切れ」は無いのだろうか。
周囲に無尽蔵に水が有るとはいえ、水を取り込まないことには射出する事は出来ないはずだ。
水を補給する手立てがあるのか。
アキラは遺物に足元に目を凝らす。何か仕掛けがあるとしたら、常に水に触れている脚にあるはずだ。
湖面を駆けるアキラとの距離を詰めるべく、遺物は鉄柱のような前脚を一歩踏み出す。
水から揚がった左前脚から、仄かに光る雫が滴る。その雫の合間に、蒼く一定の水量の垂水があった。
あそこだ。
左前脚に、水を吸い上げる器官がある。
続いて揚がった右前脚には、特徴的な垂水は無かった。おそらく器官の給水口は左前脚の一ヶ所だけの可能性が高い。
水を吸って重量を増したジャージの上着を脱ぐ。軽く振り払うと、周囲に飛沫が飛んだ。ジャージをはためかせ、遺物の背後を取るべく周囲を駆ける。
水音を聞き取っているのか、遺物は砲口を正確にアキラに向ける。アキラの動きを先読みした遺物は、進路の僅か先に照準を合わせた。砲身が軽く振れたことに気付いて、アキラは咄嗟に立ち止まる。
仄かに蒼い水の矢が放たれ、目と鼻の先で風を切る音が響いた。湖の一点が蒼く輝く。
周囲を走り回っているだけでは駄目だ。そう気付き、アキラはほんの少し迷って、遺物の方へ向かった。遺物と正対すると、砲口の微かな動きも良く見えた。狙いを定められないように、左右に大きく曲折しながら走る。自らに向かって来る水の音の主の軌道が測れないまま、遺物は困惑したように砲身を旋回する。
早々に狙撃を諦めたのか、遺物は蒼い矢を乱射し始めた。矢の合間をくぐり抜け、アキラは盲目の脅威に接近する。
根掘りの刃をジャージで包む。このまま脚元に潜り込んでしまえば……。
遺物が数歩後ずさる。
目の前に、砲口が現れた。
アキラは息をのむ。砲口から逸れようとしゃがみ込み、体勢を崩す。水面に突っ伏したアキラの鼓動が、恐怖で高鳴った。
「こっちだ!」
勇ましい声が、遺物の背後から聞こえた。
焔の波が鋼の怪物に襲いかかる。
揺らめく焔の向こうに、猫っ毛を振り乱した少女が立っていた。
リシアだ。
焔に背を炙られ、遺物は砲身を真後ろに向ける。そうして排除よりも消火を優先したのか、広範囲に柔らかく水を撒く。完全に焔に気を取られている遺物を見て、ようやく、アキラの身体が動き出した。
脚元に潜り込み、左前脚にしがみ付く。手探りで脚の表面を調べると、水面のすぐ下にぽつりと開口部があった。わずかに水を吸い始めたそこに、上着を巻いた根掘りを突き立てる。
粗方消火を終えた遺物は火の元がリシアである事を理解したのか、佇む少女に砲口を向ける。リシアの顔が強張る。
勢いよく、砲口から空気だけが噴出した。
空撃ちだ。
左前脚の吸水口から啜音が派手に響く。異物が詰まって、上手く水を補給出来ないようだ。
「リシア、今だ!」
アキラが叫ぶ。
少女は白銀の剣を構え、全体重を乗せた突きを繰り出す。
眼球を抉り取られた眼窩に剣は深く突き立った。
一際明るく、紅く、ウィンドミルの炉が輝く。
篭った破裂音が響き、怪物の胴体が歪に膨れ上がった。甲殻の隙間が開き、熱気が噴き出す。
束の間の静寂が訪れる。
静止していた遺物は膝を折り、湯気を立てて湖に倒れ伏した。
「……止まった?」
小さくリシアは呟き、家宝の柄から手を放して同行者に駆け寄った。
リシアの眦から、涙がこぼれ落ちる。
「アキラ、血が!」
「え?あー……」
尻餅をついていたアキラは、濡れた手で額を拭う。水とは違う、ぬるぬるとした液体が纏わり付いた。おそらく壁に押し付けられた時に傷ついたのだろう。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない!頭でしょ!」
腰の小物入れから布巾を取り出し、慣れない手つきでアキラの額に当てる。
その間も、リシアの頬を涙が伝い、水面に落ちた。蒼い同心円がいくつも広がる。
ごめんなさい。
小さく、リシアがそう呟いたような気がした。
何故彼女が謝るのか、よくわからない。
アキラは謝罪の真意を問うこともできずに、大人しく手当てを受けた。
途端、遺物が大きく痙攣した。
振り向き、硬直するリシアの手を引きアキラは遺物から離れる。遺物の脚がわななき、側面の甲殻が剥がれ落ちる。
再び、遺物は伏した。
「……お、驚かせないでよ」
声を上擦らせながら、リシアは遺物に歩み寄る。甲殻の隙間から中を覗き込み、目を見開いた。
その様子を見たアキラは立ち上がり、リシアの背後から亡骸を見下ろした。
立ち上る蒸気の奥で、何かが瞬いている。その光に吸い寄せられるように、リシアは右手を伸ばした。
瞬きに触れ、手を引っ込める。
「あつっ」
アキラは足元の水をすくい上げ、瞬きに注ぐ。一層高く厚く、白い蒸気が視界を覆う。
再びリシアが手を伸ばした。
震える指先が瞬きを掴む。
「……炉だ」
蒸気から引き上げられたのは、淡い緑色の球だった。蔦のような金属の飾りが施されたそれは、仄白く明滅している。
迷宮の奥底から現れる遺物の心臓、あるいは魂とも言うべき器官。それが「炉」だ。掌に収まるほどの、宝玉のような真髄は火を生み出し、鋼の怪物を操る恐るべき力を秘めている。
リシアは固唾を呑む。
炉の恐ろしさは良く知っている。ウィンドミルはともかく、安全装置も付いていない剥き身の炉など一介の学生には手に負えない。
だが、これを持ち帰る事が出来たら。
光を深く球体の奥底に沈めた炉を見つめ、リシアは考え込む。
そうして……炉を小物入れに納めた。
「リシア、見て」
リシアの葛藤とその末に出した結論もつゆ知らず、アキラは中腰になって両手で水を波立たせる。
蒼く光る漣が、リシアの膝下に押し寄せた。
「あ……水が光ってたんだ!」
ろくな光源もないのに、周囲がほの明るく見える理由に気付く。リシアが両手を組んで水を飛ばしたのを皮切りに、しばらく二人は互いに水を跳ねかけあって遊び、戯れた。
咄嗟に思いついて、リシアは水筒の蓋を開けた。僅かに残った中身を飲み干して、代わりに湖水を汲む。
思いの外澄んでいる水を汲み上げていると、水底に何かが描かれている事に気付いた。水を汲む手を一旦止めて、リシアは揺れる水面に目を凝らす。
硬く平らな湖底に文字が彫られている。少なくともエラキスの公用語ではない。花押のようにも見える優雅な書体が周囲に……おそらくは湖底一面に刻まれているのを見て、リシアは息をのむ。野帳と硬筆を取り出して、文字の一部を模写する。
発見後に彫られた文字ではない。誰かが遥か昔に、ここに文字を刻んだのだ。
この迷宮を造った、何者かが。
「そろそろ戻ろう」
周囲を見渡し、アキラはリシアに声をかける。
「冷えてきたし、あまり長居したくない」
アキラの言葉に同意するように、リシアは頷いた。
無機質な湖底の文字。動きを止めれば、漣一つ立たない水面。
静寂の迷宮は、二人を拒絶しているようだった。




