撤退(3)
「店主に頼んでいた事をすっかり忘れていました。ありがとうございます」
「いえ」
ライサンダーの満足そうに揺れる触角を見つめながら、どうと言うことはないという風にアキラは手を振る。
「お陰で私達も、味見をすることが出来ましたし」
「良いおやつだった」
ケインはそう言って油で光る指を舐める。紙箱の蓋を元の通りに閉め、懐にしまう。
「ところで、君らはもう帰るのかい?」
「仕事は済んだし、ここは危険みたいだから……」
周囲を見渡し、リシアは答える。死者は居ないものの、そこかしこからは呻き声が聞こえ、血の匂いが漂う。
そして先程までは感じられなかった、明らかな張り詰めた空気。速やかに此処を離れろと、リシアの本能が告げている。
「アキラも怪我してるし」
「そうか……気をつけて帰るんだぞ。あの一体だけとは限らないからね」
脅すつもりは無いのだろう。しかしケインの言葉に、リシアは思わず表情を固くする。
そんなリシアの心中を知ってか知らずか、ケインは大袈裟な手振りで傍らのフェアリーを示し、にっこりと微笑んだ。
「なんなら、うちのライサンダーを護衛につけようか」
「!」
アキラが色めき立った、ような気がした。傍目にはいつも通りの無表情だが、その目は期待で満ちている。
「彼は先史遺物討伐の経験があるんだ。当然ヒドラなんかは問題なく処理出来るし、紳士で人当たりも良い。心配ご無用」
「僕達もご一緒していいかな」
高らかな売り込みを遮るように、シラーが穏やかな声音で問いかけた。その言葉に、今度はリシアが色めき立ってしまう。
「え?あ……先輩達がいらっしゃると心強いです!是非是非」
「嬉しい言葉だね」
シラーが微笑む。澱んだ洞内の空気が一瞬で澄み渡るような、そんな感覚にリシアは陥る。
「フリーデルにちゃんとした治療を受けさせないといけないしな」
「そうそう」
シラーは頷き、異種族の冒険者二人にも笑みを向けた。
「ですから、ご心配無く。彼女達は僕らが送ります」
「……そんなに警戒してくれるな」
呪術師と班長は笑顔で応酬する。しかし和かな両者の間に冷たい緊張が走っている事を察して、リシアは所在無さげに成り行きを見守る。
「まあ、君らは腕が立ちそうだし、同じ学苑の生徒の方が安心だろう。悪かったね。押し売りみたいな事をしてしまって」
申し訳なさそうに……という風でも無く、あっさりとケインは引き下がる。
「いえ、押し売りだなんて」
「また浮蓮亭で会おう」
ひらひらと呪術師は手を振る。アキラが名残惜しそうに、礼を一つ返した。
「それじゃあ、行こうか」
先ほどよりは呼吸が落ち着いているフリーデルを背負い、シラーは二人に声をかける。それから異種族二人に向き合い、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます、お陰で彼も楽になったようで」
「いやいや。君ともまた縁があると良いけどね」
僅かな緊張感を残したまま、両者は会話を交わす。フェアリーの方は応対を組合代表に任せる事にしたのか、長椅子の傍に置いていた荷物を背負い始めた。
その様子を相方が先ほどと同じ食い入るような目で見つめている事に気付き、リシアは訝しむ。
何がそんなに気になるのだろうか。
「よーし、はぐれるなよ」
シラーとデーナが立ち去ろうとする。リシアは軽く夜干舎の二人に会釈をして、佇むアキラの手を引く。
「帰るよ」
「……うん」
名残惜しそうな横顔だった。
夜干舎にもアキラにも悪い事をしたような気がして、リシアは些か心苦しくなる。
しかし先を行く先輩の後ろ姿を見ると、それ以上に胸が高鳴った。経験の浅い後輩を放って置けなかったのだろう。それでも先ほどの申し出にリシアは喜びと安堵と、妙な期待を覚えたのだ。
五人は広間を出て、洞口へと向かう。しばしの沈黙の後に、シラーが口を開いた。
「リシア、だったね。さっきの冒険者は知り合いかな」
「はい。たまたま同じ店を拠点にしていて……悪い人達ではないです」
「そうかもしれないね」
シラーが微笑む。いつも通りの柔和な笑みだが、微かな違和感をリシアは感じた。
「でも、警戒した方がいい。護衛を付けると善意のような提案をして、後から護衛代を請求するタチの悪い冒険者もいるからね」
リシアは言葉を失う。シラーには夜干舎が「タチの悪い冒険者」に見えていたのだろう。何か反論しようとして、口をつぐむ。確かに、リシアも彼らに気を許しすぎていたところがあったのかもしれない。自省の念が湧く。
「……」
対してアキラは、珍しく不機嫌そうな表情をしていた。いつもの無表情とは明らかに違う、批難と不信感が入り混じった顔の同行者を見て、リシアはため息をついた。
そんなにガッカリしなくてもいいのに。




